評判が剣になる国で、僕は家の名で戦う
橘カイト
第1話 錆びた鈴の音
チリン、と。 また、あの音がする。
遠く、霧の向こうから響いてくるような、乾いた鈴の音。 それは僕の首筋を、見えない手で撫でる。 ひやり、とした金属の感触。 もうずいぶん前に外されたはずの、「首輪」の幻影だ。
「……ユウ。おい、ユウ! 聞いてんのか!」
鋭い声が鼓膜を突き、僕は現実に引き戻された。 目の前には、湯気を立てる灰色のスープ皿。そして、それを持つ無骨な男の手。カザンさんだ。
「ぼうっとしてんじゃねえ。メシだ。食わねえなら俺がもらうぞ」
「あ……すみません。いただきます」
僕は慌てて木製のスプーンを握った。 ここは、〈乗っ取り領〉旧森区画にある、第七鋳造所。 僕たちの「職場」であり、「牢獄」だ。
床も、壁も、天井も、すべてが分厚い鉄と石でできている。 窓はない。 あるのは、天井近くに穿たれた幾つもの通気孔だけ。そこからは、外の空気と一緒に、常に錆びた鉄と古い油の匂いが流れ込んでくる。
この世界は、七柱の女神によって支えられているという。 かつては十柱だった。けれど、三百年前の「女神殺し」によって三国が滅び、この〈乗っ取り領〉が生まれた。 ここは女神の加護が届かない、呪われた土地だ。
その象徴が、僕たちの仕事――「
「銀砂」は、人が魔力……この世界でいう「紋」の力を使った際に排出される「
僕たち「労働者」の仕事は、各地から集められた汚染土壌や廃棄物を炉で溶かし、この有毒な銀砂を抽出し、無害化(という名の凝縮処理)をすること。 それは表向きの話。 実際には、抽出された高濃度の銀砂は「銀砂同盟」と呼ばれる闇市場の連中によって、どこかへ高く売りさばかれている。
この鋳造所は、そういう場所だ。
「……また、あの鈴の音だ」
スープを半分ほど胃に流し込んだところで、カザンさんが低い声で呟いた。 彼の視線は、食堂の隅にある頑丈な鉄扉――「出荷場」へと続く扉に向けられている。
チリン、チリン。
今度は僕にもはっきりと聞こえた。 監視の衛兵が腰に下げた、あの錆びた鈴の音だ。 食堂にいた他の労働者たちも、スプーンを動かす手を止め、硬直している。
この鋳造所には、二種類の鈴の音がある。 一つは、衛兵が定期巡回で鳴らす、鈍い真鍮の鈴。 もう一つが、今鳴っている、甲高い鉄の鈴。
それは、「選別」と「出荷」の合図だった。
「……クソが。今月はもう四回目だぞ」
カザンさんが、スプーンを皿に叩きつける。 「出荷」が何を意味するか、ここにいる全員が知っている。
この鋳造所は、労働力を酷使する場所であると同時に、「銀砂」の影響を人体で実験する場所でもある。 働きが鈍った者。 銀砂公害の「奇病」を発症した者。 そして――「響き
そういう「特別な品」は、定期的に「出荷」される。 どこへ運ばれるのかは誰も知らない。 ただ、戻ってきた者は一人もいなかった。
(ギィ、……ギィ、……)
鈴の音に混じって、耳の奥で幻聴が軋む。 重い、鉄の車輪が砂利を噛む音。〈
僕はその不快な感覚を振り払おうと、強く目を閉じた。 僕は、十一歳。 物心ついた時から、こういう場所にいた。 両親の記憶はない。ただ、転生する前の、別の世界で生きていたぼんやりとした「知識」だけが、僕の思考を同年代の子供よりも少しだけ大人びさせていた。
僕には、特別な力があるらしい。 「響き
例えば、作業場で全員の足並みが乱れた時。 僕が意識して呼吸を整えると、周囲の呼吸もつられるように整い、作業効率がわずかに上がる。 衛兵はそれを見て、「使える」と判断した。
だから僕は、他の子供たちとは別の区画に入れられ、「管理」されている。 彼らは、僕のこの力がもっと強くなるのを待っている。 そして、高値で「出荷」するつもりだ。
チリン、チリン。
鈴の音が、食堂のすぐ外で止まった。 労働者たちの間に、窒息しそうな沈黙が落ちる。 衛兵が持つ「リスト」に、誰の名前が書かれているのか。
鉄扉が、重い音を立てて開いた。 入ってきたのは、分厚い革鎧を着込んだ衛兵二人。彼らの鎧は、紋の力で強化されている。僕たちのような非武装の労働者が束になっても敵わない。
衛兵の一人が、羊皮紙のリストを広げた。
「――三番炉、カザン」
「ッ!?」
カザンさんが、椅子を蹴立てるように立ち上がった。
