第13話 馬の疾走と羊の調和
前半
多くの案件をこなし、一段落した頃、新たに二人のメンバーが同時に加わることになった。まず現れたのは、カジュアルな服装の男性だった。馬場疾駆(ばば・しっく)、三十歳。彼はリモート会議用のヘッドセットを首にかけ、ノートパソコンを片手に入ってきた。
「今日はオフィスに来ましたが、基本的には在宅勤務を希望します」疾駆は会うなり唐突に言った。
疾駆の経歴は興味深かった。五年間で三つの部署を経験し、それぞれで成果は出していたが、いつも「もっと自由に働きたい」と主張していた。最近はフレックス制度を最大限利用するだけでなく、在宅勤務を活用し、出社よりも在宅の方が多いとの前情報もあった。
「さて、ご存知とは思いますが、私は馬場疾駆です」彼はリラックスした様子で言った。「マーケティングが専門ですが、正直、オフィスにいなくても仕事はできます。むしろ、衆人監視の無い自宅でリラックスした方が、良いアイデアが浮かぶこともあります」
威風が鋭く指摘した。「在宅勤務は信頼関係の上に成り立つ制度だ。それを個人の都合だけで使うのはどうかと思うが」
疾駆は肩をすくめた。「成果を出していれば、どこで働いても良いでしょう。場所に縛られる時代は終わったんです。馬は広い草原を駆けるもの。檻に閉じ込められては本領を発揮できません」
その言葉に牛田は複雑な表情を見せた。確かに働き方は多様化しているが、チームワークはどうなるのだろうか。
続いて入ってきたのは、柔和な雰囲気の女性だった。羊谷和奏(ひつじや・わかな)、三十三歳。疾駆とは対照的に、彼女は静かに座り、皆に穏やかな笑顔を向けた。
「羊谷和奏と申します」彼女の声は優しく、聞いているだけで心が落ち着くようだった。「人事部門で働いていました。チームの調整役として、皆さんのお役に立てればと思います。羊は群れで生きる動物です。一匹だけでは不安で、力を発揮できません。でも、仲間がいれば、どんな困難も乗り越えられる。そう信じています」
静香は二人を観察しながら、すぐに分析を始めた。疾駆は自由への欲求が強く、組織への帰属意識が低い——典型的な自由本能。和奏は調和を重視するが、自己主張が弱い——典型的な群生本能。自由を求める者と、群れを守る者。対照的な二人が同時に加わったことで、チームのバランスが試されるだろう。
会議が始まると、疾駆は早速提案した。「このプロジェクト、リモートでも進められますよね?わざわざ集まる必要はないと思います」
理子は不安そうだった。「でも、対面で話し合った方が、細かいニュアンスが伝わりやすいです」
疾駆は首を横に振った。「時代遅れです。オンラインチャットを使えば、どこからでも参加できます。効率的でしょう」
その時、和奏が穏やかに口を開いた。「疾駆さんのご提案も、理子さんのご意見も、どちらも一理あると思います。状況に応じて使い分けるのはいかがでしょうか」
疾駆は少し不満そうに答えた。「使い分けですか。でも、自由に働けることこそが、これからの時代の価値でしょう」
和奏は微笑んだ。「自由は大切です。でも、群れで生きる安心感も大切。どちらかではなく、両方を大切にできたら素晴らしいですね」
賢は和奏の発言に注目した。どちらの意見も肯定して、調整役に徹している。そして疾駆の自由本能と、和奏自身の群生本能が、静かに対比されている。こういう個性もチームには必要だろう。
後半
二人が加入してから3か月後、定例会議に疾駆がリモートで参加した。しかし画面の背景には、明らかにリゾート地のような景色が映っていた。青い海と白い砂浜、椰子の木が見える。
「疾駆さん、今どこにいるんですか?」理子が驚いて尋ねた。
疾駆は悪びれずに答えた。「沖縄のリゾートホテルです。在宅勤務といっても、自宅である必要はないでしょう?環境を変えることで、新しいアイデアが生まれるんです」
威風の表情が険しくなった。「在宅勤務は、家庭事情等も踏まえて多様な働き方を促進するための制度だ。休暇旅行のための制度ではない」
