第4話 光の輪の夕べ──掘るな、と誰かが言った
九月の終わり。
日が落ちるのが、目に見えて早くなってきたころ。
金胎大学の中庭の芝生に、ひとつ、またひとつと人の輪が増えていった。
正門近くの掲示板には、紙のチラシが一枚だけ貼られている。
【学生有志による対話の会・特別屋外セッション】
場所:中庭芝生 時間:十七時〜(出入り自由)
※雨天時は自治会室
手書きの文字。飾りもイラストもない。
それでも、その紙を一人が見て、友人に声をかけ、友人がまた誰かを連れてくる。
夕方のキャンパスは、いつもより少しざわついていた。
芝生の中央には、簡易の丸椅子がいくつも並べられている。足りない分は、地面にそのまま腰を下ろせばいい。
「みんな、適当に座って。輪になってくれたら、それでええから」
輪の中心に立つ浅野凛が、声を張った。
顔なじみのメンバーもいれば、今日初めて見る顔も多い。
金胎大学の学生だけではない。立命館、大谷、龍谷、関大、市大、京大──噂を聞きつけてやってきた他大学の学生も、輪の中に混ざっていた。
輪の少し外には、近所の喫茶店のマスターや商店街の青年部の姿もある。
この場が、少しずつ大学の外にまで染み出し始めていることを、誰もが何となく感じていた。
「今日は、“テーマなし”でいきます」
凛はそう宣言した。
「宗教でも、社会でも、貧乏の愚痴でもええ。嬉しかったこと、しんどかったこと。なんでもええから、いま話したいことがある人から、話してくれたら嬉しいです」
そう言いながら、自然と輪の端に座るひとりへ視線が向く。
神代真央。
他の学生と同じように芝生に座り、膝に手を置いて周囲を見ている。
彼の周りだけ、ほんの少しだけスペースが空いていた。
(……御子様、やもんな)
口に出す者はいないが、その距離には、畏れと期待と好奇心が入り混じっている。
けれど真央は、自分から前には出ない。
今日もただ、「聞く人」として、その輪の一角に座っているだけだった。
最初に口を開いたのは、関西大学四回生の女子学生だった。
「うち、ずっと教師になりたいって思ってて……ようやく実習に行ったんですけど」
彼女は、実習先で出会った子どもたちの話をした。
貧しい家庭の子。家に帰りたがらない子。
「先生」として正しい顔をしながら、何かを押しつけているかもしれないという怖さ。
「うちは、ほんまに“救ってる”んやろか。
それとも、自分が安心したいから“正しい先生”演じてるだけなんやろかって」
輪のあちこちから、小さな相槌が返ってくる。
続いて、立命館大学の男子学生が口を開いた。
「俺、政治学やってて。最近、運動に関わる友達が増えてきたんです」
デモ、集会、署名。
「正しさ」が強くなるほど、「敵」もくっきりと描き出されていく。
「声を上げることと、誰かを殴ることの境目が、だんだん分からんくなってきて。……怖いんです」
別の女子学生が手を挙げる。
「うちは女子やから、勝手に“こうあるべき”押しつけられること、多いです。
“女やのに大学行くん?”とか、“そんなに勉強してどうするん?”とか」
彼女は自分の膝をぎゅっと握りしめた。
「それで……うちも時々、自分から“女らしさ”演じてしまう。……しんどいです」
それぞれが、それぞれの場所で感じている窮屈さを話していく。
貧しさ。
名前による差別。
家庭のしがらみ。
宗教への違和感──だが、簡単には捨てられない拠り所でもあること。
輪の中の温度が、少しずつ上がっていくのを、真央は静かに聞いていた。
やがて、誰かが真央の方を見た。
「……神代さんは、どう思いますか。さっきの“先生”とか、“運動”の話とか」
視線が、一斉に集まる。
真央は、少しだけ間を置き、言葉を探した。
「……ぼく、自分が“先生”になったことも、“運動”をしたこともありません」
正直にそう言ってから、続ける。
「ただ、さっきの話を聞いていて、ひとつだけ思ったのは──」
夜の気配が、少しだけ濃くなる。
「“正しいこと”をしようとするほど、自分のことが見えにくくなるんやろな、って」
