第5話 春の前触れ
窓の外で、雪が音もなく溶けていく。
屋根の端から落ちる水滴が、
ひとつ、またひとつ、朝日にきらめいた。
目を覚ますと、
診療所の部屋には、まだ出汁と生姜の香りが残っていた。
昨日の夜のことを思い出す。
熱に浮かされながら、瞬の手に触れた。
あの柔らかい指の感触が、まだ掌に残っている気がした。
私は上体を起こし、
ふと隣を見る。
簡易ベッドの端に、瞬が座ったまま眠っていた。
マフラーを膝にかけ、
腕を組んで、少し首を傾けている。
寝息が静かで、髪が頬にかかっていた。
……なんて、無防備な顔。
私は、そっとブランケットを掛け直した。
指先が彼女の髪に触れた瞬間、
胸の奥がきゅっと鳴った。
しばらく眺めていると、
瞬が小さくまぶたを動かした。
そして、私と目が合う。
「……先生。」
「おはよう、瞬。」
「よかった。熱、下がりましたね。」
「ええ、あなたのおかげよ。」
「えへへ……よかった。」
瞬は照れたように笑い、
少し伸びをした。
その仕草がなんだか愛おしくて、
私は思わず口元を緩めた。
「……どうしました?」
「いえ、かわいいなと思って。」
「えっ!? な、なにそれ。
先生、そういうのずるいです。」
瞬は頬を赤くして、
目を逸らした。
その姿に、思わず笑いがこみあげる。
「からかってないわ。ほんとに、かわいいの。」
「もう……。
そんなこと言われたら、また来たくなっちゃいますよ。」
「また来ていいわよ。」
「ほんとですか?」
「ええ。あなたが来てくれると、
ここが少し明るくなる気がするの。」
瞬は少し俯いて、
ゆっくりと息を吐いた。
「……先生、ずるいな。」
「また言われたわね、それ。」
「ほんとですもん。
そう言われたら、もう離れたくなくなる。」
その言葉のあと、
二人とも黙った。
外の光がカーテンの隙間から差し込み、
彼女の頬を照らした。
朝の光に包まれた瞬は、
まるで春のはじまりそのものみたいだった。
私は、心のどこかで理解していた。
――この想いは、もう医者と患者でも、
料理人と客でもなくなっている。
でも、言葉にはしない。
今はまだ、ただこの時間のぬくもりを信じていたかった。
瞬が立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行きます。
仕込みをしないといけないので。」
「……また、夜に?」
「うん。今度は“春のお吸い物”を持ってきます。」
「春?」
「菜の花と、春のお魚、少しだけ桜の塩漬け。
まだ季節には早いけど……先生に一番先に食べてもらいたくて。」
「……ずるい子ね。」
「また言った!」
二人で笑った。
その笑い声が、冬の部屋を満たしていく。
瞬が扉を開ける。
外はもう雪ではなく、やわらかな雨に変わっていた。
「また夜に。」
「ええ、待ってるわ。」
扉が閉まると、
部屋に静けさが戻る。
私は窓辺に立ち、
淡い光に濡れる街を見下ろした。
――春が来る。
そう思った。
でもそれは、季節の話ではない。
私の中に芽吹いた、
ひとりの女の子へのあたたかい感情。
それが、確かに息をしていた。
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