第20話 事故 春馬side

 視界の隅で閃いた銀光が、脳裏に焼き付いたまま離れない。

 爆音。悲鳴。衝撃音——何かが壊れる音が連続して響いた。


 「……っ」


 動けなかった。息を吸ったはずなのに、肺が凍りついたように動かない。

 目の前には、無数のガラス片が散らばり、粉々になったタイルが鋭く割れている。

 倒れた観葉植物。破壊された受付のパーティション。

 ——そして、ロビーの中心に横転した灰色の車。


 フロントガラスは完全に砕けていた。煙があがり、焦げたような匂いが鼻を突く。


 横転した車の運転席の中で、一人の老人がシートにもたれかかっていた。

 額から血を流してはいたが、奇跡的に大きな外傷はなさそうだった。

 割れたガラスの破片に囲まれながら、彼は呆然と目を見開いて震えていた。


 「……う、うそだ……俺は……ブレーキを……ブレーキを踏んだ……」


 かすれた声が車内から漏れ聞こえる。

 その震える手は、まだ運転席の前方をまさぐるように伸びていた。


 「……勝手に……勝手に、動いた……誤作動……そうだ、誤作動だ」


 誰にも届かない、か細い声だった。


 呆然と立ち尽くす俺のすぐ近くで、誰かが叫んだ。


 「八坂さん!!真那!!」


 内木美和だ。

 涙と嗚咽に濡れた叫び声を上げ、割れた破片の中を必死に駆け抜ける。

 視界の先、崩れ落ちた人影だけを見つめていた。


 倒れていたのは、グローブリンクの八坂英介。


 真那をかばうようにして、ガラス片の上に横たわっている。


 「八坂さん!! 血が……! 誰か、救急車を!!」


 内木は彼の身体を抱き上げ、震える声で叫ぶ。

 その腕を、八坂がゆっくりと掴んだ。


 「……一之瀬さん……」


 内木の腕に支えられたまま、八坂は、後方にいる俺に顔を向けた。


 「……あんたに……言いたいことがあって来たんやけど……」


 血に濡れた唇がわずかに動き、最後の力を振り絞るように言葉を紡ぐ。


 「……ちょうど良かったわ。真那を……頼みます……」


 「嫌……嫌っ!! 八坂さん!! 八坂さん!!」


 内木が必死に呼びかける。

 泣き声が震え、涙が頬を濡らす。


 「誰か! AED! AED持ってきて!! 早く!!」


 絶叫がロビーに響く。

 だが、その傍らで——さらに別の声が上がった。


 「ちがうの……ちがうのよ直哉……っ!!」


 優香だった。

 両手で頭を抱え、崩れ落ちたまま錯乱していた。

 目は見開かれ、どこか遠くを見つめている。


 「ごめんなさい……試したの……試しただけだったのに!!本当に好きなのは……直哉なの……!」


 「わたしが悪いの……私が……全部……!」


 その声は誰にも届かず、ただ壊れた空間に残響するだけだった。


 一瞬、言葉を失いながらもスマホを手に取り、震える指で119を押す。


 救急車を要請し、状況を必死に伝える。


 「事故です……ビルのロビーに車が……負傷者数名……意識不明が1名……!」


 通報を終えると、すぐに駆け出す。

 向かった先は、倒れたまま動かない真那のもとだった。


 ガラスの破片に囲まれ、彼女を抱えた。


 「おい……真那……真那!返事をしてくれ……!」


 その場に膝をつき、彼女の名を呼ぶ。

 だけど真那は……目を閉じたまま、何の反応も見せなかった。




 救急車が病院に到着してすぐ、担架が音を立てて運ばれていく。


 「患者二名、頭部外傷および胸部裂傷! 意識レベルGCS3! 集中治療室、すぐに!」


 医師たちの怒号が飛び交う。俺は追いすがった。

 看護師に制止されるまで、真那の手をずっと握っていた。


 「すみません、ここからはご家族以外立ち入りできません!」


 集中治療室のドアが閉じる音が、どこまでも重く、残酷に響いた。


 俺はただ、立ち尽くしていた。

 何もできなかった。


 あの瞬間、八坂英介がいなければ今頃真那は……


 目の前の景色が、急に歪み始める。

 白い廊下が揺れ、血の匂いと焦げたような金属臭……直哉がバイクに轢かれた日の記憶と重なる。


あの日も、俺は何もできずに後悔したのに……また同じ事を……?


