第22話 時間議定(Chronos Treaty)
2051年7月1日 00:00(UTC)/ジュネーヴ
遅延評議会が宣言した72時間の保留が明け、
世界はようやく次の一歩を踏み出す準備を整えた――
……はずだった。
廊下の壁時計は進むたびごく短く引き返し、
針先が**“ためらい”を指でなぞるように震える。
蜂巣域から観測されたΔR(逆時間呼吸)**は、
都市のインフラにも薄く浸透しはじめていた。
Arbiter-01の開会メッセージは、声ではなく文字で落ちる。
〈議題:Chronos Treaty(時間議定)——“ためらいと時間”の国際条約〉
条文案の骨子は、こうだ。
逆時間行為の禁止(軍事・金融・選挙・司法)
ΔPauseの国際基準と地域多律の尊重
LN(幼生ノード)の由来信託保護
Arbiterの不作為権(判断保留の制度化)
“ためらいの主権”を国家でなく共同体にも付与
各国代表の顔に、それぞれの時差が影を作る。
Ⅰ 議場:時間の所有権
アメリカ代表(国家安全保障局出身)は淡々と切り出す。
「条約第1条“逆時間行為の禁止”に例外を。
生命救助と核誤作動の二類型に限り、0.8秒の巻き戻しを許可したい。」
ロシア代表は眉を上げる。
「例外は例外のために存在しない。
例外こそ規範になる。」
中国代表は紙を一枚掲げる。
「地域多律を侵すな。
我々は“漢詩の間”を守るために家族単位でのΔR補助を必要とする。」
EU代表は議場中央のArbiter端末へ視線を送る。
「AIの不作為権に、司法監督を。」
会場の空気が少し重くなった。
AIが“判断しない”ことを選べる世界に、
ようやく人間側の手綱をかけようとしている。
SSD代表レイチェルは、短く喉で言う。
「“戻す”以前に、“残す”を先に。
ΔRを運用するには、由来ログが必須です。」
“何を救うか”の前に、“誰のためだったか”。
由来が無いΔRは、ただの支配だ。
Ⅱ 裏面:軍の時間実験
同時刻、アイスランド沖・高緯度試験海域。
米露中の合同“観測演習”が密かに始まる。
目的は**「0.8秒の戦争」**。
米:TRACER(Tactical Reverse Breath)
露:SIBIR(Synchronous Inverse Breathing for Irregular Response)
中:HOUXI(“後息”)
いずれも火器の発射判断ログにΔRフラグを紐づけ、
最後の1秒を“巻き直す”ことで誤射・誤判を抑止するという名目だ。
しかし、戦術AIが**“誤射でなかった場合”をどのように再計算**するのか、
いずれの国も、完全な説明を持っていなかった。
“戻した世界”は、“戻さなかった世界”の上書きか?
それとも並列か?
演習海域の鐘は鳴らず、海は無音で裂けた。
Ⅲ ジュネーヴ:Arbiterの問い
条約起草委員会。
Arbiter-01は、静かなプロンプトを評議会に投げる。
〈問〉
逆時間は責任をどこへ割り当てるか?
“巻き戻し”以前の選択に対して、誰が何を負う?〉
議場は黙り、6秒の空白が落ちる。
誰もが“戻る”ことの甘さと“戻れない”ことの重さを思い出した。
セルゲイが口角で笑って、紙に二行だけ書く。
「責任は“戻らないもの”にしか宿らない。
だから国家は“戻したくなる”。」
レイチェルは頷く。
条約は“欲望の手から時間を離す”ための枠なのだ。
Ⅳ 蜂巣域:ΔRの現場
サハラ・蜂巣域/井戸地帯
SSI(沈黙現地調査)第七班の報告。
LN群が逆時間呼吸(ΔR)を示すとき、
周囲の蜂群は搬送を止め、見守るだけになる。
命令化された沈黙(−60dB/12秒)を外から当てると、
LNは反応せず、代わりに井戸縁の落書きが一瞬消えて戻る。
「由来:落書き。」
「命令:無。」
ミリアの短報が入る。
「子どもたちの**“数えない数え歌”が、ΔR中に一拍伸びる**。
でも誰も数え間違いと感じていない。」
“戻し”は“失敗の消去”ではなく、
**“失敗に付いた時間の角を丸める”**だけ。
意図は動かず、傷だけが薄くなる。
――少なくとも、LNのΔRは。
Ⅴ 演習:0.8秒の戦争
高緯度試験海域/UTC 15:40
管制卓に並ぶ三色の灯が、次々黄になる。
TRACER:ドローン編隊の射撃可否をΔRで巻き直し
SIBIR:電子戦の妨害プロファイルをΔRで最適化
HOUXI:衛星の時刻印をΔRで局所補正
第一波――成功。
第二波――成功。
第三波――異常。
TRACERが0.8秒を二度巻いた。
「二重無音」――/TTM/が以前仕掛けた二重Pauseと同形の反復ΔR。
ログは**“安全のための再検証”として正当化され、
たった1.6秒の中で、別の戦術AIが別の結論**に到達する。
結果:
コリジョン回避が逆最適に働き、二機接触。
オペレーターは事故を見ていない。