輪が静まる。
「“誰かのために”って言葉は、すごく強いです。
でも、その裏で、自分の傷とか、寂しさとか、“自分が認められたい気持ち”が見えなくなってしまうこともあると思う」
教師志望の彼女が、はっと顔を上げる。
「だから、ぼくは──」
真央は、ゆっくり空を見た。
「“正しいかどうか”より、“いま、ほんまにしんどいのはどこなんか”を、一緒に見たいです。
“救う側”のしんどさも、“救われる側”のしんどさも、どっちも」
拍手は起きない。
その代わり、息を呑む音が、あちこちで重なった。
「……俺、正直、“世界を変えたい”とか考えたこと、ないです。ただ、自分の生活で精一杯で」
ぽつりと漏らした男子学生に、凛が笑って応じる。
「それでええと思うよ。充分やん。
世界、そんな簡単に変わらんし、変わらんでええねん。うちらが“自分”のことをちゃんと見て、隣の人とちゃんと話せるようになるだけでも、だいぶ違うはずやから」
輪の中に、また少し笑いとざわめきが戻ってくる。
そのとき、芝生の端で誰かが手を叩いた。
「おーい、差し入れ持ってきたで!」
喫茶店のマスターが、サンドイッチとポットを抱えて歩いてくる。
続いて、コンビニ袋を抱えた学生たちが、ジュースや菓子をぽんぽんと置いていく。
「バイト先で余ったパン、もろてきた!」
「商店街の人らが“あの子らにやっとき”って」
輪は外へ外へと広がり、芝生の縁まで人が座り始める。
夕方の光が薄れ、やがてキャンパスの外灯がひとつ、またひとつと灯った。
誰かがギターを持ち出し、小さな音でコードを鳴らし始める。歌というほどでもない、会話の隙間を埋めるだけの静かなリズム。
真央は、その音を聞きながら、静かに笑った。
自分が何かを「導いている」感覚はない。
ただ、輪のどこかに、一緒に座っているだけだ。
(……こういうのを、母さんは見たかったんやろか)
ふと、そんな思いが胸をかすめる。
**
少し離れた街路樹の陰に、ひとりスーツ姿の男が立っていた。
三十代前半。地味なメガネに細い体つき。
金胎教本部から、「様子を見るため」に派遣された人間だった。
(……煽動、って感じやないな)
男は心の中で呟く。
誰かが叫んでいるわけでもない。
シュプレヒコールも、プラカードもない。
ただ、若者たちがそれぞれの傷や希望を語り、その言葉を誰かが受け止め、また別の誰かが重ねていく。
(危ないのは、“命令”やなくて、“目覚め”かもしれん)
ペンを走らせながら、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
(この人は……火やない。けど、灯りを分ける人や)
そう思った瞬間、自分が何を書こうとしているのかに気づき、苦く笑った。
(俺まで影響受けてどうするねん。……せやけど、自分が学生やったら、多分あの輪に座っとったやろな)
それでも、ペン先は止まらなかった。
**
同じ時間。
大学の会議室では、教授陣が小さなテーブルを囲んでいた。
「──で、学長。中庭でやっているあの集まり、正式にはどういう位置づけになります?」
倫理学の宮内仁が、湯呑を置きながら訊ねる。
窓の外には、さきほどの芝生の輪が小さく見えていた。
「“学生有志の自主活動”です。大学としては、場所を貸しているだけですよ」
加茂裕作は、静かな声で答える。
宗教社会学の高村理が、口元だけで笑った。
「しかしまあ、面白い光景ですね。宗教系大学のど真ん中で、“宗教の話をしてもいいし、しなくてもいい場”ができるとは」
「面白いだけで済まない可能性もあります」
宮内が、わずかに眉をひそめた。
「六〇年代の学生運動も、最初は“対話”から始まった。若者の“正義感”と“被害者意識”が一点で共鳴すると、あっという間に炎になる」
高村は肩をすくめる。
「だからこそ、今度は“炎”にならない形を探さなあきません。少なくとも、あそこにはまだ“敵を作る言葉”はほとんど出ていない」
加茂は窓の外に目を向けた。
輪の中。
凛が笑い、真央が誰かの話をじっと聞き、別の学生が身振りを交えて何かを語っている。
