第9話 風薫る朝
春の朝は、夜よりも静かだ。
鳥の声もまだ眠たげで、
風が吹くたびに花びらがゆっくりと空に舞い上がる。
窓を開けると、
青い空に新しい季節の匂いがした。
私は深呼吸をしてから、
湯を沸かし、珈琲を落とす。
香りが立ちのぼり、
冷めた指先に少しだけぬくもりが戻った。
――あの夜から、数日が経っていた。
瞬は相変わらず屋台を出していたけれど、
最近はどこか様子が違っていた。
笑う顔の奥に、
ほんの少し迷いが混じっているように見えた。
昼過ぎ、診療所を閉めると、
私は屋台のある通りへ向かった。
けれどその夜、暖簾はなかった。
代わりに、路地の隅で瞬が箱を片づけていた。
「瞬?」
振り向いた彼女が、少し驚いたように笑った。
「先生……どうしてわかったんですか。」
「勘よ。」
「ふふ、先生までそんなこと言うんだ。」
彼女の声は、いつものように明るかった。
けれど、少しだけ風に溶けるように弱かった。
「屋台、閉めるの?」
「はい。しばらく、別の町で出してみようかと。」
「……そう。」
「本当は言うつもりなかったんですけど、
先生には黙って行けないなって思って。」
私は返す言葉を失った。
胸の奥が、静かに痛んだ。
「いつ、出るの?」
「明日の朝。」
早すぎる。
でも、止める理由が見つからなかった。
瞬は風に髪をなびかせながら、
いつもより少し大人びた顔をしていた。
「新しい町でも、きっと誰かがあなたの料理を待ってるわ。」
「そうだといいな。」
「でも……少しくらい、寂しがってもいい?」
その言葉に、
彼女の目が一瞬だけ揺れた。
「いいですよ。
私だって、たぶん、すごく寂しいですから。」
風が吹いて、
二人の髪が重なった。
花びらが舞い、頬に触れる。
「先生、また食べてくれますか?
どこかで、また私の料理を。」
「もちろん。……いつだって食べたいわ。」
「……ほんとに?」
「ええ。あなたが作るなら、どんな場所でも。」
瞬が、少し俯いた。
目元に光が滲む。
そして、小さな声で言った。
「……ありがとう。」
沈黙の中、
風が通り抜け、
ふたりの距離をほんの少しだけ近づけた。
「先生。」
「なに?」
「もう一度だけ、手を握ってもいいですか?」
私は頷いた。
彼女の手が私の手に重なる。
あたたかくて、
震えるように優しい。
その一瞬だけで、
言葉はいらなかった。
指先が覚えている。
このぬくもりが、きっとすべてを語っていた。
「……瞬。」
「はい。」
「また会いましょう。必ず。」
「うん。絶対に。」
朝日がのぼる頃、
彼女の屋台は跡形もなく消えていた。
でも通りの空気には、
まだ出汁と柚子の香りが残っていた。
私はその香りを胸いっぱいに吸い込み、
小さく笑った。
(また、会える。
――そう思いたかった。)
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