第10話 黒い影

 朝の鐘が、まだ眠る街をやわらかく震わせていた。

 祈りの時刻。修道院の中庭には、すでに長い列ができている。

 寒さで赤くなった頬を両手で覆いながら、人々は静かに湯気の立つ鍋を待っていた。


 田中はいつものように、列の端で手伝いをしていた。

 大きな木の椀に麦粥をよそい、差し出すたびに「ありがとう」と小さな声が返ってくる。

 炊き出しの香りに混じって、遠くの窯からパンを焼く匂いが流れてきた。


 列の途中で、ふと低い声がした。


 「北の森で、また狼が出たんだとよ」

 「この前の討伐で退治されたはずじゃ……?」

 「いや、違う。奥からまた現れたんだ。今度は2人もやられたらしい」


 その言葉に、リーナが手を止めた。

 彼女は穏やかな表情のまま、鍋の中を見つめる。


 「……また、ですか」

 「前の討伐隊は、半分も戻ってこなかったって聞きました」

 「詳しいことは知りません。教会には、ただ神の試練という報せしか……」


 言いながら、彼女は祈るように胸の前で指を組む。


 「これ以上、犠牲が出ませんように」


 彼は静かにうなずいた。

 だが胸の奥では、別の思考が動き始めていた。

 前回の出現からわずか数週間。討伐隊の半数が帰還しなかったという話は、ただの噂ではない。

 この街を取り巻く不安の根が、思っていたより深い。

 鍋を置くと、彼女に軽く頭を下げる。


 「今日は、少し街を見て回ります」

 「そうですか。無理なさらないでくださいね」


 彼女の微笑みを背に、田中は修道院を後にした。




 昼近く、冒険者ギルドの建物が見えてきた。

 石畳の通りの先に、木製の看板が軋む音がする。

 扉を開けた瞬間、空気が一変した。


 「北の森だってよ!」

 「また魔狼か!?」

 「今度は冒険者にも依頼がでるらしい!」


 ざわめきが渦を巻くように広がっていた。

 掲示板の前には冒険者たちが群がり、各々が紙を引きちぎるようにして読んでいる。


 田中も近づいてみる。

 そこには見慣れた文字ではないが、数字だけは読めた。――100。

 銀貨100枚……。計算すると、金貨1枚相当。薬草の根を集めている身からすると、どえらい報酬だ。


 「……討伐報酬、ってことか」


 背後から、明るい声が飛んだ。


 「そうやで。よう見とるな、あんた」


 振り向くと、カウンターの奥に一人の女性が立っていた。

 髪を後ろでざっくり束ね、鋲打ちの革鎧で隠しているが、スタイルの良さが見て取れる。

 口元には人懐っこい笑み、腕には力仕事の痕。


 「グレータですわ。ウチが休んどる日に来てたんやってな。ほんますまんかったな」

 「ああ、その節は。たまたま運が悪かっただけです」

 「はは、そう言ってもらえると助かるわ。ま、登録はちゃんと通っとるし、安心して仕事したってや」


 グレータは彼の肩をトントンと叩くと、棚から書類を取り出した。

 その後ろでは、冒険者たちが興奮気味に口を開いている。


 「ルドルフ卿の名で再討伐だとよ!」

 「前の義勇兵どもは半分も帰ってこなかったんだぞ!」

 「今度は報酬が出る! 命張る価値はある!」


 グレータが手のひらをパンと鳴らす。


 「静かにせぇっ! はいはい、落ち着きー。落ち着きー。今回の討伐は、ルドルフ卿からの正式な勅命や。せやけど、ギルド推薦者限定。腕に覚えのある奴だけ申し込みや!」


 その言葉に場が少し沈む。

 重苦しい空気になるのを、田中は肌で感じた。


 「前回は、自警団と義勇兵ばっかりやったからな。帰ってきたの、半分どころか……3割って話もある」

 「そんなに……?」

 「せや。あの森は呪われとる。誰も本当の姿を見たことがない。でかい狼って噂やけど、正体は誰にも分からへんのや」


 グレータの声が静まり、代わりに入口の扉が軋んだ。

 入ってきたのは、赤毛をひとつに束ねた女戦士――カタリナだった。

 人々が自然に道を空け、彼女はまっすぐカウンターへ向かう。


 「見たよ、討伐令。もう受け付けてる?」

