第8話 開かれた門、閉ざされた名
昭和五三年の春。三月の薄曇りの朝、JR三田駅前は、いつもとまるで違う空気をまとっていた。
テレビ局の車両が並び、カメラを担いだスタッフが校門に向かって走り、「御子様来られるんですか?」「大学側はコメント出しますか?」そんな声が、駅前のロータリーにざらりと溜まっていた。
そのざわめきの中心が──自分の名前だと、真央はまだ信じられなかった。
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開学式の招待状は、二週間前に大阪の寮へ届いた。父の信吉からは短い一文だけ。──行くか行かないかは、お前が決めなさい。
しかし、美沙からの電話は違った。
「真央、来なさい。逃げてもしんどくなるだけや。見とくんや、自分の“名前がひとり歩きする瞬間”を。」
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バスを降りると、白い校舎が晴れ間を待つように立っていた。金胎大学──寄付金と期待と神話で建てられた、巨大な箱。
校門の前には、既に記者たちの群れがいた。スーツの男がメモを片手に声を張る。
「神代真央くん、来ますか?“御子様”が初めて公の場へ姿を見せると聞いてます!」
その呼び名に、美沙の眉がぴくりと動いた。
「……あんた、行くで。下向くな」
真央は小さく頷いた。
歩き出すと、フラッシュが弾けた。
「神代真央さん!お母様である弥生様の後継として──」
「開学式で挨拶はされますか?」
「青年部結成の噂は本当ですか?」
熱を持った無数の問いが飛び、カメラが顔を覗き込む。真央は足を止めそうになったが、美沙が横で小さく囁いた。
「大丈夫。呼吸だけしとき」
真央は深く息を吸い、吐き、前を向いた。
「……すみません。今日は式を見に来ただけです。他のお話は、また……落ち着いた時に」
たったそれだけ。けれど、報道陣がざわつく。
「やっぱり話せる!」「表情が違うぞ」
「“御子様”の発言、初めてだ!」
情報は勝手に膨らんでいく。真央の意志とは、全く関係なく。
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体育館の中は、すでに人で埋まっていた。正面の壇上には、大学の校章と「金胎大学開学式」の横断幕。その左右には、弥生の写真と、母子像を模したパネルが掲げられている。白地に黄金の輪郭で描かれた弥生。その腕に抱かれた幼い御子。背景の金の河と、跳ねる光の魚。
それは、父・信吉の手帳の中だけにあったはずの祈りのイメージが、増幅されて“商品化”された姿だった。
来賓席の一角に、真央と美沙が並んで座る。斜め前には県知事、市長、文部省の役人。後方の席には、初年度の入学予定者や、近隣の高校生たちが座っている。
ざわめきの中、式次第が読み上げられた。
「──理事長挨拶、来賓祝辞、学長就任の辞……」
壇上に上がった初代学長は、外部から招かれた穏やかな表情の老教授だった。金胎教との距離を意識してか、「学問の自由」と「開かれた大学」を繰り返し強調している。
だが、その背後には常に、弥生の肖像が見下ろしていた。
「続きまして──特別来賓のご紹介をいたします」
司会の声で、真央の背筋が少しだけ固くなる。
「金胎教初代巫女教祖・弥生様の御子──神代真央様」
一瞬、空気が揺れた。
拍手が起こる。驚きのざわめきと、興奮が混じった視線が、一斉に真央に向けられる。
真央はゆっくり立ち上がり、軽く頭を下げた。その間、何も考えられなかった。ただ、自分の名前だけが体育館の天井に反響しているように感じた。
──“神代真央様”
それは、自分のものでもあり、どこか自分の手から滑り落ちていく音でもあった。
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式を終え、来賓控室に移動すると、父・信吉が立っていた。その顔には安堵と痛みが同時に刻まれていた。
「真央……よく来てくれた」
「こちらこそ、父さん」
少し沈黙が流れた後、信吉は小さく言った。
「報道は……つらいだろう。しかし、お前が逃げなかったことで救われた者もいる。私も、その一人だ」
真央は返す言葉を探したが、見つからなかった。その代わり、父の手がそっと肩に触れた。触れたのは数年ぶりだった。
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体育の館外に出ると、一気に騒がしくなった。テレビ局のカメラ、マイクを持ったレポーター、フラッシュの光。
「理事長先生、今回の大学設立の狙いは?」
「地域への貢献と、人材育成です。金胎教は、その一部を支えるにすぎません」
理事長がきれいな言葉を並べる。そのすぐ横で、別の記者が、美沙のほうへ向かおうと身じろぎした。
「すみません、副理事……」
「コメントは後ほど広報から出すわ。今は学生さん優先で」
美沙は笑顔を崩さないまま、巧みに動線を遮った。だが、記者たちの視線は次第に一点へ集まっていく。
「──あの人ですか?」
「そう。御子様」
体育館脇の通路で、真央は一人、式典用のバッジを外していた。そこへ、カメラマンを伴った記者が近づいてくる。
「神代さん、NHKの山内です。少しだけ、よろしいでしょうか」
美沙がすぐさま間に入ろうとしたが、真央は手で制した。
「……一言だけなら」
「ありがとうございます。まずは、今日この場に立たれてのお気持ちを」
マイクが差し出される。レンズが光る。周囲のざわめきが遠ざかっていく。
