第8話 借財の家と仮の身分

監察官エイラとの「取引」は、僕の拘束具が外される音で終わった。 それは、勝利の音ではなかった。 ただ、より重く、複雑な「枷(かせ)」がはめられた音だった。


「行きますよ」


リーネが、僕に短く声をかけた。 彼女の声は、森で会った時とも、審問室でエイラと対峙した時とも違う、疲れ切った「私的」な響きをしていた。


紋衛庁(もんえいちょう)の薄暗い廊下を抜け、中庭に出ると、そこに一台の質素な馬車が停まっていた。 荷台には、先にカザンさん、レン、ダグの三人が押し込められていた。 彼らの拘束具も外されていたが、その表情は僕が紋衛庁の機関室(ボイラー)の異常を指摘したと聞いて、恐怖から、さらに深い「当惑」へと変わっていた。


僕が荷台に乗り込むと、三人はビクリと体をこわばらせ、僕から距離を取った。 まるで、〈銀砂獣〉を見た時と同じ目だった。


(……分かってる)


僕は、彼らから一番遠い隅に静かに座った。


彼らにとって、僕は「一緒に逃げた仲間」であると同時に、「わけのわからない力(聖域結界)を使った怪物」であり、今また「監察官を黙らせた得体の知れない子供」なのだ。 僕が彼らの「強制送還」を止めたという事実さえ、今は彼らに届いていない。


馬車が、重い車輪の音を立てて動き出す。 (ギィ、……ギィ、……) また、あの〈運搬車(キャリッジ)〉の幻聴が耳の奥で軋む。 僕は、目を閉じた。


首筋に、冷たい「輪」の感触が蘇る。 鋳造所の、古い油と錆びた鉄の匂い。


「……ユウ」


不意に、目の前のリーネが声をかけてきた。 僕は目を開ける。 彼女は、荷台の揺れに身を任せながら、僕をまっすぐに見つめていた。


「……あなたは、エイラ監察官のやり取りで、自分と……その三人の『価値』を示した。取引は、成立した」

「……はい」

「でも、勘違いしないでほしい」


彼女は、自分の手袋をきつく握りしめた。


「あなたは『自由』になったんじゃない。あなたは、エイラ監察官と私の……〈紋衛庁〉と、私の『家』の、共同監督下に置かれた『調査対象』だ」


リーネは、まるで自分に言い聞かせるように続けた。


「私の家は、最下級の小貴族だ。議会での力は、ない」

「……エイラ監察官の狙いは、分かってる。政治力のない、借金まみれの私の家に、あなたという『爆弾』を預ける。もしあなたが暴走すれば、私の家ごと、議会は躊躇なく処分できる」

「……」

「もし、あなたの『有用性』が証明されれば、その『功績』は、私の家のものになる。……そういう『賭け』に、私は強制的に乗せられた」


僕は、何も答えなかった。この人は、僕を助けたかったわけじゃない。 僕のせいで、家の存続を賭けた危険な立場に立たされた。 僕は、この人に「借り」を作ったんだ。


やがて馬車は、中央の立派な石畳の区域を抜け、壁際にある、古い居住区へと入っていった。 馬車が止まった場所は、貴族の屋敷というより、打ち捨てられた古い倉庫のようだった。 壁にはツタが絡まり、紋章が刻まれたはずの門は、半分錆びついている。


「……着いた。ここが、私の『家』だ」 リーネが、諦めたように言った。


馬車から降りると、カザンさんたちが息を飲んだ。


「……ここが、騎士様の……家?」


鋳造所よりはマシだが、とても貴族が住んでいる場所とは思えない。


「リーネ様! おかえりなさいませ!」


奥から、年老いた執事らしき男性が一人、慌てて出てきた。


「おお……そちらの方々は?」

「……事情は、後で話す。新しい『使用人』だ」


リーネが短く答えると、執事はすべてを察したように、深く頭を下げた。


僕たちは、屋敷の中に通された。 中は、外見通り、手入れが行き届いていなかった。 家具は少なく、廊下は薄暗い。 そして。


(……この匂い)


僕は、思わず立ち止まった。 埃っぽい匂いに混じって、古い「油」の匂いがする。 鋳造所の機械油とは違う。もっと古い、ランプ用の油が染みついた匂いだ。


チリン、と。 遠くで、風鈴のような音がした。


「……っ!」


僕は、息を詰めた。


「どうした、ユウ」


リーネが、僕の異変に気づいて振り返る。


「……いえ。なんでもない、です」 僕は、首筋に蘇った「輪」の幻影を、強く振り払った。


僕たちは、客間……という名の、物置同然の部屋に通された。 そこで、リーネは一枚の羊皮紙を僕たちに手渡した。 監察官エイラが発行した、「仮身分証」だった。


そこには、僕たちの名前と、「盾騎士リーネ家の監督下にある、保護労働者」という身分が記されていた。 奴隷ではない。 だが、市民でもない。 文字通り、「仮」の身分だ。