疾駆は反論した。「でも成果を出していれば問題ないはずです。場所にこだわる方が時代遅れでしょう。馬はロープを首に着けられて一箇所に留まっていては本領を発揮できません」
静香が冷静に指摘した。「『馬耳東風』という言葉がありますね。人の意見を聞き流すこと。それは自由とは違います。チームワークには、相手の声に耳を傾ける姿勢も必要です」
牛田が懸念を示した。「チームで働くには、ある程度の協調性が必要です。連絡が取りにくい状況は、プロジェクトの進行に影響しませんか?」
「Wi-Fiも完備されていますし、いつでも連絡可能です」疾駆は自信満々に答えた。「むしろ、リフレッシュした状態の方が良い仕事ができます」
会議の空気が微妙に緊張した。賢は疾駆の態度に問題を感じたが、確かに規則違反ではない。リモートワークの指定場所に自宅との記載は就業規則にないのだ。勿論、こういったケースは想定外であろうが。
その時、和奏が穏やかに口を開いた。「疾駆さんの言い分も理解できます。現代の働き方は多様化していますし、場所にとらわれない柔軟性は重要です。ただ、威風さんや牛田さんの懸念も分かります。チームとしての一体感をどう保つか、という問題ですよね」
和奏は続けた。「大切なのは、規則を守ることと、新しい働き方を模索することのバランスだと思います。疾駆さん、今回の経験を通じて、リモートワークの可能性と課題を見極めてみてはどうでしょう?それがチーム全体の学びになるはずです」
その言葉に、威風の表情が少し和らいだ。「実験的な試みとして捉えることもできますね。ただし、業務に支障が出ないことが前提です」
疾駆は頷いた。「もちろんです。成果で証明してみせます」
静香が分析を加えた。「興味深いケーススタディになりますね。自由本能と群生本能の対比。馬のように自由に駆ける働き方と、羊のように群れで支え合う働き方。どちらが優れているかではなく、どう共存させるか。それが今回の課題です」
会議が終わった直後、和奏の携帯電話が鳴った。画面には「豹崎商事 豹沢部長」と表示されている。和奏の表情が一瞬こわばったが、すぐに穏やかな笑顔に戻した。
「少し失礼します」和奏は席を立ち、会議室を出て廊下で電話に出た。
「お世話になっております、羊谷です」
電話の向こうから、怒気を含んだ声が聞こえてくる。チームのメンバーには内容は聞こえないが、ガラス越しに見える和奏の表情が、少しずつ曇っていく。
「はい……はい……おっしゃる通りです……」和奏は丁寧に、温和に、相手の話を聞き続ける。背筋を伸ばし、電話の向こうの相手に頭を下げるように、何度も頷いている。
「確かに、現場の皆様にはご不便をおかけしております……大変申し訳ございません……」
「今しばらく、お待ちいただけますでしょうか……必ず、ご納得いただける形に……」
十分ほど電話が続いた後、和奏は深々とお辞儀をして「ありがとうございました。失礼いたします」と丁寧に電話を切った。
会議室に戻ってきた和奏は、いつもの穏やかな笑顔に戻っていた。しかし、賢は気づいた。その笑顔の裏に、わずかな不安が隠れていることを。
「和奏さん、何かありましたか?」賢が尋ねた。
「いえ、大丈夫です」和奏は首を横に振った。「クライアントからの確認事項でした。少し調整が必要ですが、問題ありません」
静香は和奏を観察していた。和奏の言葉は穏やかだが、目が少し泳いでいる。何か問題を抱えているが、それを表に出さない。調和を乱したくないという、羊の本能が働いている。
「本当に大丈夫ですか?」牛田も心配そうに尋ねた。
「ええ、大丈夫です」和奏は微笑んだ。「私の担当案件ですから、責任を持って対応します。皆さんにご心配をおかけするようなことはありません」
賢は深く追及しなかった。和奏が「大丈夫です」と言っているのなら、今は信じよう。
疾駆はリゾートホテルの画面から、満足そうに微笑んでいた。自由に働けること、それが何より大切だと信じていた。まだこの時点では、自分の考えが試されることになるとは思ってもいなかった。
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