軽トラが曲がる夜
@neko_maru17
第一章 夜を曲げる者
プロローグ
午前七時三十分。
中村悠一は、玄関で靴紐を結びながら母親の声を聞いていた。
「悠一、お弁当」
母親が台所から小走りでやってきて、タッパーに入った弁当を手渡した。
五十八歳。腰が少し曲がっている。
毎朝五時に起きて、父親と中村の弁当を作る。
「ありがとう」
中村は弁当を受け取った。重い。おにぎりが三つは入っている。
「今日の面接、頑張ってね」
母親は笑顔で言った。目尻に皺が寄る。
「うん」
中村は頷いた。
嘘だった。
今日、面接などない。
「運送会社なんでしょう? 悠一、運転は得意だから大丈夫よ」
「うん」
「お父さんも、応援してるって」
「うん」
中村は玄関を出た。
軽トラが停まっている。
荷台には、父親が使う農機具が無造作に積まれていた。
鍬、スコップ、それから錆びた一輪車。
「いってきます」
中村は振り返らずに言った。
母親の「いってらっしゃい」という声が、背中に刺さった。
一
午後零時十分。
中村はコンビニの駐車場に軽トラを停め、助手席で弁当の蓋を開けた。
おにぎりが三つ。梅干し、鮭、昆布。卵焼きが四切れ。ウインナーが三本。ミニトマトが二つ。
それから、母親が庭で育てている小松菜のおひたし。
中村は割り箸を割り、おにぎりを一つ手に取った。
梅干しのおにぎりは、母親が三十年作り続けている味だった。少し塩辛い。
だが、それがいい。
中村は子供の頃から、この味を食べて育った。
卵焼きを口に入れる。
少し甘い。
これも、母親の定番。
ウインナーは、斜めに切り込みが入っている。
タコさんウインナー、ではない。
母親は「悠一はもう大人だから」と言って、タコさんウインナーを作らなくなった。
それが、少し寂しかった。
中村は携帯電話を取り出し、検索窓に「警察官 職務質問 マニュアル」と打ち込んだ。
いくつかのサイトが表示される。
警察のホームページ、それから個人のブログ。
中村はそれらを順番に読んだ。
「職務質問の際は、まず相手の名前と住所を確認する」
「不審な点があれば、持ち物検査を行うことができる」
「ただし、強制的に持ち物を見ることはできない。相手の同意が必要」
中村はそれらをメモ帳アプリに書き写した。
三年前にも、同じことをした。
だが、あの時は失敗した。
あの時は、相手が普通のサラリーマンだった。
中村が職務質問をした時、相手は素直に協力してくれた。
だが、最後に「では、あなたの警察手帳を見せてください」と言われた。
中村は何も言えなかった。
相手は携帯電話を取り出し、本物の警察に通報した。
十五分後、本物の警察官—佐藤巡査部長—が来た。
「お前、何がしたいんだ」
佐藤は呆れたように言った。
そうだ、三年前にも同じことをしていた。
逮捕されて、罰金を払って、それで終わったはずだった。
母親は泣いた。
父親は口を聞いてくれなくなった。
だが、終わっていなかった。
中村は弁当を食べ終え、タッパーの蓋を閉めた。
それから、小さく呟いた。
「母さん、ごめん」
窓の外では、昼休みのサラリーマンたちがコンビニに出入りしていた。
誰もが、どこかに向かっている。
目的がある。
中村には、ない。
中村は軽トラのエンジンをかけ、駐車場を出た。
二
午後三時から午後九時まで、中村は住宅街をうろうろ運転していた。
二丁目、三丁目、四丁目。
同じ道を何度も通った。
だが、誰も歩いていない。
いや、何人かは歩いていた。
だが、彼らは「悪人」には見えなかった。
犬を散歩させている老人。
自転車に乗った高校生。
ベビーカーを押している若い母親。
彼らに職務質問をしても、意味がない。
中村が求めているのは、「本物の悪人」だった。
次は失敗できない。
本物の悪人を捕まえれば、認めてもらえる。
そう思っていた。