その光景は、どう見ても「危険な集会」には見えなかった。
「……私はね」
学長は湯呑をそっと置いた。
「大学は、“熱”を消す場所やとは思ってません。ただ、“熱だけで動かないようにする場所”ではありたいと思うんです」
宮内が、興味深そうに顔を上げる。
「神代君のことも、含めて?」
「ええ。彼は熱を煽ってはいない。むしろ、人の話を聞き、言葉を返すことで、“自分の足で立たせている”ように見えます」
高村が肩を揺らした。
「それが一番、宗教団体には嫌がられるタイプかもしれませんね」
加茂は、その言葉には何も答えなかった。
ただ、外の光の輪を見つめていた。
あの光がどこまで届き、どこから誰かにとって“危険”に見え始めるのか──
それを見届けるのも、この大学の責任だと感じていた。
**
夜が更けたあと。
山裾の金胎教本部では、ひとつだけ灯りがともっていた。
畳の間の正面には、おおこがね様の古い掛け軸と、弥生の写真。
写真の中の弥生は、どこか遠くを見て微笑んでいる。
その前に座るのは、阿倍静子。
若い頃から弥生に仕え、今や教団を陰で動かす最古参のひとりだ。
彼女の前には、さきほど大学に派遣されていたメガネの男が、正座していた。
畳の上には、報告書が一枚置かれている。
「……以上が、昨日の“対話の会”の様子です」
静子は黙って紙に目を通した。
誰も叫んでいない。
誰も“敵”を名指ししていない。
ただ、若者たちがそれぞれの悩みを語り、神代真央が静かにそれを受け止め、言葉を返している。
最後の一行で、静子の目が止まった。
《煽動ではなく、“覚醒”に近いと感じました》
「……あなたは、危険だと思いましたか」
問いは静かだが、重い。
男は一瞬言葉を選びかけてから、正直に答えた。
「“危険”というより、“まっとうすぎる”と感じました。
誰かを敵にすることなく、それでも、自分のしんどさを自覚させる……そんな場でした」
静子は視線を写真に戻した。
弥生の笑顔。その光の下で、多くの人が救われ、多くの人がすがりつき、村や家庭が揺れたことを彼女は知っている。
(……あの炎を、もう一度見るわけにはいかない)
「下がっていいですよ」
男が退室すると、静子は奥の襖を開け、さらに小さな部屋に入った。
そこは、弥生が生前よく籠もって祈ったとされる一角だった。
床下には、かつて金脈を求めて掘られた坑道につながる古い祠がある。
静子は部屋の中央に座り込み、手を合わせた。
「……弥生様」
目を閉じると、若い弥生の姿が浮かぶ。
坑道跡の前でふと立ち止まり、こちらを振り返って言った、あの言葉。
──もう、掘るな。
あのとき、弥生は確かにそう言った。
金と栄華を求めて、地面と自分自身を掘り続ける男たちに向かって。
だが、その言葉は、いつしか教団の中で別の意味を帯びていった。
“掘るな”──これ以上、光を掘り起こすな。
“掘るな”──安易に奇跡を求めるな。
“掘るな”──組織を揺らす火種を見つけるな。
静子は、弥生の声を思い出しながら、自分なりの意味を固めていく。
「……弥生様。あなたの御子は、あなたとは違う光を持っておられます」
手を合わせたまま、低く呟いた。
「あなたの光は、“施す光”でした。疲れた者を照らし、すがらせ、休ませる光。
けれど真央様の光は、“歩かせる光”です。自分の足で立て、と背中を押してしまう」
それは、信仰にとって致命的な違いだと、静子は思っていた。
「人々が自分の足で歩き始めたら……“囲い”は必要なくなります。
囲いなくして羊は保てません。羊が羊であることをやめれば、教団もまた、教団であることをやめてしまう」
声は震えていない。ただ、冷静な確信に満ちていた。
「光は、制御されねばなりません」
そのとき、襖の外で気配がした。
「……静子さん」
美沙の声だった。
神代信吉の姉であり、真央の叔母。金胎大学の副学長でもある。
「どうぞ」
静子が言うと、美沙は少しだけためらってから、部屋に入ってきた。向かい合って座る。
「大学の様子は、もう聞いてはるんですね」
