佐那と椛ー斬らず護る幕末恋剣譚

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第1話 雨の玄武館(文久三年・お玉ヶ池)

文久三年(一八六三年)、江戸・神田お玉ヶ池。

梅雨の湿りが道場の畳に滲み、埃と汗の匂いを重くしていた。


千葉ちば 佐那さなは、その息苦しいほどの熱気の中で、ただ一人、呼吸を整えている。

「――構え」

兄であり、当代の玄武館を預かる千葉重太郎ちば じゅうたろうの硬い声が飛ぶ。佐那は応じない。ただ、竹刀の先を床すれすれに下げたまま、対峙する門弟の殺気を見据えていた。

「佐那。構えと言っている」

「……承知」

短い呼気とともに、佐那は竹刀を中段に据える。

(違う)

心の中で呟く。

(この構えは、“斬る”ための構えだ)

父・定吉が完成させた北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうの技は、合理性と実戦性を極めたものだ。だが、佐那の中には、家名と技を背負う重圧とは別に、腑に落ちぬ澱が溜まり続けていた。この剣は、あまりに良く斬れすぎる。


「はじめ!」

重太郎の号令が、雨音の帳を引き裂いた。

門弟が鋭い踏み込みで打ってくる。速い。だが、佐那の眼には、その軌道が一本の線として見えていた。

彼女は刀を抜かず、息を整えた。

いや、竹刀だ。これは竹刀だ。

佐那は一歩下がりながら、相手の竹刀を、自身の竹刀の「鍔」に近い部分で受けた。甲高い竹の音。

(外円)

相手の力が、竹刀を伝って流れ込んでくる。それを殺さず、円を描くように受け流す。相手の体勢が、力の逃げ場を失って前のめりに崩れた。

「そこまで!」

重太郎の不機嫌な声が響く。

「佐那。なぜ打たぬ。今の“外し”は見事だが、なぜ即座に面を打たん」

「……」

「お前の悪い癖だ。間合いを制しながら、勝ちを拾わぬ。それは驕りか、あるいは――」

「斬る必要がなかったからです」

佐那は静かに竹刀を下ろし、兄に向き直った。

「体勢は崩れました。木刀であれば、柄で突いて制圧できます。真剣であれば、鞘のまま相手の動きを封じられます。なぜ、わざわざ竹刀で頭を打つ必要があるのですか」

道場が水を打ったように静かになった。門弟たちが、玄武館の“鬼小町”と噂される佐那と、その兄の緊張した対峙を見守っている。

重太郎は深く、長い溜息をつき、眉間の皺を刻みつけた。

「……“斬るためではない”か。お前の口癖も聞き飽きた。だが佐那、時代は変わった。京では血が流れ、江戸もまた、尊攘だ佐幕だと騒がしい。お玉ヶ池の玄武館とて、安穏とはしておれん」

「承知しております」

「分かっておらぬ。近頃、坂本という土佐の男が道場に出入りしている。あのような男が、なぜ北辰一刀流を学ぶと思う? あれは“斬る”ためではない。“斬られる”覚悟を磨くためだ。だが、我ら千葉の剣は違う。家と技を背負う我らは、斬らねばならぬ時がある」

「ですが兄上」

「稽古を終えろ。お前は少し、頭を冷やせ」


重太郎はそれだけ言い残し、道場を去った。残された門弟たちも、佐那に一礼し、そそくさと退出していく。広い道場に、佐那一人と、軒を打つ雨音だけが残された。

畳の湿った匂い。壁に掛けられた木刀に染みた、油の匂い。

(私は間違っているのか)

