第二話 雷が試す夜
「
朝の始業前の教室に、やけに明るい声が響いた。
声の主は
左眼を長い前髪で隠した、整った顔立ちの少年である。この明るさはどこか憎めない。
「夜騎士……朝から何?」
風悪は机に突っ伏していた顔を上げ、眠たげに問う。
夜騎士はすぐさま人懐こい笑みで答えた。
「何って、昨日の騒動すごかったよなって。あ、あと夜騎士じゃなくて“凶”でいい。苗字は慣れない」
風悪は瞬きをひとつした。昨日の出来事――あの異能暴走事件のことだろう。自分に声をかけてきたのは、その話題に触れたいからに違いない。
「これなら
凶の背後から、柔らかな声がかけられた。
「さー……てぃーん?」
風悪は首を傾げる。
その反応を待っていたかのように、王位が淡々と説明を続けた。
「ⅩⅢというのは、治安維持組織。警察よりも権限が上で、制圧のためなら異能を惜しみなく使える。制圧対象の生死は問わない──」
「まあ、異能が溢れてる世界なんだから、異能絡みの犯罪も出るわけじゃん? 更に“魔”の存在まであると来たら──」
凶が言葉を引き取った。
彼の声は軽やかだが、その奥にはほんの少しの憧れが滲んでいる。
この世界の裏側には、「ⅩⅢ」と呼ばれる“制裁機構”が存在する。
彼らは秩序の象徴であり、同時に正義の免罪符だ。もめ事の解決は戦いで決まり、勝者がルールとなる。
ゆえにⅩⅢは栄誉職とされ、誰もが憧れる“英雄”の象徴でもあった。命を賭ける危険な任務である代償として、報酬も破格。テレビやネットで流れるその活躍は、若者たちの夢となっていた。
「オレもさー、ⅩⅢ目指してるわけ」
凶は胸を張り、当然のように言う。
「凶って、ⅩⅢって組織に入りたいんだ?」
「殉職したんだけどさ、姉がⅩⅢにいたんだよ。もう、かっこいいわけ。オレも入って活躍したい」
「待って、今さらっととんでもないこと言わなかったか?」
風悪は困惑して声を詰まらせた。
あまりにも自然に「殉職した姉」の話を口にしたからだ。
王位は苦笑し、肩を竦める。
「……凶は、そういうところがある」
そのやり取りを、少し離れた席から
単語帳を開いたまま、一言も挟まない。
四月の視線が、一瞬だけ風悪の頭にある“翅”へと向けられる。そこに宿る力を、彼女だけは知っているかのように。
昼休み。
風悪は担任に呼ばれ、職員室へ向かっていた。
窓の外では、春の風が桜の花びらを舞わせている。通い慣れたはずの廊下が、なぜか今日は少し長く感じられた。
前方から、ひとりの少年が歩いてくる。
教室でもほとんど口を開かない、不気味なほど無表情なクラスメイトだ。
風悪は軽く会釈をしてすれ違おうとした、その瞬間。
「その頭の翅は、妖精のチカラの源」
六澄の低い声が、ぽつりと落ちた。
風悪は息を呑み、振り返る。
だが、六澄はすでに背を向けたまま、片手を上げて立ち去っていくところだった。
「……一体──」
風悪の心臓が、不安にざわめいた。
なぜ彼が“翅”のことを知っているのか。
職員室。
風悪は担任、
黒いマスクをしているその容姿はとても教師とは思えない。いつも穏やかな声で生徒に接する人だが、今日の表情はどこか硬い。
「先生、何の用で……?」
風悪は戸惑い気味に尋ねる。
宮中は書類から目を離さぬまま、低く言った。
「今夜十八時。アパート近くの公園にて、師──いや、四月がお前のことを待っている」
「え? 四月が……?」
風悪の瞳が見開かれる。
“師”という言葉。
なぜ担任がそんな呼び方をしたのか。宮中はそれ以上何も言わず、再び机に向き直った。
風悪はしばらくその背中を見つめたのち、静かに職員室を後にする。
廊下に出ると、窓の外の光がやけにまぶしく感じた。
風が吹く。
白い翅が、かすかに光を返した。
公園の広場。
風が通り抜ける音が静かに響く。その中で、二人の姿が向かい合っていた。
黒髪の少女、四月レン。
袖のない白いシャツから覗く左腕には、黒いアームカバー。指先には、いつの間にか黒い万年筆のような器具が握られていた。
一方、風悪の頭の翅は微かに風を受けて揺れている。
「……どうした四月、呼び出して」
風悪が問う。
だが四月は微笑もせず、淡々とした声で告げた。
「このままってのはフェアじゃないよな。指南もしたいし。……俺、いや私とちょっとした勝負をしよう?」
「勝負?」
「出来たら質問に一つだけ答えてやるよ。“魔”についてだろうとな」
その言葉に風悪は驚愕する。
「どういう…意味だ?」
赤い瞳が、不安と覚悟の入り混じった光を宿していた。
「ボク…いや私達は忙しいんだ。与えられた時間は五分ってところか。一本でいい」
四月は左手を軽く掲げる。
「どれでもいいから、ペンを一本奪ってみせたら──」
その声には、わずかな挑発が混じっていた。
「一つだけ、質問に答える」
静寂が、空気を張り詰めさせる。
少年が息を吸い込んだ瞬間、四月はゆっくりと袖をまくり上げた。
「因みに、身体の至るところに仕込んであるから」
「ど、どゆこと!?」
四月の腕に光が走る。
瞬時に、指先から電撃が弾けた。
「言ったろ。忙しいんだ」
淡々と放たれたその言葉と同時に、少年の足元を稲妻が走った。
空気を裂く破裂音。
「ちょ、待っ……!」
少年は咄嗟に跳び退いた。
