第四話 天才・霆華の実力
ガサッ。
屈んで茂みに身をひそめる霆華の右斜め前から、何かが葉をこする音がかすかに聞こえた。
彼は身を動かさず、目だけで音の先を追う。少しずつ、自分の目の前にある獣道へ近づいているようだ。
ふぅーと彼は静かに息を吐き、矢をつがえる。何千、何万と繰り返してきた動作には一切の澱みがない。しかし、“洗練”や“熟達”といった言葉ではすべてを表現しきれない。
最も基本となる所作だけで、誰しもが悟るのだ。霆華は天賦の才をもつ者である、と。並々ならぬ努力とその下に広く、厚く、深く存在する“才能”が、今、一筋の軌跡を空に描く。
放たれた矢―適度な長さに切り揃えられ、先端を鋭くとがらせた木の枝―は茂みから飛び出てきた兎の急所を正確に射抜く。矢は対角線上、木々が生い茂る暗闇の向こうへと消えて行った。
霆華はすぐに獲物には近づかない。兎の喉元から流れ出る大量の血が小さな水たまりを作りながら地面へ吸われていくの視界に入れながら、周囲の物音に注意を向ける。
ガサガサッ。ドスドス。
先ほどよりも数段大きな音が左から聞こえる。足音からして大型の、4足歩行の生物だ…。まだ距離は若干遠い。しかし確実にこちらへ近づいてきている。
(こりゃあ、大当たりだ!大頭も喜んでくれるはずっ!!)
思わずにやける口元を手で押さえて無理やりに戻す。獲物を捕れることは喜ばしい。しかし、これから自分が行うことを考えれば、どういう態度でこの役目に臨むべきかと霆華は立ち返るのであった…。
静焔と館を出たのが早朝。今は太陽を見るに正午を少し過ぎた頃合いだろうか。ひとまず前線の砦を第一の目的地として彼らは歩を進めていた。
砦までは一日かからない。到着は夜になるだろうが、日が変わる頃よりは遥かに早く到着するだろう。魔軍の攻勢は終わったにも関わらず、雪焔の帰りを待って―というより彼女が藪を突いたがために飛び出してきた魔軍に備えて―前線の者たちはいまだに大戦時と変わらず臨戦態勢をとっている。これまでのような規則正しい戦闘ではない。魔軍が来ない可能性も十分にある。しかし攻め込まれた場合、その時間、戦力などの情報がほとんどない中での防衛になる。前線は、ほぼ奇襲を受けるようなものだ。だからこそ、一瞬も気を抜けない、異様な空気感が蔓延していることだろう…。
「―だから、飯を食うんだよ!うまい飯を!」
霆華は狩りの前に聞いた静焔の言を思いだす。
「いいか、霆華。俺は、群を軍とするには大きく3つのやり方があると思っている。“恐怖”“懐柔”“人望”だ」
「大頭、怒るとき本当におっかないですもんね」
「お前は俺が怖えからいうこと聞いてんのか」
「いいや。大頭が超強ぇのは知ってますけど、でも怖いからってのは違いますぜ。むしろ“人望”に引っ張られてる感じっす。大頭の佇まい、思考、武力!もう、存在そのものが俺にとっての目標っす!たとえば―」
陽光もかくやというほどに霆華の眼光が輝く。限界まで目を見開いて「静焔の好きなとこ100選」と言わんばかりに飛び出してくる美辞麗句の数々を、あぁー分かった分かった!と静焔は赤面しながら手で制した。
「えーゴホン。要するに、だ。前線の奴らも今の状態では精神をすり減らすばかり。それではいざというときに動けないし、もしも前線へ配属を命じた上層部への不信感が育っているとすれば、それこそ内部分裂待ったなし、だ」
なるほど、だから飯か。と霆華は静焔の言わんとすることを理解する。うまい飯を食えば緊張もほぐれるだろうし、それを大軍団長が実施すれば軍全体への不信感にはつながらない。むしろより忠義に励もうとするだろう。おおよそ戦場の楽しみなんて飯くらいなもんだし…。霆華は自分が参加した戦場での経験を思い出し、そして振り払うかのように首を振った。
「砦までの道中だと狩りをして新鮮な肉を持っていくのが一番喜ばれますかね」
「そうだな。俺たちだけなら野兎一匹で十分だろうが、砦の者全員なら、大物を狩って持っていこう。霆華、頼めるか」
「頼めるか、じゃなくて、命令してくれたらいいんっすよ。俺はそれでちゃんと働くんで!」
不快感も猜疑心も何もなく、霆華にとって静焔の言はすべて正しく、また必ず達成すべき命令なのだ。ごく自然に、それが当然であるという前提で彼は静焔の言葉を聞いている。地面に滴る血液が地中へと染み込み、表面だけでなく深く深くその地層をどす黒く染め上げるかのように。