佐那は自問する。家と技を護る。そのために剣はある。だが、斬ってしまえば、護るべき人命も、道理も、失われるではないか。

彼女は信じていた。剣とは、斬るためでなく、道を通すためのものだと。


その時だった。

道場の外、玄武館の門前で、甲高い怒声と、何かが倒れる音がした。


「待てと言っている! その文(ふみ)を渡せ!」

「いやだ! これは伝吉さんから預かった大事な……あっ!」

子供の悲鳴。

佐那は竹刀を置くと、雨が降り込む土間を抜け、門へと走った。


***


文久三年六月の江戸は、雨に濡れていた。

紅蓮椛ぐれん もみじは、京から持ち込んだ密書を奪おうとする男たち――おそらくは幕府の密偵か、あるいは見廻組の息がかかった浪士だろう――に追われ、神田の路地を駆けていた。

(しつこい)

旅羽織の下、紅の帯に隠した密書が、汗でじっとりと重い。

京の祇園で育った椛にとって、江戸の町は勝手が違いすぎた。樽回し(連絡網)の仲間である瓦版屋の伝吉に中継ぎを頼み、その使い走りの子供に別口の陽動を頼んだのが、裏目に出た。

「そこまでだ、京女!」

浪士が二人、木戸札の陰から現れる。退路が断たれた。

椛は背負っていた荷を捨て、羽織の袖を濡らしながら、そっと右手を後ろに回す。そこには、彼女の得物――石突いしづきを鋭く研いだ、短い手槍にも似た薙刀の柄が隠されている。

だが、その手が動くより早く、浪士の一人が、陽動に使った子供の襟首を掴み上げた。

「こいつが仲間か。文を渡さねば、この小僧の腕が飛ぶぞ」

「……!」

椛の動きが止まる。

(最悪や)

嘘で道を通し、機転で人を操るのが椛の流儀だ。だが、無関係な子供が、自分の任務のために傷つくのは本意ではない。

「……分かった。渡す。せやから、その子を離し……」

椛がそう言いかけた、まさにその瞬間だった。


「――放しなさい」


雨音よりも静かで、しかし芯の通った声が、浪士たちの背後から響いた。

玄武館の門前に、一人の女が立っていた。

紺の袴に、白木綿の稽古着。雨に濡れるのも構わず、腰には大小を差しているが、その手は柄にかかっていない。ただ、静かに浪士たちを見据えている。

左の目元に、小さな古い傷跡があった。


「なんだ、女か。威勢がいいな」

浪士が子供を盾にするように、じり、と女――佐那ににじり寄る。

「どこの者かは知らぬが、これは公儀の――」

「子供を放しなさい」

二度目の警告。

浪士が苛立ち、子供を突き飛ばすと同時に、刀を抜いた。

「死ね!」

雨中、白刃が閃く。速い。京の市中で見慣れた、実戦の抜き打ちだ。

椛は舌打ちし、石突を握った。間に合わない。あの女は斬られる――


刹那。

世界が、止まったように見えた。

佐那は、刀を抜かなかった。

彼女は半身になり、浪士の踏み込みと刃の軌道を、最小限の動きで見切る。

(外円)

佐那は左手で鞘ごと刀を持ち上げ、相手の刀の側面を「受けた」。金属同士が触れ合う、鈍い音。

浪士の力が、佐那の鞘にぶつかり、そのまま流される。体勢が大きく崩れた。

佐那は、その崩れた胴に、右の拳を深く、静かに叩き込んだ。

「ぐ……っ」

浪士は息を詰まらせ、その場に崩れ落ちた。

受け花・零式。

佐那が父から教わった、相手の力を受け流し勢いを殺して制圧する、北辰一刀流の護身の型。その原型だった。


「……!」

椛は息を呑んだ。

(抜かんと、止めた?)