「ええ。あなたの甥御さんは、たいそう人気のようで」
皮肉めいた響き。しかし、敵意そのものではない。
「……静子さん。率直に言います。あの子は、檻に入るタイプの人間やないです」
「檻、とは」
「教団の枠ですよ。弥生様もそうやった。
あの人は、教団のために奇跡を起こしてたんやない。目の前の一人を見て動いて、それが結果的に教団の拡大になっただけです」
美沙は、弥生と過ごした日々を思い出しながら続ける。
「真央も同じです。目の前の一人の話を聞いて、答えてるだけ。それが結果として輪を広げてる。……それを“危険”って言うんやったら」
美沙の視線が、真正面から静子をとらえる。
「危険なんは、“枠”の方やと思います」
一瞬、空気が張り詰めた。
静子は、ゆっくりと息を吸い、言葉を返す。
「弥生様は、最後にこう仰いました。──“掘るな”と」
「それは金脈の話やろう。欲に目がくらんで、村を壊すなって」
「私は、違う意味にも聞こえました」
静子の声は低く、しかしはっきりしていた。
「人々の“奇跡への欲”を、これ以上掘るな。組織の根を、むやみに掘り返すな。炎になる前に、火種のうちに管理しろ──と」
「……都合よく聞き替えてへん?」
美沙の口調に、初めて棘が混じる。
「弥生様は、“守れ”と言ったのかもしれません。けれど、“何を”守るかは、わたしたちが決めなければならない」
静子は、まっすぐに言う。
「私は、教団を守ります。ここで生きてきた人々の生活と、寄りかかる場所を守ります。そのためなら、光を檻に入れることも、やむを得ないと考えます」
美沙は、静かに首を振った。
「うちは、あの子を守りたい。弥生様が命削って産んだ、たった一人の子や。“金胎教の御子”やなく、“神代真央”として生きられる場所を守りたい」
二人の視線が、畳の上でぶつかった。
どちらも嘘をついていない。どちらも、自分の「正しさ」を信じている。
やがて静子が、先に視線を落とした。
「……いずれ、決めなければならない時が来ます」
静かに告げる。
「誰が“掘りすぎて”、誰が“守りすぎた”のか」
彼女は弥生の写真に向き直り、もう一度手を合わせた。
「そのとき、弥生様がどちらの側に立つのか。それだけは、いつかはっきりするでしょう」
美沙は何も言わず、静かに立ち上がると、深く一礼して部屋を出ていった。
襖が閉まる。
残された静子は、薄暗い部屋の中でひとり、弥生の写真を見つめ続けた。
(掘るな……)
あの声は、今も耳に焼きついて離れない。
だが、その「地面」がどこを指していたのか──金山の土なのか、教団の根なのか、人々の心なのか。
それを確かに覚えている者は、もう誰もいなかった。
**
その夜の少し前。
金胎大学の芝生では、最後の数人が名残惜しそうに立ち上がっていた。
「……今日は、ここまでにしよか」
凛の声に、輪のあちこちから拍手ともため息ともつかない音が上がる。
「また来月も、こんな感じでやりましょう。テーマは決めへん。来たい人が来て、話したいことを話す。それでええと思う」
人々が、三々五々、校門の方へ歩き出す。
差し入れの残りをまとめる者。ゴミを拾う者。
ただ空を見上げて立ち尽くす者。
少し離れた場所で、真央は夜空を見上げていた。
秋の入口の空に、星がいくつか滲んでいる。
(……何かが、掘られてしまったんやろうか)
誰かの心か。この大学か。
それとも、自分自身の底なのか。
まだ分からない。
ただ、芝生に残る人々の体温と、地面から立ち上る夜の匂いだけが、妙に鮮やかだった。
その暗がりの向こうで、スーツ姿の男が一度だけ振り返り、胸の内で短く呟いた。
(……この光は、檻に入らへんで)
その報告が、のちにどんな決断を呼ぶのか。
そのときは、まだ誰も知らない。
──掘るな。
祠の奥で、土をこするような微かな音がした気がした。
静子は振り向かなかった。
聞こえたのは気のせいだと、自分にだけ告げた。
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