「……ここで何かを語るほど、僕は、まだ何も知りません」
自分の声が、自分のものとは思えないほど落ち着いて聞こえた。
「ただ──どこで学ぶにしても、人のことを知るところから始めたい。それだけです」
記者は満足げに頷いた。
「ありがとうございます。“人を知るところから始めたい”──大変印象的なお言葉です」
その言い回しに、微かな違和感が残った。
真央は「どこで学ぶにしても」と言った。だが、記者の耳には、あるいは視聴者の耳には、「ここで人を知りたい」と聞こえるのだろう。
ほんの数語の切り取りで、意味は簡単に裏返る。それが、これから自分の名前の上で繰り返されることなのだろう──嫌でも、それだけは理解できた。
**
午後、式典と記者会見が終わる頃には、真央の体は鉛のように重くなっていた。
「お疲れ。真央、よう踏ん張ったな」
車を待つロータリーで、美沙がお茶缶を渡してきた。
「悪いこと言わん。今日ぐらい、腹立ててもええねんで」
「……腹は立ちますよ」
真央は、少しだけ笑った。
「でも、それ以上に……よく分からないんです。僕の言葉じゃない言葉が、僕の名前で歩き始める感じがして」
「それが“偶像”や。人は勝手に作って、勝手に飾って、勝手に拝む」
美沙は、遠くに並ぶ校舎を見上げた。
「うちらは、その“勝手”にどこまで付き合うか決めなあかん。全部壊すか、黙って利用されるか、その中間を必死に探るか……な」
黒塗の車が到着する。二人は乗り込み、席に座った。窓の外で、まだカメラが動いている。
「真央」
「はい」
「あんた、さっきよう言うたな。“どこで学ぶにしても、人を知るところから始めたい”」
「……本当のことですから」
「せや。ええ言葉や。ニュースじゃ、“ここで人を知りたい”とか切られて流されるやろけどな」
美沙は片目をつぶって見せた。
「でもな。切り取られても、変わらん核はある。あんたが、自分の中にその核を持っとる限りは」
真央は、窓の外に視線を移した。夕方の光が、白い校舎を斜めに照らしている。
来年、あの中にて、自分の四年間が始まる。その事実だけが、妙に現実味を帯びて胸に沈んでいった。
**
その日の夕方。大阪生野にある金田家の薄暗い居間で、古いテレビが青白く光っていた。
「……これ、真央兄ちゃんの学校ちゃう?」
陽二がリモコンを握ったまま固まっている。画面の隅には、「宗教法人金胎教が設立・金胎大学開学」と見出しが出ていた。
ナレーションが流れる。
『信者からの寄付と地方自治体の誘致を背景に、兵庫県三田市に新たな私立大学・金胎大学が開学しました──』
式典の様子、理事長の挨拶。そしてほんの一瞬、来賓席に座る真央の横顔が映る。
『初代巫女教祖・弥生の御子とされる神代真央さんも出席。「人を知るところから学びたい」と語りました』
「ほんまや……真央兄ちゃん……」
麻衣が小さく息を呑んだ。
「なんか、偉い人みたいやな……」
恵一は黙って画面を見つめていた。映像の中の真央は、少し痩せたようにも、少し大人びたようにも見える。
「──“ここで人を知りたい”って。真央兄ちゃん、ええこと言うやん」
麻衣が、ナレーションを真似るように呟いた。
恵一の胸に、チクリとした違和感が走る。真央なら、もう少し違う言い方をする気がした。もっと曖昧で、もっと自分のことを引き受けた言い方を。
だが、テレビの中では、すでに“御子様の言葉”として完成している。
「……すげぇな、あいつ。最初からどっか違う思てたけどよ」
それでも、声として出た言葉はそれだけだった。
「兄ちゃん?」
「なんでもない。……片付けるで。皿、持ってきて」
陽二と麻衣が台所に走っていく。
テレビの中では、まだ白い校舎と人混みが映されていた。その光だけが、薄暗い部屋をぼんやり照らしていた。
**
その頃、真央は寮の自室に戻っていた。
玄関前には、まだ数人の記者が残っていたが、寮母が「今日はここまで」と追い払ってくれた。
部屋の灯りをつける。机の上には、開きかけの本が一冊置かれている。アーレントの『人間の条件』。ふとページを開くと、あの日の一節が目に留まった。
──赦しとは、未来を閉じる力ではなく、未来を開く力である。
未来が閉じる音と、開く音が、同時に胸で重なった。今日のフラッシュは“閉じる音”。自分の言葉は、わずかな“開く音”だった。
真央はそっと目を閉じた。そして、背表紙を指でなぞってから、カーテンを少しだけ開けた。
窓の外に、大阪の夜景が広がっている。ネオンサインと街灯の明かりが、かすかな靄に滲んでいた。
今日、自分の名前は、勝手に一人歩きを始めた。ニュースになり、見出しに乗り、知らない誰かの口の中で咀嚼される。
それは、痛みというよりも、冷たい風に近かった。胸の奥に、言葉にならない感覚が沈んでいく。
──僕は、望んだわけじゃない。
──でも、逃げるわけでもない。
ゆっくりと、心の中で言葉を組み立てる。
──ただ、この名前に飲み込まれないように。“神代真央”という殻の中に閉じこもらないように。自分の足で立ち続ける。
その決意は、派手な灯りではなかった。静かに沈殿していく「重さ」だった。不思議なことに──その重さは、なぜか少しだけ温かかった。
真央は、カーテンを閉めた。外の街の光が、薄く揺れた。この夜、神代真央は初めて、“自分の名前が持つ影”と真正面から向き合った。
その影は、やがて青年部を生み、教団全体を揺さぶる波となっていく。けれど今の彼はまだ、その先のことを、何ひとつ知らないままだった。
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