京では、新選組の連中が容赦なく人を斬るのを、この目で見ている。秩序のためだ、天誅だと、血が流れる。だが、今、目の前の女は、抜刀した相手を抜かずに制圧した。


「ひ、ひぃ……!」

残った浪士が、仲間が倒れたのを見て、恐怖に引きつった。

「化け物め……!」

浪士は、佐那ではなく、より弱そうな椛へと狙いを定めた。

「こいつからだ!」

刃が、椛の喉笛めがけて突き出される。

(甘い)

椛は浪士の突きを、身をかがめて避けると、即座に反応していた。

右手に握った薙刀の柄――その石突を、崩れた浪士の足元、その甲に、体重を乗せて鋭く叩き込んだ。

「ぎゃあああっ!」

骨が砕ける感触と、耳障りな悲鳴。

浪士は刀を取り落とし、足を押さえて転がった。


雨が、二人の呼吸を包んでいた。

佐那は、拳を握ったまま、椛を見つめていた。

椛もまた、石突を構えたまま、佐那を見つめていた。

一瞬。ほんの一瞬だったが、二人の呼吸は、まるで申し合わせたかのように連動していた。佐那が「受け」、椛が「制する」。


「……大丈夫か」

佐那は、倒れた浪士たちには目もくれず、突き飛ばされた子供に駆け寄った。

「立てるか。怪我は」

「だ、大丈夫……ありがとう、お姉ちゃん」

子供は、椛が落とした密書を慌てて拾うと、佐那の背後に隠れた。

「何者だ」

佐那は立ち上がり、椛を正面から見据えた。その瞳は、先ほどの戦闘とは打って変わって、冷たい警戒を帯びていた。

「あなたも、この子を追っていた浪士たちの仲間か」

「まさか。うちは逆や」

椛は石突をす、と背中に戻し、旅羽織の埃を払った。雨に濡れた紅葉の髪飾りが、小さく揺れる。

「助けてもろて、おおきに。……でも、無茶しはるなぁ。あんた、死んでたかもしれへんで」

「あなたこそ。なぜ子供を巻き込んだ?」

「……」

椛は答えず、子供が差し出す密書を受け取った。紙束は雨で濡れ、墨が滲みかけている。

「これは仕事のもんや。この子には、うちの使い走りを頼んだだけ」

「嘘だ」

佐那は即答した。

「あの子は、あなたを庇うために、あの浪士に嘘をついた。違うか」

「……」

椛は、その紺袴の女を改めて観察した。歳の頃は、自分とそう変わらないだろう。二十歳前後。だが、その佇まいは、まるで何十年も道場に立ち続けた古木のように静かだった。

(厄介な人やな)

「嘘も方便、て言うやろ。守りたいもんのためには、嘘もつかなあかん時がある」

椛はそう言って、佐那の横を通り抜けようとした。

その時、佐那が椛の腕を掴んだ。

「あっ……」

「待て」

佐那の視線が、椛の左腕に落ちていた。

旅羽織の袖が、先ほどの乱闘でわずかに裂け、そこから血が滲んでいた。浅い。だが、確かに斬られている。

「……手当てをしろ」

「これくらい、唾つけとけば治るわ」

「そうはいかぬ」

佐那は、拒否する椛の腕を掴んだまま、有無を言わさず道場の方へ引きずるように歩き出した。

「子供はここへ。門弟に家まで送らせる。あなたは、離れに来なさい」

「ちょ、ちょっと! 人の話聞いとる!?」

「聞いている。だから手当てをすると言った」

佐那の力は、細腕に似合わず強かった。それは鍛錬された者のぶれない力だった。

椛は、その強引さと掴まれた手首から伝わる自分とは違う種類の熱に、一瞬だけ抵抗を忘れた。


***


玄武館の離れ。客間として使われるその部屋は、本道場とは違い、静かで、清廉な空気が満ちていた。

雨音だけが、障子を濡らしている。

佐那は黙って薬箱を広げ、消毒用の酒と清潔な白木綿の布を取り出した。

椛は、どこか居心地悪そうに畳の上に座り、濡れた羽織を脱いでいた。紅の帯が、その細い腰を際立たせる。

「……腕を」

佐那が言う。椛は観念したように、傷ついた左腕を差し出した。

裂けた着物の袖を、佐那が指でそっとめくる。長さ三寸ほどの、浅い切り傷。

佐那の指が、傷口の周りに触れた。

(……あったかい)

