第2話 牛の歩み

前半


牛田継続が新卒で入社したのは、今から十八年前のことだった。バブル経済の余韻が残る時代、周囲の同期たちは皆、華々しいキャリアを夢見ていた。しかし牛田は違った。彼には「着実に、一歩ずつ」という信念があった。


それは幼い頃の体験から生まれたものだった。父親は小さな町工場を経営していたが、無理な拡大を繰り返し、結局倒産してしまった。「急いては事を仕損じる」という母親の言葉が、牛田の心に深く刻まれていた。


入社当初、牛田は営業部に配属された。同期の多くが大口顧客を狙う中、彼は小さな取引先を丁寧に回り続けた。地味で目立たない仕事だったが、牛田にとっては重要な基盤作りだった。


「牛田くんは要領が悪いね」上司によく言われた。確かに効率は良くなかった。しかし、彼が築いた信頼関係は強固だった。小さな取引先が徐々に成長し、気がつけば大口顧客になっていることも多かった。


賢と初めて仕事をしたとき、牛田は彼の頭の回転の速さに驚いた。瞬時に最適解を導き出し、効率的に物事を進めていく。自分にはない能力だった。同時に、少し心配にもなった。速すぎて、大切なものを見落としてはいないだろうか。


「牛田さんは、なぜそんなに慎重なんですか?」賢に問われたとき、牛田は正直に答えた。「失敗を恐れているからです。でも、それだけではありません。本当に価値のあることは、時間をかけて築き上げるものだと思うのです」


賢の提案する効率的プランは確かに魅力的だった。短期間で成果を出し、注目を集める。しかし牛田には、そこに潜むリスクも見えていた。急激な成長は、しばしば急激な衰退を招く。


「基盤をしっかり固めてから」という牛田の提案に、賢は少し困惑しているように見えた。現代のビジネス環境では、スピードが重視される。牛田の考えは時代遅れなのかもしれない。


でも牛田は信じていた。真に価値のあるものは、一朝一夕には築けない。人間関係も、技術も、組織も、時間をかけて育てることで本当の強さを持つ。それは効率とは異なる価値だった。


賢と向き合いながら、牛田は考えていた。この若い責任者は頭が良く、決断力もある。しかし、どこか不安定さも感じられた。常に計算し、常に警戒している。それは疲れることではないだろうか。


後半


最初の共同プロジェクトは、新商品のマーケティング戦略策定だった。賢は即座に分析を始め、ターゲット層を絞り込み、効率的なプロモーション案を提示した。その速さと的確さに、牛田は素直に感心した。


「さすがですね。私だったら、この5倍の時間があっても無理でした」牛田の賞賛に、賢は少し嬉しそうな表情を見せた。しかしすぐに冷静な顔に戻る。感情を表に出すことへの警戒心が働くのだろう。


一方、牛田は異なるアプローチを提案した。「顧客との長期的な関係構築を重視してはどうでしょうか。短期的な売上よりも、ブランドへの信頼を育てることを優先する」


賢は眉をひそめた。「それでは成果が出るまで時間がかかりすぎます。上層部は四半期ごとの数字を求めてきます」


「確かにそうですが」牛田は穏やかに続けた。「短期的な数字だけを追い求めると、長期的な成長を阻害する可能性があります。持続可能な成長のためには、時には我慢も必要です」


二人の議論は平行線をたどった。しかし、互いの意見を聞くうちに、どちらも一理あることが分かってきた。賢の効率性は確実に必要だし、牛田の持続性も重要だった。


「では、こうしませんか」牛田が提案した。「短期的な成果を出しながら、同時に長期的な基盤も築く。両方を同時進行させるのです。結果としてはお互いの丁度半分くらいのスピード感になるかと。」


賢は少し考えてから頷いた。「それは可能ですが、リソースの配分が難しくなります。でも、やってみる価値はありそうですね」


実際にプランを練り始めると、二人の長所が組み合わさることで、単独では思いつかなかったアイデアが生まれた。賢の分析力が牛田の経験を活かし、牛田の慎重さが賢のリスクを軽減した。


プロジェクトが軌道に乗り始めた頃、賢は牛田に率直に話した。「正直言って、最初は牛田さんのやり方が理解できませんでした。でも、一緒に仕事をしてみて分かりました。速さだけが全てではないんですね」


牛田も微笑んで答えた。「私も賢さんから学ぶことが多いです。時には大胆な決断も必要だということを教えてもらいました」


その夜、二人は仕事帰りに初めて飲みに行った。アルコールが入ると、普段は見せない表情が垣間見えた。賢の計算高さの裏にある不安、牛田の慎重さの裏にある情熱。


「牛田さん、一つ聞いてもいいですか」賢が言った。「本当に成功とは何だと思いますか。一番になることですか、それとも持続することですか」


牛田はグラスを見つめながら答えた。「きっと、どちらも大切なんだと思います。ただし、誰かを蹴落として一番になっても、それは本当の成功ではないでしょう。共に成長できる関係こそが、真の価値を生むのかもしれません」


賢は何か言いかけて、それから黙り込んだ。牛田の言葉が、彼の心の奥に静かに響いているようだった。二人の間に、微かだが確実な信頼関係が芽生えていた。

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