第11話 夏の午後、風の匂い
屋台で再会してから数日。
それから、瞬は毎日のように通りのどこかで火を焚いていた。
風に混じる出汁の香りが、
まるで“ここにいるよ”と告げているようだった。
私は診療所の帰り道、
気づけばその灯を探すのが習慣になっていた。
「先生!」
暖簾をくぐる前に、いつもの声が聞こえる。
火の向こうの笑顔。
その光景だけで、今日一日の疲れがふっと抜けていく。
「もう“先生”って呼ぶの、やめない?」
「え?」
「……なんだか距離がある気がして。」
瞬が目を瞬かせる。
少し考えてから、柔らかく笑った。
「じゃあ、綾さん。」
「……あら、意外とすぐ呼べるのね。」
「名前、ずっと心の中で呼んでましたから。」
その一言に、
胸の奥がくすぐったくなった。
「じゃあ、私も引き続き“瞬”って呼んでいい?」
「もちろん。」
名前を呼ぶ。
それだけのことなのに、
世界の色が少し明るくなった気がした。
その夜、
瞬がふいに言った。
「ねえ、今度どこか行きませんか?」
「どこか?」
「うん。屋台の材料、ちょっと遠くの市場で仕入れたいんです。
先生にも見てほしくて。」
「……市場なんて、何年ぶりかしら。」
「じゃあ決まり。
日曜、朝早いけど大丈夫ですか?」
「ええ。」
それからふたりは、
連絡先を交換した。
瞬のスマートフォンの画面に、
私の名前が打ち込まれる。
その光景が妙に現実的で、
胸が少し高鳴った。
「連絡先、先生の名前で登録していいですか?」
「もちろん。
……でも、“先生”じゃなくてね。」
「うん、“綾さん”で。」
指先が画面を滑る。
その動作を見ているだけで、
なんだか不思議と照れくさかった。
⸻
日曜の朝、
市場はすでに人で賑わっていた。
魚を並べる音、
呼び込みの声、
氷の上を滑る光。
瞬は子どものように楽しそうだった。
「ほら、この鯛、すごくいい顔してる。」
「ほんと。目が澄んでるわ。」
「綾さん、魚見るの上手ですね。」
「医者だって、顔色を見るのは得意なのよ。」
二人で笑った。
それだけで、
市場の喧騒が少し遠く感じられた。
「綾さん、これ、匂ってみてください。」
瞬が差し出したのは、
束ねたばかりの青じそだった。
指先から広がる香り。
「……夏の匂いね。」
「うん。こういう香り、
いつか“灯”で使いたいんです。」
「あなたの屋台、これからどうするの?」
「もっと小さくてもいい。
でも、誰かが帰ってきたくなる場所にしたい。」
その言葉を聞きながら、
私はふと、自分の診療所の灯りを思い出した。
夜にひとりで灯す明かりが、
こんなにも誰かと重なる日が来るとは思わなかった。
帰り道、
瞬がふいに言った。
「……ねえ、綾さん。」
「なに?」
「私、こうして一緒にいると、
料理がもっと楽しくなるんです。」
「どうして?」
「わかんない。
でも、先生といると、
“おいしい”って言ってもらう顔が、
ちゃんと浮かぶから。」
その言葉に、
胸がやわらかく揺れた。
(――この子の作る味を、
ずっと隣で感じていたい。)
でも言葉にはしなかった。
この穏やかな距離が、今はいちばん愛しい。
歩きながら、
ふたりの影が重なった。
夏の陽が傾き、
風が髪をなでていく。
「……また一緒に、どこか行こうか。」
「うん。次はどこにします?」
「あなたの“灯”がある場所なら、どこでも。」
瞬が笑って、
少しだけ顔を赤らめた。
その笑顔を見て、
私はもう一度、
“瞬”と名前を呼んだ。
その音だけが、
夏の空に静かに溶けていった。
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