そんな霆華の様子を見抜き、これが己の罪か、と静焔はため息をつく。
「いや、この旅路は俺が半ば強引に飛び出したものだ。館の中のような秩序が必要とも思わない。霆華。よい機会だから、存分に館の外を見て、聞いて、感じるんだ。お前は俺の役に立つといったが、俺もお前の役に立つ。持ちつもたれつ。迎合ではなく協力でもってこの旅路の則としよう」
「は、はぁ…。わかりやした…。と、とりあえず!ちょっくら向こうに見える森で狩ってきますね!」
わかりやすく困惑の表情を浮かべながら霆華は森への駆けていく。その後ろ姿を見やりながら、どうなることやら…、と静焔は年季の入ったため息をついた。
ガサガサガサッ。
視界の左端に黒く、大きな物体が現れ、霆華は改めてその主を観察する。
ひどく巨大な熊だ。立ち上がった体長は10尺にもなるだろうか、霆華の倍以上の大きさだ。鋭い牙、大きな爪が禍々しく映るが、そんなものがなくともあの丸太のような腕振り回され、当たるだけでひとたまりもないだろう。足で踏みつけられても、その巨躯で突進されても結果は変わらない。当たればすなわち死だ。
圧倒的な暴力の前に、しかし霆華は勝利が手中にあると確信する。当たれば死。つまり当たらなければよいのだ。「被弾せぬよう、常に間合いを見定めよ。そして自らの射程を最大限に活用せよ」とは、砲撃部隊の基礎の基礎だ。今は自らの努力と才を信じ、ただ、狩るのみ。
覚悟を決めた霆華は矢を引き絞り、瞬く間に放つ。続けざまに2射、3射…。三筋の経路は等しく一点―大熊の右後ろ脚―へ向かい、うなりをあげて進み全射見事に命中する。
突然の痛みに驚き、大熊は雄たけびを上げ、矢が放たれた方へ態勢を向ける。
すると、その背後からまたしても3本の矢が放たれ、大熊の左後ろ脚へ命中した。大熊は立ち上がる。発達した脚の筋力とその重量によって、落ち木で作成した矢はその足に刺さったまま粉々に砕ける。矢は確かに命中したが、大熊の厚い皮のせいで深い傷にはなっていない様子であった。
「木の破片が血管内に入ったか…。いずれ病気になるかもしれないな。でも、今じゃないなら意味ない…か。動きを抑えようと脚を狙ってみたものの、あんましきいてないみたいだし…。さて、どうしたものか――っと!!」
二足歩行の怪物の背後へすでに回っていた霆華の足元が不意に大きく揺れた。気づかれたか、と霆華は身構える。そこそこに高い草で作られた茂みに囲まれており、屈んでいれば間違いなく自分の姿は隠せる。となると、目視で見つかったわけではない。大熊を見ると、初めに霆華が居た茂みの対角線に当たる場所へ突進をしていた。どうやら大木か岩にでも激突したらしい。戻ってきた大熊の額には結構な量の出血が見られたが、そのことで余計に興奮してしまっているようで、ところかまわず両腕を横薙ぎに振り回して暴れ始めた。
「おいおいマジかよ。ただの自滅のくせに…。やたらめったら暴れんじゃねぇよ…」
霆華の関心はもはや大熊には向いていない。自暴自棄に暴れまわり、優れた嗅覚や聴力での索敵も、鋭い爪や牙による確実な勝利のための立ち回りも、一蹴りで大地を揺るがす脚力をもかなぐり捨てて、ただその腕力と本能に任せて暴れまわる存在など、敵でも脅威でもなくただの的であり、“狩られるもの”の末路だ。しかしそれ以上に今の霆華を悩ませているものもまた、目の前に転がっていた。
「あぁー!兎!ウサギ!ウサギさーん!!!踏まれないでね!つか、踏むんじゃねぇぞマジで。ひき肉になっちまうぅぅぅ…。―これ、もう一撃で決めるしかないじゃんか…」
諦めのため息をつきながらも、覚悟を決めた霆華は、先ほどまで使用していた手製の木の矢をすべて地面に捨てた。代わりに黒く光る矢を一本手に取る。矢じりから矢筈まで全てが金属で作られている逸品。魔軍のあの白い装甲に対抗するために長年かけて研究され、ついに生み出された「対魔軍装甲破壊兵器 “川蝉”」。霆華は背に負う矢筒に一度それをしまうと、大熊に向けて手ごろな石を思いっきり放り投げた。
ガキーン、と大きな音を立て、その石は大熊には当たらずにその背後の岩に着弾する。大熊が振り返ったところを見計らい、霆華は茂みを飛び出して一直線に大熊のもとへの駆けだした。駆けながらさらに1つ、2つ、3つ…。霆華のもとを離れた石は大熊の前方に着弾し、音を出し続ける。目の前で断続的に聞こえる音に気を取られ、大熊は背後からかけてくる射手に気づかない。霆華は一度強く踏み込むと、大熊の顔の真横まで大きく跳躍し、その喉元へ“川蝉”を構えた。
