第13話 別れの春──それぞれの足で歩き出す
――三月、卒業式の前日。
真央は、夕暮れの校舎の廊下をゆっくり歩いていた。
窓の外に流れるオレンジ色の光が、教室の床に長い影を落としている。
鹿児島からこの大阪の高校に転入してきて、二年。
同じ景色の中を、毎日往復してきた。その道が、明日で終わる。
終わると分かった途端、どの景色も少しだけ優しく見えた。
教室前の掲示板には、卒業式の予定表と進路一覧が貼られている。
神代真央──金胎大学・総合文化学科(推薦)
金田恵一──市役所・清掃局(採用内定)
真央は、自分の名前よりも、恵一の行で足を止めた。
(……あいつ、本当に決めたんだ)
誰に褒められるでもない。
派手さもない。でも、一番“地に足のついた選択”だと真央は知っていた。
ちょうどそのとき、背後から声が飛んだ。
「おっ。真央、見とったんか」
振り返ると、制服のポケットに手を突っ込んだ恵一が歩いてきた。
どこか照れくさそうで、それでも胸を張っている。
「……おめでとう、恵一」
「なんや、お前に言われると、こそばゆいな」
「清掃局、すごいと思う。あの仕事……誰かがやらないと、町は回らないから」
恵一は鼻で笑った。
「いや、すごないって。ゴミ収集車乗って、朝から晩まで町ん中かけ回るだけや」
「そうやって町を支えるんやろ。僕は好きやで。恵一っぽくて」
「お前、前から思っとったけど、そういう真っ直ぐ言うのずるいわ」
そう言いながらも、その笑みはどこか泣きそうだった。
「……でもな、真央。俺がこの仕事に決めたん、理由は一個だけや」
「理由?」
「お前が、間違った方向行っても、地べたから見張れるやろ」
さらりと言って、恵一は肩をすくめる。
「どんだけ偉なっても、どんだけ周りが担ごうとしても……俺は“地べた”の仕事やから、ちゃんと見えるねん」
真央の胸が、きゅっと詰まった。
「恵一……ありがとう」
「ありがとう言うな。友達として言っとるだけや。
もしお前が変な方向行ったら、清掃局やけど、全力で止めるからな」
「うん。……それ、心強い」
「せやろ」
恵一は照れ隠しのように窓の外を見た。
「あ、そうそう。麻衣と陽二も、明日の卒業式来るで。
“真央兄ちゃん見たい”って、うるさいくらいや」
その言葉に、真央は小さく息を飲んだ。
胸の奥で、何かが温度を持って灯る。
**
翌日。卒業式。
講堂は、早春の光に満たされていた。
花の匂い、保護者の服の布擦れ、教師の足音。
どれも、この三年間で一番はっきり聞こえる気がした。
式が終わり、最後のホームルームに向かう。
教室に入ると、宮本志桜里が黒板に向かって何かを書いていた。
──「一人ひとりに、道があります。」
志桜里はチョークを置き、振り返って微笑む。
「真央君。卒業、おめでとう」
「先生、二年間ありがとうございました」
「あなたはきっと、この学校の誰より“名前”に縛られてきたと思う」
志桜里は、黒板の言葉をちらりと見やった。
「でもね、名前は、あなたの未来を決める道具じゃないの。
あなたが選ぶ道の“背景”になるだけ」
真央は、静かに頷いた。
「……少しだけ、分かってきた気がします」
「それで十分よ」
志桜里は、ふっと表情を引き締める。
「金胎大学に行っても、“御子”より“神代真央”でいること。
それから……あなたを支えてくれる人たちを、大切にしなさい」
真央は瞬きをした。
「どんなカリスマもね、最後に道を戻してくれるのは、“友達”みたいな人たちだから」
恵一の顔が、自然と浮かんだ。
「……はい。忘れません」
**
校門の前は、人と花束とカメラで賑やかだった。
「真央兄ちゃん!!」
声と同時に、勢いよく体当たりされる。
「うわっ……陽二、ちょっと」
「卒業おめでとうっ!」
陽二が、ぐしゃぐしゃの笑顔で抱きついてくる。
少し後ろから、麻衣も駆け寄ってきた。
「真央兄ちゃん、ほんま大人になったな……なんか眩しいわ」
そこへ、少し遅れて恵一がやってくる。
「真央、ほんま、おめでとう」
「恵一もな」
「おう」
四人で笑う。
これが“最後の高校生の時間”だと、全員がどこかで分かっていた。
別れの言葉は、長くならなかった。
「ほな、行くわ。また……そのうちな」
「うん。また」
「また」がいつになるかは分からない。
それでも、その二文字を信じられるくらいには、互いの足元を知っていた。
**
同じ頃、金胎大学の小さな会議室。
浅野凛、佐伯慎也、岩城響子の三人が、安っぽい丸テーブルを囲んでいた。
机の上には、学祭のプログラムと、この春からの予定表。
「……あの人、来月ほんまに大学入ってくるんやな」
凛が、ペンをくるくる回しながら言う。
「来るやろ。今日のパネル見て、大学側も“使いたい”思うはずやし」
慎也が、苦笑混じりに肩をすくめた。
「せやからこそ、や」
響子が、腕を組んだまま口を開く。
「うちらが勝手に“御子様像”作ってどないすんねん。
ここは“対話の会”やろ。“青年部”にされるんは、最後の最後でええ」
「せやな」
凛は、去年のサークル申請書のコピーを見下ろした。
【金胎大学 学生有志による対話の会】
教団の内部で、いずれこの集まりが「金胎大学青年部」と呼ばれるようになるとは、まだ誰も知らない。
今はただ、名もない小さな円のままでいたかった。
「“御子様”としてやなくて、“神代真央さん”として来てもらう。……そこだけは、絶対外したらあかん」
「了解、代表」
「代表ちゃう言うてるやろ」
それでも、三人の目は、同じ方向を見ていた。
**
その夜。真央は自室の机に座っていた。
机の端には、卒業証書が立てかけてある。
窓の外では、まだ冬の名残を引きずった風が吹いていた。
それでも、ときおり混じる春の匂いが、部屋の中まで入り込んでくる。
(……これからだ)
担がれないように。流されないように。
それでも、誰かの役に立てるように。
その全部を一度に叶えられるとは思っていない。
ただ、嘘をつかないで歩くことだけは、ここで決めておきたかった。
机の引き出しには、『人間の条件』と、金胎教の資料と、
「学生有志による対話の会」のチラシが重なって入っている。
「……僕は、僕でいる」
小さくそう呟いて、明かりを落とした。
この先、自分が“沈黙の青年王”と呼ばれる日が来るかもしれないことなど──
もちろん、まだ知る由もなかった。
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