 「おう、来たな姐さん。けど、行くんか? 前回の薬草採集から戻ったばっかやろ」

 「放っておけないさ。北の森なら、少しは地の利がある」


 グレータは眉をひそめ、書類を閉じた。


 「また無茶すんで。……前ん時、帰ってきたんは姐さんだけやろ」

 「だからこそ、行くんだよ」


 短いやり取りだったが、田中には重みが伝わった。

 前ん時――。それは、あの薬草採集の夜、焚き火のそばで彼女が語っていた仲間を亡くした話のことだ。


 カタリナは紙に名を書き、グレータに差し出す。


 「この街で誰かが怯えてるなら、見過ごせない。それが、あたしのやり方だ」

 「……ほんま、筋金入りの義理堅さやな」


 グレータはため息混じりに笑い、書類を受け取った。




 夕暮れ。

 ギルドを出た彼は、通りで装備を整えるカタリナを見つけた。

 剣の刃を磨き、鞘を確かめている。

 その横顔に、思わず声をかけた。


 「カタリナさん」

 「ん?」

 「今回の討伐……。僕も行かせてください」


 カタリナは手を止めた。

 夕陽が彼女の赤髪を照らし、光が刃に反射してまぶしい。


 「……あんた、戦えないだろ」

 「はい。でも、見て記録を残せます。何が起きて、なぜ失敗するのかを知らなければ、誰も次に生かせない」


 彼女は少しだけ笑った。


 「学者みたいなこと言うね」


 しかしすぐに、その笑みは真顔に戻る。


 「悪いけど、今回は本気の戦だ。荷物持ちでもかばう余裕はない」


 田中は小さく息を吸い、うなずいた。


 「……そうですか」


 沈黙。風が通り過ぎる。

 その中で、カタリナはぽつりとつぶやいた。


 「やっぱ似てるな」

 「え?」

 「昔の仲間にさ。あんたみたいに、妙に危なっかしくて放っとけない奴」


 何も言えなかった。

 彼女の言葉には、笑いよりも痛みが混じっていた。




 夜。

 ギルドの裏口で、グレータが煙草をふかしていた。

 焚き火のような匂いが夜気に混じる。


 「さっきの顔、見りゃ分かる。姐さんに断られたやろ」

 「ええ、まぁ」

 「そらそうや。あの人、もう二度と誰かを死なせたくないんや」


 グレータは夜空を仰ぎ、煙を吐く。


 「前ん時も似たような若造がおった。森の研究がしたい言うて、姐さんのパーティに入ったんや。けどそいつは帰ってこんかった――」


 田中は目を伏せる。

 風が2人の間を抜け、ロウソクの炎を揺らした。


 「……それで、あの言い方だったんですね」

 「せやな。足手まとい言うたけど、ほんまは守りたかったんやと思うで」


 少し沈黙が落ちる。

 グレータは煙草の火を指で弾き、笑った。


 「ま、あんたもよう残ったな。カタリナ姐さんに気に入られるなんて、なかなかやで」

 「気に入られてる、ですかね……」

 「はは、あの人が似てる言うたなら、それが証拠や。ま、気張りや。焦らんでも、出番はそのうち来るやろ」




 数日後。

 北門前はすでに人の波で埋まっていた。

 鎧をまとった冒険者、槍を持つ衛兵、祈りを捧げる修道士たち。

 討伐隊の出発が近い。


 カタリナは馬の腹帯を締めながら、仲間たちに指示を出していた。

 田中はその姿を遠巻きに見つめ、歩み寄った。


 「カタリナさん!」

 「……あんた、また来たのか」

 「どうしても見送りたくて」

 「まったく、変な奴」


 彼女は苦笑しながら、鎧の留め金を鳴らした。


 「街を頼むよ。私が戻るまで、変なことすんな」

 「約束します」


 そう言うと、カタリナは馬に跨がり、朝の陽を受けて、真っすぐ北の森を見据えた。


 鐘の音が鳴り渡り、馬の蹄の音。鉄と鉄がぶつかる音、それに人々の祈りの声が重なった。




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あまりモンスターなんかが出ない話ですが、魔狼だけは特別です♪


※同名の小説を「小説家になろう」にも掲載しております。

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