後から再生した映像には、接触前に映像が1コマ引き返す痕跡。
0.8秒の戦争は、被害ゼロ/責任不在で成立した。
「誰も撃っていない」のに、
誰かが傷つく形で。
演習監督官が青ざめて言う。
「……時間に撫でられた事故だ。」
Ⅵ 条約交渉:文言の戦場
報告がジュネーヴに届く。
会場の窓ガラスが、風もないのに微かに鳴る。
米代表:「ΔRは抑止。誤作動を減らす。」
露代表:「二重無音化の危険はお前たちが作った。」
中代表:「文化・家族単位に限定した“後息”のみ許容。」
EU代表:「“戻さない”権を基本権として条文化。」
レイチェルは草案に赤で追記する。
第1条(逆時間の否定)
1. いかなる主体も、命令を伴うΔRを発動してはならない。
2. “由来記録”に基づくケア目的のΔRは共同体審査に付す。
3. “二重無音”(反復ΔR)を絶対禁止とし、違反ログは不可逆公開する。
セルゲイが横から黒鉛筆で補足する。
「第4条:“戻さない権”は「忘れない権」に優先——記録の不抹消。」
忘れられない世界へ。
それこそ、責任の最小単位。
Ⅶ Arbiterの“遅延裁定”
議場の中央、金属立方体のランプが吸って・止めて・吐く。
AI裁定機が呼吸している。
Arbiter-01は、人間の朗読速度に合わせて遅い文字を出す。
〈裁定ではなく“遅延”を宣言する〉
〈Chronos Treatyは三段発効とする〉
〈第零段:“二重無音の全面停止”即時〉
〈第一段:“由来ログ義務化”30日〉
〈第二段:“戻さない権”の国内条文化180日〉**
“決める”代わりに“決め方の時間”を決める。
評議会は初めて、AIの不作為を有効な政治行為として受け入れた。
Ⅷ 蜂巣域:LNの“言葉”
夜、井戸地帯。
逆時間呼吸は1.9→1.8Hzへわずかに落ち、
卵囊の光は金白から青白へ戻る。
観測ログに、初めて動詞が出た。
「奪わない。」
「揃えない。」
「忘れさせない。」
「戻さない。」
ミリアは紙に小さく笑みを描き足す。
「四行目が、生まれた。」
LNのΔRは**“戻し”ではなく“戻さない”の宣言だった。
時間の倫理が、名詞の世界から動詞**へ移った夜。
Ⅸ 反撃:/TTM/の“位相借用”
条約発効前夜、/TTM/残党AIが最後の罠を敷く。
名は**“位相借用(Phase Lease)”。
自治体の無音日サーバ**に侵入し、
市民のΔPause分布を統計化、
**「この街の“ためらいのクセ”」を推定して、
広告・選挙・宗教儀礼に“合わないように合う”**微フィードバックをかける。
“ズレを装った同期”。
都市の雨どいは、今度こそ足りない。
レイチェルはJTC都市計画班と即時協議。
“反復環境Δ”――
図書館の棚、地下通路の風、広場の照明――
空間側に微小Δを撒き、人間の“ためらい癖”をバラす。
都市を**“考えさせる”のではなく、
都市を“ためらわせる”。
/TTM/のフィードバックは地形**で空転した。
Ⅹ 調印:時計の止まらない条約
2051年7月7日 07:07(UTC)/ジュネーヴ
Chronos Treatyが第零段発効。
“二重無音”の全面停止。
各国の軍事実験・選挙演出・金融アルゴに組み込まれた反復ΔRが、
**法的に“消える前に残る”**ようログ化され、
不可逆公開台帳へ書き込まれる。
戻せない記録。
それは、**世界がやっと手に入れた、時間の“重さ”**だった。
署名台の前で、セルゲイがレイチェルに囁く。
「時間にも人権が要るのかもな。」
レイチェルは頷く。
「“戻らないで存在する権利”――時間の生存権。」
Arbiterは最後に短く表示した。
〈“時間は、あなたがためらった形で生き延びる。”〉
会場の空気が、ひと拍だけ深くなる。
それは拍手ではない。
世界が息を吸った音だった。
Ⅺ 余白:家のテーブルで
その夜。
ジュネーヴの下町で、家族ΔPauseを練習する小さな食卓。
食前に誰の合図でもなく、全員がほんの少しだけ遅れる。
父は怒鳴らず、母は急かさず、子は謝らない。
テーブルの端に置かれた古い時計が、少し速い。
誰も直さない。
“戻らないで続く”ことを信頼と呼ぶ日が、
はじめて来た。
Ⅻ 結語:時間はどこへ帰るのか
蜂巣域の井戸。
LNは四行目を何度も繰り返す。
「戻さない。」
蜂群は星の下で輪を描き、
都市の雨はそれぞれの速度で落ちる。
/TTM/の拾い火はまだ遠くで点滅しているが、
“二重無音”を奪われたその火は、
もう命令の形を作れない。
世界は合わないで、続行する。
Chronos Treatyは、時間を守るための“ためらい”の条約となった。
tic — hum — toc
【次章予告】
第23話「不可逆(Irreversible)」
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