―自らの射程を最大限に活用せよ、とは、敵との距離を最大に保ちながらの戦闘に徹しよ、という意味ではない。
―自らの射程を最大限に活用せよ、とは、目的のため、矢の能力を最大限発揮できる場所に常に居続けること、を意味する。
木の矢では分厚い肉に邪魔されて急所まで刺さらない。
“川蝉”でも遠距離では効果が安定しない。
だからこそ―
「ここは“超至近距離”が射程の“最適解”だっ!」
放たれた黒の一射は真横から大熊の首を穿ち、風穴を開け、その向こうの大木へ突き刺さった。
その瞬間、大熊から全身の力がぬけ、膝から崩れ落ちた。
ふぅー。と大きなため息をつき、霆華は今しがた手に入れた二匹の獲物を見下ろす。
「……………どうやって持って帰ろうかなぁ~」
一人では持ち上げることさえかなわない巨大熊を前に、頭を抱え絶望する。前線の兵たちへこの熊を持っていけば、さぞ驚くだろう。そして、強大な力の前に戦う勇気もわいてくるだろう。だからこそ、霆華はこの熊をどうにかして持ち帰りたかった。
うんうんと唸りながら必死に思考を巡らせる霆華を、―突如として黒い影が覆う。
最初に感じたのは耳に入る羽ばたき。それは音としてだけでなく、周囲に立ち込める粉塵を生み出した突風を通じて、より具体的で質量を伴う感覚としても届いた。
視界を覆うのは、漆黒。豪角の鎧のような黒ではない。深さの底が見えない。それほどの漆黒に覆われ……霆華の意識は途切れた―。
「―遅いな」
ちょっくら狩ってくる、と言って駆けて行った霆華を見送ったあと、静焔は素振りなどの日課の鍛錬をしながらその帰りを待っていた。彼は霆華の実力を高く評価しているが、長年培った観察眼はその実力のほどを霆華本人以上に正確に見抜いてもいる。しかし、静焔が見込んでいた帰還の時よりも、すでに四半刻が過ぎ去っていた。
「霆華が野生の獣に後れを取った?いや、ありえない。たとえ自分より倍の身の丈と強靭な膂力を持つような獣相手でも、難なく立ちまわって勝利するだろう。となると、獣ではないほかの何か…。まさか、魔軍かっ!」
静焔は愛刀を手に森へと駆ける。魔軍一体であれば実はさほど脅威ではない。静焔であれば一方的に処理でき、霆華も野生動物のようにはいかないまでも、苦戦するような相手ではない。彼らの脅威は2~3機を最小単位とし、遠距離攻撃を主体とした集団戦術だ。この標的にされると敵の殲滅はおろか、撤退するにも手を焼く。霆華が―偶然か、それとも待ち伏せを受けたかはわからないが―それに出くわしたというなら、危険な状態かもしれない。
「! ここか」
森を駆けていた静焔が見つけたのは、まだ新しい二つの血だまり。小さいものは完全な円ではなく、縁の一部が細長く外側に伸びている。おそらく、野兎を狩ったのだろう。耳の形が容易に見て取れた。もう一つは、非常に巨大な円になっている。直径から推察すると、10尺近くの化け物がここで息絶えたらしいことがわかる。少し視線を上げると、大木の幹に“川蝉”が一本刺さったままになっていた。そして、その大木の根元には獣道が続いており、そこには点々と、血の道標がおかれている。
「どうやら、霆華はここで狩りを行い、2匹仕留めたか。しかし、何者かの襲撃を受けて撤退した…?いや。“川蝉”が置き去りにされている。数が限られ、強力な武器である“川蝉”。取り扱いの基本は回収、だ。撤退の線は薄い…。まさか、連れ去られたのか!」
静焔の内に、覚えのある感覚が沸き上がってくる。それは、焦燥であり、不安であり、怒りであり、後悔であり、恐怖であった。
パンッ!と静焔は自らの頬を力いっぱい張る。豪角との一戦は、自身の精神性の未熟さ、身体への影響、そしてその克服の術を与えてくれたのではなかったか…。それなのに今また、己は負の感情に流され、無鉄砲な行動に出ようとしていなかったか…。
「まずは、霆華を探すか。ここに血だまりだけが残っているということは、それらの主はおそらく霆華を連れ去った何者かのよって回収されたのだろう。まだ、そんなに遠くに行っていないはず。追いかければまだ間に合うだろう」
静焔は地面についている血の道標を―そしておそらくその標の先を―見つめ、それをたどって、森の奥へと入っていった。
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