誰に認めてもらうのか。
中村にも、分からなかった。
午後九時、中村は再びコンビニの駐車場に軽トラを停めた。
助手席に置いてあるボストンバッグを開け、中から紺色の制服を取り出した。
ネットオークションで買った警察官の制服。
「コスプレ用」という説明書きがあったが、本物そっくりだった。
サイズは「S」。中村の体型は「M」だが、Sしか出品されていなかった。
中村は運転席で制服に着替えた。
窓の外を気にしながら、素早く。
シャツを脱ぎ、制服のシャツを着る。
ズボンを脱ぎ、制服のズボンを履く。
それから、ルームミラーで自分の姿を確認した。
警察官だった。
少なくとも、見た目は。
中村は敬礼をしてみた。
右手を額に当てる。
指は揃える。
「中村巡査、配置につきます」
独り言を言って、中村は苦笑した。
バカみたいだ。だが、止められない。
中村は軽トラを降り、制服のポケットに懐中電灯と手帳を入れた。
手帳は百円ショップで買ったもの。
表紙に「POLICE」とシールを貼った。
中を開けば、ただのメモ帳だとバレる。
だから、開かない。
腰には、警棒のように見える黒い棒をぶら下げた。
これも百円ショップで買った伸縮式の指示棒。
それから、中村は歩き始めた。
今日こそ、本物の悪人を捕まえる。
三
午前二時十三分。
中村は街灯の下に立ち、じっと待っていた。
もう三時間が経っていた。その間、誰も通らなかった。
寒かった。
十一月の夜気は冷たく、吐く息が白い。
制服の下に着ているシャツは薄く、風が吹くたびに体が震えた。
だが、中村は動かなかった。
もし今、諦めて帰ったら、また次も同じことをする。
そしてまた、何も捕まえられない。
それの繰り返し。
中村は深呼吸をした。
それから、もう一度、敬礼の姿勢を確認した。
その時、角の向こうから、人影が見えた。
中村は息を止めた。
人影はゆっくりと近づいてきた。
男だった。
三十代後半くらい。
ジャンパーを着て、両手をポケットに突っ込んでいる。
煙草を咥えていた。
中村の心臓が早鐘を打ち始めた。
この男は、怪しい。
なぜそう思ったのか、中村にも分からない。
ただ、直感だった。
こんな時間に路地を歩いている男。
煙草を咥えたまま、ゆっくりと歩いている男。
中村は姿勢を正した。
男が近づいてくる。十五メートル、十メートル、五メートル。
中村は、声をかけた。
「あの、すみません」
四
シゲは煙草を咥えたまま、自動販売機の前に立っていた。
財布の中には千円札が三枚と小銭が少し。
缶コーヒーを買うべきか、買わざるべきか。
どうでもいい選択に三十秒ほど費やしてから、結局何も買わずに踵を返した。
十一月の夜気は冷たく、吐く息が白い。
住宅街の路地に街灯はまばらで、シゲの影は伸びたり縮んだりを繰り返した。
彼は両手をジャンパーのポケットに突っ込み、特に急ぐでもなく歩いていた。
右のポケットには煙草とライター。
左のポケットには、小さなビニール袋が三つ。
それと、もう一つ。
角を曲がったところで、シゲは足を止めた。
二十メートルほど先に、人影が見えた。
街灯の下に立っているのは、紺色の制服を着た男だった。
警察官、だとシゲは思った。
帽子を被り、腰には何か、警棒だろうか、ぶら下げている。
男はこちらを見ていた。
いや、見ているというより、待っていた。
シゲは煙草を指で挟み、ゆっくりと煙を吐き出した。
それから、何事もないように歩き始めた。
距離が縮まる。
十五メートル、十メートル、五メートル。
「あの、すみません」
男が声をかけてきたのは、シゲが通り過ぎようとした瞬間だった。
シゲは足を止め、男を見た。
三十代半ばだろうか。
身長は百七十センチくらい。
制服は本物に見えたが、どこか着慣れていない印象を受けた。
肩のあたりが微妙にずれている。袖も短い。
「はい」
シゲは穏やかに答えた。