 「一之瀬社長。」


 その声に顔を上げると、内木がこちらを見ていた。

 疲労の色を浮かべながらも、彼女の瞳は澄んでいた。


 「……社長は、どうか優香さんに付き添ってあげてください」


 「優香?」


 内木はうなずいた。声は静かだったが、迷いはなかった。


 「さきほど、搬送されて病室に入りました。」


 「でも俺は……八坂さんと真那が……!」


 「大丈夫です。八坂さんと真那の容態は、私が確認します。行ってください。」


 内木は一歩近づき、少しだけ目を細めて言った。


 「詳しい事情は知りません。でも、優香さんは待ってると思いますから。」


 その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。


 あの時、優香が泣き崩れていた顔が、頭に浮かんだ。


「優香……」

 病室の前まで来ると、扉を開けようとする手が僅かに躊躇した。


それでも、ノックをして病院に入る。


 カーテンの奥にいる優香からは返事がない。


 静けさの中、俺は声を抑えて呼んだ。


 「……優香」


 カーテンの向こうで微かに気配が動く。


 「……入るよ」


 そう言って手を伸ばしかけた瞬間、鋭く、張り詰めた声が響いた。


 「開けないで!」


 動きかけた指が、ぴたりと止まる。


 「お願い……そこにいて。」


 その声は震えていた。

 俺は、カーテンの手前で黙って立ち止まる。何も言えない。いや、言うべき言葉が見つからなかった。


 優香は、ぽつりと話し始めた。


 「……あの日。直哉が事故にあった日、私……彼に別れようって言ったの」


 ひと呼吸の沈黙が挟まる。重い、胸を打つ沈黙だった。


 「本気じゃなかった。ただ……気持ちが知りたくて。……彼が私のこと、どれくらい大事に思ってるのか、知りたくて」


 「“もし私と別れたら、彼はどうするかな?”って……愛されてる自信が無かったの……」


沈黙の中、優香が肺の底から吐き出した息の音が響く。


 「そしたら、彼、少し黙ってから“しってた”って……"好きなのは春馬だろ"って。そんなふうに言ったの……」


 俺は何も言わなかった。ただ、じっと耳を澄ませて立っていた。


「私、否定できなかった。嘘ついて、軽蔑されるのが怖かったの。でも、本当は"別れたいなんて嘘"って後から言うつもりだった。——そのあと事故が起きた。……私が、引き金を引いたって、思ってる」


 小さく鼻をすする音が聞こえた。


 「事故のあと、メールが来てることに気がついた。」


 「“優香には、春馬と幸せになってほしい”って書かれてた」


 言葉が鋭くなった。


 「それを見て、私、もう引き返せないと思った。……直哉がそう言ったんだから、私はあなたと一緒にいなきゃいけないって」


 「そうでしょ? 春馬だって、思ってたんじゃないの? 私と一緒にいることで、何か……あの夜に対して、責任が取れるんじゃないかって」


 彼女の声が熱を帯びていく。焦りとも、怒りともつかない激情がにじんでいた。


 「だって、じゃなきゃ直哉……私を許してくれない。」


 「ねぇ春馬……違うの? 違うって言えるの?」


 「私たちは……もう離れられない。そうでしょ? 直哉に誓ったじゃない。」


 俺は、返事をしなかった。


 できなかった。


 言葉が、なかった。


 ただ、心の奥にあるのは——

 閉ざされた手術室の扉。あの向こうで闘っている、ひとりの女性のことだった。


 もう、これ以上自分の気持ちに嘘はつきたく無かった。


 俺は、そっと息を吸い込んだ。


 目の前のカーテン一枚。たったそれだけの隔たりが、遠く感じる。


 「優香……」


 自分の声が、ひどく静かに響いた。


 カーテンの向こうにいる彼女の気配が、ぴたりと止まる。


 「……ごめん。俺、ずっと自分の気持ちから逃げてた」


 言葉を探しながら、ゆっくりと吐き出す。


 「直哉がいなくなった夜……俺も壊れかけてた。いや……壊れた事に、気付かないふりをしていたのかもな。優香を支えなきゃって^_^。でも今になって思う。——支えてるふりをしてたんだって。優香のためじゃなく、自分の存在を肯定するために」


 沈黙が落ちる。冷たい空気が、張り詰めたまま揺れる。


 「優香が泣いてる時、俺はそこに“必要とされてる理由”を見つけようとしてた。……それって、本当に優香のためだったのかなって、自分でもわからなくなった」


 伸ばしかけた手を、そっと下ろす。


 「直哉は……あいつは、俺達を責めたりするような奴じゃ無い。」


 微かに息を呑む気配がした。


 「だから……あんな言葉を残した。“優香には、春馬と幸せになってほしい”って……」


 「——あの一文に、意味を与えたのは俺だ。あの夜の出来事に、何かの“答え”を見出したかった。……全部、自分を納得させるためだったんだと思う」


 カーテンの向こうは、ずっと静かだった。ただその沈黙が、彼女の感情の重さを物語っていた。


 「……だから、もう嘘はやめるよ」


 言い終えてから、自分でも驚くくらい、胸の奥にあるものが少しだけほどけた気がした。


 「俺は……俺達は、前に進んでいいんだ。」


 静かに、一歩だけ下がる。


 「だから、優香を俺から解放するよ」


 それがどれほど自分勝手な言い分だとしても、今の俺には、正直な気持ちしか残っていなかった。


 


 優香の絞るような声が弱々しく響く。


 「……それって、私を置いていくってこと?」


 涙のにじむ声だった。責めるようで、縋るようで。


 俺は静かに、首を横に振った。


 「俺たちはずっと、お互いを抱きしめるふりをして、心の中では直哉の影ばかり見てた。そんな関係じゃ、前に進めないだろ。」


 言い終えたあと、再び沈黙が落ちた。


 その沈黙のなかで、かすかな嗚咽が漏れた。


 「じゃあ、行くよ。」

 薬指の指輪を外してポケットに入れると、優香の病室を後にした。

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