椛は、そう感じた。

雨に濡れて冷え切った自分の肌に、佐那の指先の温度が、まるで小さな火種のように灯る。畳のい草の匂いと、佐那の稽古着から移る汗の乾いた匂いが混じった。

「……痛むか」

佐那が、傷口を酒で湿らせた布で拭いながら、低く尋ねた。

「これくらい、慣れてる。京じゃ日常茶飯事や」

「京……」

佐那の手が、一瞬止まった。

「あなたは、京から来たのか」

「……そうや。仕事や」

椛は、懐の密書の感触を確かめながら答える。

「あんたこそ、見事な腕やね。玄武館の千葉佐那さん、やろ。噂は聞いてる。“鬼小町”は、男よりも強い剣客やて」

「噂は好かぬ」

佐那は淡々と答え、手際よく布を巻き、紐で結んでいく。その手つきは、剣を握るのと同じように、正確で無駄がなかった。

「……なぜ、抜け(斬れ)ば早かった、と言った」

手当てが終わり、佐那が顔を上げた。

「ん?」

「さきほど、あなたは言った。抜けば早かった、と」

「ああ……」(聞こえとったんか)

椛は、自分の腕に巻かれた、真っ白な木綿の結び目を見つめた。

「事実やろ。あんたの腕なら、あの二人、一瞬で斬り伏せられたはずや。……そしたら、うちかてこんな怪我、せんで済んだかもしれんで」

椛の口調は責めるものではなかった。だが、佐那の口から出たのは弁解の色が濃いものだった。

「私は、斬りたくない」

「……は?」

「玄武館の剣は、家と技を護るためのものだ。だが、私は違う。剣は本来、人を護るためにある。斬ってしまえば、護るべき命が失われる」

佐那の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。

「斬らずに、護る。道を通す。それが、私の剣だ」

椛は、しばし呆気に取られていたが、やがて、ふっと息を漏らすように笑った。

「……あは。あんた、おもろい人やなぁ」

「笑うところか」

「かんにん。でも、そないな甘いこと、京じゃ通用せんで」

椛は立ち上がり、羽織を羽織った。

「京は今、血で血を洗うてる。新選組が、見廻組が、攘夷の志士を斬りまくってる。そんな場所で“斬りたない”なんて言うてたら、真っ先に死ぬのはあんたや」

「……」

「うちは、守りたいもんのためなら、嘘もつくし、人も騙す。……場合によったら、殺すことも躊躇わん」

それが、椛の“職能”であり、彼女が生き抜いてきた現実だった。

「うちとあんたは、住む世界が違うわ」

佐那は、畳に視線を落としたまま、動かなかった。

椛が部屋を出ようと、障子に手をかけた時、佐那が小さく呟いた。

「……それでも」

「え?」

「それでも、私は斬らぬ。あなたのやり方は、認めない」

椛は振り返った。

佐那は、真っ直ぐに椛を見ていた。左目下の小さな傷が、その意志の強さを際立たせる。

「……そうか」

椛は、それ以上何も言わなかった。

「手当て、おおきに。この借りは、いつか返すわ」


障子が開けられ、雨の匂いが強い風と共に流れ込む。

椛は、その雨の中に、あっという間に姿を消した。


一人残された離れで、佐那は、自分の右手を握りしめた。

浪士の胴を打った拳ではない。椛の腕を掴み、手当てをした、その手だ。

(……冷たかった)

あの女の肌は、雨のせいか、あるいは別の理由か、驚くほど冷たかった。

だが、そこには確かな「命」の感触があった。自分が守ろうとした、温かいもの。

佐那は、懐から一つの根付を取り出した。二つの輪が連なった、「連輪」の意匠。

(斬らずに護る)

それはまだ、誰にも理解されない、佐那だけの誓いだった。


去っていく椛の背中。彼女が呟いた「京」という言葉。

その言葉が、数ヶ月後に江戸を揺るがす「禁門の変」の知らせと繋がることを、千葉佐那はまだ知る由もなかった。

彼女の手には、まだ、あの冷たい肌の感触と、血の鉄の匂いが、生々しく残っていた。


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