「こんな時間に、どちらへ?」
男は笑顔を作った。
警察官らしい、形式的な笑顔。
だがその目は笑っていなかった。
緊張しているのか、それとも何か別の感情なのか。
「家に帰るところです」
「ああ、そうですか」男は頷いた。
それから、人差し指で鼻の下をこすった。
「この辺りにお住まいで?」
「ええ、二丁目の方に」
嘘だった。
シゲは四丁目のアパートに住んでいた。
だが、こういう時は少しだけ情報をずらすのが鉄則だ。
「そうですか。最近、この辺りで不審な人物の目撃情報が多くてね」
男はそう言って、また鼻の下をこすった。
それから、言葉を切った。
まるで台本を暗記してきたが、次のページを忘れたような間。
「……不審な人物、ですか」
シゲは煙草の灰を地面に落とした。
「ええ、まあ、その……」男は視線を泳がせた。「物騒な世の中ですから」
シゲは男の目を見た。
警察官は普通、こんな風に言葉を濁さない。
もっと堂々としている。もっと、機械的だ。
「そうですね」シゲは言った。「気をつけないと」
「ええ、ええ」男は何度も頷いた。
「あの、すみませんが、少しお話を聞かせてもらってもいいですか?」
「職務質問、ですか?」
「まあ、そんな大げさなものじゃないんですが」
男は苦笑した。また鼻の下をこすった。
「ちょっと、確認させてもらえれば」
シゲは煙草を口に戻し、深く吸い込んだ。
それから、ゆっくりと煙を吐き出した。
「分かりました」
五
中村悠一は、心臓が早鐘を打っているのを感じていた。
目の前の男は、怪しかった。
いや、怪しいというより、怪しくなさすぎた。
こんな時間に路地を歩いている男が、こんなに落ち着いているはずがない。
普通なら、警察官に声をかけられれば多少は動揺する。
だがこの男は、まるで午後のカフェで世間話をしているような調子だった。
中村は制服の襟を直した。
サイズが微妙に合っていない。
肩のあたりが窮屈で、動くたびに布が引っ張られる。
「お名前は?」
「山本です」
「フルネームで」
「山本孝太郎」
シゲはすらすらと答えた。
偽名だろうか。それとも本名だろうか。
中村には判断がつかなかった。
「お仕事は?」
「運送業です」
「夜勤ですか?」
「いえ、今日は遅くまで飲んでいまして」
嘘だ。と中村は思った。
この男から酒の匂いはしない。
煙草の匂いはするが、酒の匂いはしない。
だが、中村はそれを指摘できなかった。
なぜなら、自分も嘘をついているからだ。
中村は本物の警察官ではない。
中村は警察官になりたかった。
高校を卒業してから、五回受験した。
全て落ちた。
六回目の試験の前日、中村は願書を破り捨てた。
それから十年が経った。
だが、諦めきれなかった。
自分にそう言い聞かせてきた。
「すみません、何か?」
シゲの声で、中村は我に返った。
「あ、いえ」中村は咳払いをした。
「その…お酒は、どこで?」
「駅前の居酒屋です」
「一人で?」
「ええ」
「何時くらいまで?」
「一時くらいまで、だったと思います」
中村は腕時計を見た。
午前二時十五分。辻褄は合う。
だが、何かが引っかかる。
「その、失礼ですが」中村は言いにくそうに言った。
「煙草、吸われてますよね」
「ええ」
「ポケットに、手を入れたままですが」
シゲは一瞬、目を細めた。
それから、ゆっくりと両手をポケットから出した。
右手には煙草とライター。左手は、何も持っていなかった。
「すみません、癖で」シゲは笑った。
「寒いもので」
中村は頷いた。
だが、違和感は消えなかった。
シゲが左手をポケットから出した瞬間、何かが、ほんの少しだけポケットの中で音を立てた。
カサカサという、ビニールのような音。
(第一章 了)
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