第4話 祈りの余韻

 鐘の音が、日が沈むまで続いていた。

 街の明かりが一つ、また一つと灯る。

 グライフェナウの夕暮れは、祈りとともに始まり、祈りとともに終わる。


 田中は通りを歩いていた。

 石畳を踏むたびに、靴底が小さく音を立てる。

 遠くの広場では、吟遊詩人が笛を奏で、行き交う人々がそれを聞きながら祈りを口にする。


 この街の空気には、どこか独特の温度があった。

 穏やかで、信仰に満ちている。

 だがそれだけではない――人々の暮らしの中に、必死さが見え隠れする。

 戦で男手を失った家々が多いのだろう。女や子どもが荷車を押し、修道女たちは薬草を抱えて往来を急いでいた。


 そんな街の、そのひとりひとりの顔を見ながら歩いた。

 大きな通りから、工房が建ち並ぶ地域。宿屋や飯屋が並ぶ人が多い所を抜け、裏路地に入る。

 気づけば、再び修道院の鐘楼が見えていた。

 自然と足がそちらに向かっていた。正確には、夜を明かせそうな場所を見つけられず、ただ戻ってきただけなのだが。

 昼間、炊き出しで世話になったリーナの顔が脳裏に浮かぶ。


 中庭に入ると、まだ人の気配が残っていた。

 夕飯を終えた農民たちが椀を返し、火の落ちた大鍋の前で、白衣の人々が片づけをしている。

 その中に、彼女の姿があった。


 袖をまくり、洗い桶の中で鍋を磨く。

 顔の横を流れる金髪が、灯火に照らされて淡く光った。

 隣で手伝う修道女に、微笑みながら声をかけている。


 「そちらは、わたくしがやります。あなたは包帯の方を」

 「でも、リーナさん……」

 「いいの。明日の朝に間に合わせたいから」


 少し無理をしているように見えた。

 なにもできないが、何をしないよりもマシかもしれない。そんな思いから、田中は門の陰からそっと出る。


 「何か、少し手伝いましょうか?」


 リーナが驚いたように振り向く。

 その手に握られていた桶から、少し水がこぼれた。


 「ターナカさん、まだいたんですね」

 「ぼーっと見ていました」

 「ふふ、変わった巡礼者さん」


 彼女は笑い、濡れた手を布で拭いた。

 その笑顔の奥に、ほんの少し疲れが滲んでいた。


 「大変ですね」

 「炊き出しの人手が足りなくて……。明日は寡婦の会の集まりがあるんです。病で倒れた方や、孤児院に送る包帯を用意しなきゃならなくて」


 桶の隣には、古布を裂いた包帯の束。

 その端に、まだ少し汚れが残るものもあった。


 「……これ、全部リーナさんが?」

 「みんなで少しずつ。でも、仕上げは私の役目です」


 穏やかに答えるが、その指先は赤く荒れ、爪の間に小さな傷が見える。


 「困っている人を見捨てられませんから」


 田中は、しばし黙ってから静かに提案した。


 「少し休みませんか。僕、そういうの……少しだけ得意なんです」

 「得意?」

 「心を落ち着ける方法、というか。癒やし方、みたいなものです」

 「司祭様の祈りのような?」

 「似てるけど、ちょっと違います」


 彼女は不思議そうに瞬きをしたが、彼の真剣な表情に押されるようにうなずいた。


 「少しだけ、なら」




 2人は修道院の片隅、夕闇に沈む中庭のベンチに並んで座った。

 空を見上げると、雲の切れ間に小さな星が瞬いている。

 風の音と、遠くの鐘の残響。夜の気配が静かに満ちていく。


 田中は、優しくこれから行う事について説明した。

 声を掛けること。体には触れないこと。安全なこと。それと、急に心がざらついたり、違和感を覚えたらベンチを叩くこと。

 彼女は、それを理解しているのか、していないのか。ニコニコと微笑んだままで聞いている。


 「では、目を閉じて。深呼吸してください」

 「え?」

 「だまされたと思って、少しだけ」


 リーナは戸惑いながらも、ゆっくりと従った。

 田中の声が、静かに続く。


 「息を吸って……。吐いて。僕の言葉が、あなたの心に。体に。少しだけ染みこみます。肩から、指先まで力が抜け。胸元、お腹、腰。順番に力が抜けていきます。嫌な力の抜け方では無くて、心地良い力の抜け方です」


 彼女の呼吸のタイミングを見る。


 「そう、すぅっと体が楽になる。体が楽になると、心も楽になる。次第に、足先まで楽になる……。今日の疲れが、少しずつ体の外に流れていく。指先から、足の先から、空気みたいに抜けていく」


 穏やかな声。

 鐘の余韻と混じって、まるで祈りの言葉のように響く。

 彼女の肩が小さく上下し、やがて呼吸がゆるやかになった。

 瞼の下のまつ毛が震え、唇が小さく開く。


 「……不思議。頭の中が静かになっていく……」

 「それでいいです。何も考えずに、ただ呼吸して。あなたは今、とても穏やかで、守られています」


 彼の声は、風のようにやわらかい。

 周囲の灯が揺らぎ、修道院の壁に2人の影が寄り添うように映っていた。


 「そう、それでいいです。何も考えずに、ただ呼吸して。そのまま、少しだけ心を休めましょう」


 それから数分。癒やしの言葉を投げ続ける。肉体的な疲労、精神的な疲労。少しでも彼女の心が軽くなるのであればと、願いを込めて。


 「では最後に、しっかり目を覚ましましょう。頭の中に冷たい風が通り抜け、意識がはっきりしてきます。1、2……。8、9、10。おはようございます」


 少しの沈黙。

 やがて、リーナが小さく息を吐いた。


 「……こんなに、楽になったのは久しぶりです」


 その声には、驚きと安堵が入り混じっていた。

 彼女は両手を見つめ、指を軽く握った。


 「体の奥にあった重さが……消えていったみたいです。肩も、背中も、まるで羽が生えたみたいに軽い……」


 頬にひとすじ、涙が落ちた。

 自分でも気づかないうちに、張り詰めていたものがほどけていたのだろうか。


 「……ターナカさんの言葉、祈りみたいでした」

 「祈りじゃないですよ。ただの催眠術。まぁ、技術みたいなものです」

 「でも……わたくしには、まるで天使に手を引かれて、空の上へ連れて行かれたみたいな気持ちでした」


 その言葉に、田中は少し苦笑した。


 「そんな大それたものじゃないです。ただ、人は少し安心できるだけで、心が変わるんです」


 静かにうなずく。

 目尻には、まだ涙の名残が光っていた。


 「……あなたのような人を、この街では使って呼ぶんですよ」

 「やめてください。そんなの、恥ずかしいですから」


 彼の言葉に、リーナが柔らかく笑った。

 その笑顔は、夜灯の下で淡く揺れていた。


 彼女の笑みに、田中は小さく息を呑んだ。

 ――この世界で初めて見た、心からの安らぎの表情。

 癒やしたのは彼の催眠ではなく、きっと言葉そのものだったのだろう。


 夜風が2人の間を抜け、鐘楼の上では最後の鐘がゆっくりと鳴った。

 その音が消えたあとも、修道院の灯は消えず、2人の沈黙は心地よく続いていた。



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※同名の小説を「小説家になろう」にも掲載しております。

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