「……ユウ」


それまで黙っていたカザンさんが、おそるおそる僕に話しかけてきた。


「……俺たちは、その……鋳造所に、戻されねえんだな?」

「……はい。監察官は、そう言いました」

「……お前が、あの……機関室の、弁がどうとか……言ったからか?」

「……たぶん」


カザンさんは、レンとダグと顔を見合わせた。 彼らの目から、僕への「恐怖」が、ほんの少しだけ薄れた。 代わりに、「安堵」と、どうしようもない「困惑」が浮かんでいる。 僕は、まだ彼らにとって「仲間」ではなかったが、「怪物」でもなくなった。 ただ、「よく分からないが、自分たちを送還から救った存在」になった。


「……リーネ様」


僕は、立ち上がって、リーネに向き直った。


「僕たちは、何をすればいいですか」

「……何、とは?」

「『労働力』として、ここに来ました。この家に、借金を返すための『功績』が必要なら、僕たちは働きます」


リーネは、僕のまっすぐな目を見て、少し驚いたようだった。 彼女は、僕を「爆弾」や「調査対象」としてしか見ていなかった。 僕が「働く」という意思を持っているとは、思っていなかったようだ。


「……そうか」


彼女は、少しだけ表情を和らげた。


「……なら、まずは、この屋敷の掃除からだ。カザン、レン、ダグ。あなたたちは、力仕事を手伝ってほしい。ユウ、あなたは……」


リーネが、僕の役割を言いかけた、その時だった。


コン、コン。 屋敷の玄関を、強くノックする音が響いた。


「……誰だ? こんな夜分に」


老執事が、慌てて玄関へ向かう。


数分後、執事が血相を変えて戻ってきた。


「リーネ様! 紋衛庁からです! エイラ監察官からの、緊急通達です!」


リーネが、受け取った封筒を開ける。 彼女の顔が、みるみるうちに青ざめていった。


「……ウソだろ」


リーネは、通達の羊皮紙を握りしめた。


「……どうしたんですか」

「……エイラ監察官からだ」


「〈銀砂同盟〉が、あなた……ユウにかけた『賞金』の額を、更新した」


リーネは、僕を睨みつけるように見た。


「……私たちが、あなたを保護したことが、もう外に漏れている。同盟は、あなたを『鋳造所から逃げた奴隷』としてではなく、『〈空冠国〉に保護された重要人物』として、奪還対象に格上げした」


「……」

「おまけに、この賞金、〈乗っ取り領〉の中だけじゃない。……この〈空冠国〉の、都市(ここ)の中にいる『賞金稼ぎ』にも、有効になった」


(ギィ、……ギィ、……)


耳の奥で、車輪の音がうるさく鳴り響く。 僕は、逃げ出したはずの「牢獄」から、全く逃げられていなかった。 それどころか、僕を保護したこの「家」ごと、新しい「追手」の標的にしてしまったのだ。


「……リーネさん」


僕は、震える声を押さえながら、言った。


「……僕は」

「……黙れ」


リーネは、僕の言葉を遮った。


彼女は、恐怖で青ざめていたが、その目は、まだ死んでいなかった。彼女は、盾騎士の目に戻っていた。


「……最悪だ。だが、エイラ監察官の『保護監督』命令は、もう出ている。今さらあなたを突き出しても、私の家は『規約違反』で潰される」


彼女は、屋敷のボロボロの扉を見た。


「……いいか。ユウ、カザン、レン、ダグ。あなたたちは、今この瞬間から、この家の『住人』だ」


「……え?」

「賞金稼ぎが、この家を襲撃してくる可能性が高い。……私たちは、それを『撃退』する」

「し、しかし、リーネ様! 我々だけでは……!」


老執事が叫ぶ。


「……ユウ」


リーネが、僕を見た。


「……あなたには、聞こえるんだろう。機関室の『ズレ』が聞こえたように。……このボロ屋敷の『弱点』も、賞金稼ぎの『流れ』も」


僕は、彼女の意図を理解した。


「……はい」

「なら、指示をしろ」


彼女は、壁にかけてあった、自分の盾と槍を手に取った。


「あなたの《タクト》で、この家を守る『布陣』を組め。……それが、あなたが『価値』を証明する、最初の『仕事』だ」

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