地面を伝って、白い閃光が蛇のように這い回る。四月の指先から次々と電光が放たれ、あたりに空気が焦げるような匂いが漂う。
「……毒は、勘弁しといてやる」
軽口を叩くように言いながらも、その目は一切の油断を許さない鋭さを帯びていた。
「無理だろ! 近づくことすら……!」
風悪は顔を歪めながら、風を纏った。
足元から一気に突風が吹き上がり、体が軽くなる。
「風で……!」
四月の黒い瞳が動く。
次の瞬間、少年の姿が掻き消えた。
遅い、と四月が認識するよりも早く、風悪は電撃の隙を突き、真横から突風とともに飛び込む。風圧で木々がしなり、砂埃が巻き上がった。
「動作が気付かれたらダメだろ」
四月は腕を振り、電流の壁を作り出す。
「ちゃんと頭も使え。物理的な意味じゃないぞ」
「言われなくても分かってる!」
風悪の声が叫びとともに爆ぜた。
風が地を裂き、電撃を押し返すように吹き荒れる。その一撃は嵐のようだった。
衝撃波が走り、地面が割れる。
四月は一瞬だけ身を引き、静かに目を細めた。
「電撃を恐れぬ無謀か……」
目の前で、少年が全身に風を纏いながら突進してくる。
紅い瞳に、確かな覚悟が宿っていた。
風を加速させ、一直線に――。
轟音とともに白煙が立ちこめ、空気が震えた。
やがて、風の渦が収まった時、少年は息を荒げながら立っていた。
その手には、黒いペンが一本握られている。
「……出来るじゃないか」
四月が小さく呟く。
風悪は唇を吊り上げた。
「盗ってやった」
四月は目を細めたまま、わずかに口角を上げる。
風悪の右手の動き、風で隠されたタイミング、そして狙い。全てが、たった一瞬の勝負だった。
接近した本当の目的は、死角にある左側のペンを風で盗ること。
内心でそう評しながら、四月は小さく笑う。
「……これなら、多少はマシか」
風が再び吹き抜け、二人の間の空気をさらっていく。
勝負が終わり、静寂が戻った。
地面の焦げ跡と、風に舞う砂埃だけが、先ほどまでの激闘を物語っている。
「……なあ、あんた」
風悪が声をかけた。
その声は、戦いの緊張が抜けた分、どこか頼りなげだった。
四月が静かに言う。
「質問に答えてやる。ただし、一つだけだ。よく考えな」
風悪は唇を噛む。
聞きたいことは山ほどあった。この力のこと。彼女が何者なのか。この“ⅩⅢ”と呼ばれる組織。
けれど、その中でも、一番心の奥に引っかかっていた問いを選んだ。
「“魔”は……何処にいる?」
四月が動きを止めた。
黒い瞳が、まっすぐに彼の赤い目を射抜く。
風が、ふたりの間を横切る。
「“誰か”の中に」
それだけを言い残して、四月は踵を返した。
「……どういう意味だよ、それ!」
「質問には答えた。あとは自分たちで何とかするんだな」
四月の言葉が風に消える。
そのとき、風悪の耳に別の声が届いた。
「師……!」
声のした方へ目を向けると、樹の影に黒いバイクが停まっていた。
エンジンの低い唸りが、静かな空気を震わせている。
ハンドルに手をかけた人物は、黒いマスクをしていた。
「先生!?」
「丁度、五分ってとこだな」
四月は短く呟き、歩き出す。
風の少年は慌てて立ち上がった。
「ま、まだ話が──!」
その声は、追い風にさらわれるように消えていった。
「……外から来た貴様。いや、キミにはどう見える? この世界」
最後に残された言葉だけが、風悪の胸に残る。
***
夜。
風悪は自室のベッドに寝転がっていた。
手には、あのとき奪い取った黒いペン。
天井を見つめながら、思考を巡らせる。
“誰かの中に”とは、一体誰のことなのか。
わからない。だが、彼女の言葉の奥に、何かを隠していたのは確かだった。
──「……外から来た貴様。いや、キミにはどう見える? この世界」
四月の残した言葉が、耳の奥で響く。
あの落ち着いた声が、今も風と一緒に囁いているような気がした。
オレと、何か関係あるということか。
風悪は目を閉じた。
その瞬間、風の音が脳裏に広がる。まるで世界そのものが呼吸しているかのように。
もし、“魔”を持つ者が、自分の中にそれを知らずにいるとしたら。
それは、悪なのだろうか。
ふと、そんな問いが浮かんだ。
四月の冷たい眼差しの裏に、一瞬だけ悲しげな色があったことを思い出す。
胸の奥がざわついた。
「くそっ……分からん! いろいろ起こりすぎだ!」
少年は布団に顔を埋めた。
急遽始まった学園生活。“魔”で暴走した生徒。“ⅩⅢ”という組織の謎。
全てが繋がりそうで、どこかが抜け落ちている。
「もうちょっと教えてくれたっていいだろ……!」
小さく呟き、手にしたペンを天井にかざす。
艶やかな黒の軸が、月光を反射して光る。
「……にしても」
ぼんやりと、彼はペンの先を見つめた。
あれほど強固な電撃の防御を突破して、これを奪えたのは奇跡に近い。
「滅茶苦茶手加減されたな……」
しかしながら、なぜか胸の奥が落ち着かない。
「このペン、妙に重たいな……」
そう呟いた瞬間、風が部屋の中を通り抜けた。
カーテンが揺れる。
まるで、ペンそのものが“風”を呼んだかのように。
何で出来ているのだろうか。風悪はそれ以上考えられず、静かに目を閉じた。
そのまま、ただ夜明けを待つのみだった。
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