ひと匙の灯
小肌マグロ
第1話 灯(ともり)の夜
夜の風が冷たくなった。
窓の外で銀杏の葉が散って、街灯の光を反射している。
秋の終わりは、どうしてこんなにも静かで、少し寂しいのだろう。
机の上のカルテを閉じると、時計の針は十一時を過ぎていた。
今日も患者は多く、会話よりもため息の方が多かった。
私は白衣を脱がずに、しばらく椅子にもたれかかっていた。
頭の中がまだ“日常”から抜けきらない。
そんなとき、ふと風が香りを運んできた。
出汁の香り。
焦がし醤油に、、、少しの柚子。
雨のあとのように澄んだ匂いだった。
(……この時間に屋台?)
気づけば、私は外に出ていた。
コートの襟を立て、冷たい風の中を歩く。
通りの奥、小さな灯りがゆらめいていた。
赤い暖簾に「灯(ともり)」と書かれている。
湯気と火の匂いに包まれながら暖簾をくぐると、
そこに一人の女性がいた。
割烹着の袖をまくり、火元の鍋を覗き込んでいる。
髪は短く、耳のあたりでくるりと跳ねていた。
顔立ちは凛としているのに、笑うとあどけない。
頬に小さな火傷の跡。
それが、不思議とよく似合っていた。
「いらっしゃいませ!遅いですね。」
「……仕事が終わらなくて。」
「お医者さん、ですか?」
私は少し驚いた。
「どうして分かるの?」
「さっきまで向こうの診療所に明かりがついてました。
あの場所で夜まで残ってる人なんて、先生くらいしかいないでしょう?」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
声が優しくて、どこか懐かしい響きだった。
「何にします?」
「おすすめを。」
「じゃあ、湯豆腐っ、と少し柚子を聞かせたお出汁で合わせます。
夜は冷えるから、体が喜ぶ味にしますね。」
湯気が立ち上る。
私は無意識に手をかざした。
火の熱に少し安堵する。
「先生、手が冷たいんですか?」
「仕事柄ね。ずっと冷たい手をしてる。」
「ふうん……あたためてあげたいな。」
冗談のように言うのに、まなざしはまっすぐで、
なぜか目を逸らせなかった。
「あなたは?」
「料理人です。名前は瞬(しゅん)。
旅の途中で、屋台をやってます。」
「旅……?」
「じっとしてると、寂しくなるんです。
火を焚いて、人と話して、それでやっと“生きてる”って思えるから。」
火がぱち、と弾けた。
その音に、私の胸の奥も少しだけ疼いた。
――“生きてる”という言葉が、
どうしてこんなに胸に響くのだろう。
「……良い言葉ね。」
「先生、疲れてる顔してますよ。」
「そう見える?」
「うん。でも、そういう顔、きれいです。」
一瞬、呼吸が止まった。
それは恋の言葉でもなく、慰めでもなく、
ただ真っ直ぐで、嘘のない言葉。
それが、私の中の氷を少しだけ溶かした。
その夜、湯豆腐を食べ終えたあと、
私は何度も火の揺れを見ていた。
もう帰らなくてはと思いながらも、
どうしても立ち上がれなかった。
「……また来てもいい?」
「もちろん。夜が長いほど、火は寂しがりますから。」
瞬はそう言って笑った。
その笑顔が、灯よりも柔らかかった。
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