第4話 神の嫁(後半)

  四十九日の夜が明けて、信吉は久しぶりに庭に出た。冬の光は薄く、山の端が白く霞んでいる。

 柱の上に、郵便の束が置かれていた。差出人の名を見た瞬間、胸が痛んだ。――姉、美砂。


 封を切ると、墨の匂いが立ちのぼった。短い手紙だった。


 《信吉へ。

 父の死に顔を見たとき、母の声を思い出しました。

 「神に仕える者は、神に食われる」と。


 弥生という女に、母の匂いを感じます。

 どうか、見誤らないで。

 彼女は神になる人ではなく、神を呼ぶ人です。   美砂》


 文字はわずかに震えていた。紙の端には、にじんだ涙の跡があった。

 信吉は手紙を火にかざし、静かに燃やした。灰が舞い上がり、陽光の中で金色に光った。


 「……母さんも、同じだったのか」


 呟きは風に消えた。遠くで、堂の鐘の音がした。


 その夜、矢萩が再び神代家を訪れた。

 外では雪が降り始め、庭の石灯籠に白が積もっている。


 「信吉くん。村のために、決断をしてほしい」


 矢萩の言葉は静かだった。


 「薬師堂を再び開くには、神代の名と、巫女の祈りが要る。形式を保たねば、信仰は形にもならん。

  弥生を、神代の嫁に迎えてほしい」


 信吉は息を詰めた。

 その言葉の裏に、父の遺志と矢萩の打算、その両方が重なって見えた。


 “神代と矢萩の合一”――それは、この村の再生であり、同時に終わりの始まりでもある。


 襖の向こうに、弥生がいた。影越しに、淡い香が漂う。ゆっくりと開いた襖の隙間から、白い指が覗いた。


 「……私は、神代の名を穢しません」

 「ただ、祈りを継がせてください」


 声は澄んでいた。だが、その奥に、炎のような狂気がかすかに潜んでいた。

 信吉は、それを見抜きながらも頷くしかなかった。自分の意志と、家の名とが、同じ方向を向いていないことを知りながら。


 その夜、庭の灯籠が風で倒れた。雪が、静かに燃えるように見えた。


 婚礼は簡素だった。

 村人はそれを「再興の儀」と呼び、堂の前に灯をともした。祭壇の奥には白布が掛けられ、その下に“おおこがね様”が眠っている。


 弥生は白装束に身を包み、信吉の隣に立った。矢萩が祝詞を読み上げる声が、冷たい空気に響く。

 風が吹き、布がわずかにめくれた。金色の粒が、微かに光った。


 その瞬間、弥生が微笑んだ。その笑みは、祈りでも歓びでもない、“何かを思い出す者”の表情だった。


 信吉の胸の奥で、母・ふさの声が蘇る。

 ――掘るな。掘るな。


 だが、もう遅かった。村は再び、灯をともしてしまったのだ。


 婚礼の夜、弥生はひとりで堂に入った。

 蝋燭の火が揺れ、白布の奥に影が動く。彼女はゆっくりと膝を折り、祈り始めた。


 「おおこがね様……私は、この身を器にします」


 声は風に溶け、堂全体が呼吸を始めたようだった。その光景を、信吉は戸の隙間から見ていた。


 弥生の髪が、ふさのように揺れている。その姿に抗えず、彼は堂に踏み入った。


 「……弥生」


 弥生は振り向かずに言った。


 「神は、血を求めています」


 信吉は、何も言えなかった。灯の揺らぎの中で、二人の影が一つになった。


 夜が明ける頃、風が止み、金の粒が空に舞った。


 おおこがね様は、再び目を覚ました。

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