「な、なんでだ! 俺はまだやれる! 今月のノルマだって……!」
「黙れ。お前は先日の検診で『数値』が落ちた。判定は『消耗』。処理場行きだ」
「待ってくれ! あと一年……あと一年いれば、外の『市民権』だって……!」
「連れて行け」
もう一人の衛兵が、カザンさんの腕を掴む。 カザンさんは必死に抵抗した。スープ皿が床に落ちて砕ける。
「やめろ! 離せ! 俺はまだ……!」
その時だった。 僕の喉が、勝手に動いた。
「待ってください」
静かだが、芯のある声。 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。 食堂中の視線が、僕に突き刺さる。 衛兵も、カザンさんも、動きを止めて僕を見た。
衛兵の一人が、怪訝そうに眉をひそめる。
「……なんだ、小僧。『響き手』の雛か」
「カザンさんは、まだ『消耗』していません」
僕は立ち上がり、衛兵の前に進み出た。
「彼は、三番炉の『流れ』を維持するために必要な人です。彼がいなくなると、三番炉の効率は三割……いいえ、四割は落ちます。それは、保証します」
衛兵は鼻で笑った。
「小僧が保証する、だと? 効率が落ちたら、お前が責任を取るのか」
「取ります」
僕は、衛兵の目をまっすぐに見据えた。
「僕の『同期』と、カザンさんの『経験』は、組み合わさって機能しています。彼を外すのは、全体の損失です」
これは、賭けだった。 彼らは僕を「商品」として見ている。 その「商品」が、自らの価値を提示し、交渉する。
衛兵は、僕の目を数秒間見つめた後、リストに目を落とした。
「……カザン。貴様の『出荷』は保留だ。だが、もし今月の三番炉のノルマが落ちたら」
衛兵は僕の肩を乱暴に掴んだ。
「お前とこの小僧を、二人まとめて『処理』する。いいな」
「……ッ! ああ……!」
衛兵たちは踵を返し、鉄扉の向こうへ消えていった。 チリン、チリン……。 錆びた鈴の音が遠ざかっていく。
僕は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。 足が震えている。 まだ「強同期」は使っていない。けれど、衛兵に対してあれだけの「交渉」をしただけで、頭の芯がじんわりと痛み始めた。
「……ユウ」
カザンさんが、呆然とした表情で僕を見下ろしていた。
「お前……なんで俺を……」
「……カザンさんがいなくなったら、僕も困りますから」
僕は立ち上がり、床に落ちたスプーンを拾った。
「それに、まだ死にたくなかった。……僕も、カザンさんも」
カザンさんは、何かを言いかけて、唇を噛んだ。 彼は自分の席に戻り、頭を抱えて俯いてしまった。
僕は、先ほど衛兵が出ていった鉄扉を睨みつける。
今日の「賭け」は成功した。 でも、それは「保留」に過ぎない。 来月か、再来月か。あるいは、ノルマが達成できなければ、今月中にも。
(……逃げるしかない)
今までも、漠然と考えてはいた。 けれど、今日、はっきりと決意した。 このまま「出荷」されるのを待つくらいなら、たとえ万に一つの可能性でも、外へ逃げる。
問題は、どうやって。 この鋳造所は、〈乗っ取り領〉の中でも最も厳重に管理された施設の一つだ。 衛兵は紋で武装し、壁は厚い。
僕は、食堂の隅に設置された「紋機関」の配管に目をやった。 古い油の匂いが、そこから漏れ出ている。 あの配管は、ボイラー室と、そして「外」の廃棄場に繋がっているはずだ。
僕は、自分の呼吸と、配管を流れる蒸気の「流れ」に、意識を集中させた。 乱れを、整える。 違う。 整えられた「流れ」の中にある、僅かな「ズレ」を探すんだ。
(……あそこだ)
衛兵の巡回ルート。ボイラーの稼働リズム。そして、あの鈴の音。 それらが、ほんの一瞬だけ「緩む」瞬間がある。
「カザンさん」
僕は、まだ頭を抱えている男に、小さな声で呼びかけた。
「……なんだよ」
「今夜、ここを出ます」
カザンさんが、弾かれたように顔を上げた。
「本気で、言ってるのか?」
「本気です。……手伝ってくれますか?」
カザンさんの目が、絶望から、別の色に変わる。 それは、乾いた炭に、再び火が熾る瞬間に似ていた。
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