第10話 噂


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 二人が向かったのは、ロッケが兄とニラの三人で何度も通った「山猫亭」という名の宿屋だった。

  「おやまあ」

  出迎えた恰幅のいい女主人は、二人を見ると、しわくちゃの顔いっぱいに意地の悪い笑みを浮かべた。 「ニラ様はご一緒じゃないのかい。それにしても、ずいぶんとかわいいご夫婦だこと」

 分かっていながらからかう女主人の言葉に、ハナは顔を真っ赤にし、ロッケは返す言葉も見つからずに俯いた。


 その夜、宿の食堂で二人は食事をとっていた。活気のある食堂は、旅の商人や傭兵たちの、酒と汗とが入り混じった熱気で満ちている。ロッケとハナは、テーブルの隅で、その喧騒から逃れるように静かにスープをすすっていた。

 その時、隣のテーブルで酒を酌み交わしていた傭兵たちの、自慢話ともつかない武勇伝が、ロッケの耳に届いた。

 「……北の国境じゃ、今もきな臭いらしい」

 「だが、あそこに『鬼神』がいる限り、大事にはなるめえ」

 「ああ、あの栗毛の男か。化け物だ。まだ若いクセに冬の狼みたいな目をしている」

 ハナは、そのありふれた武勇伝に興味も示さず、スープ皿の底に残った野菜を匙ですくっていた。ふと、向かいのロッケが、ぴたりと動きを止めていることに気づく。

彼の視線は宙の一点に縫い付けられ、その手は匙を握ったまま、硬直している。食堂の喧騒が、彼の周りからだけ、すうっと遠ざかっていくかのようだった。

 「一番奇妙なのは、奴の戦い方だ」傭兵の声が続く。「大剣を振り回すかと思えば、まるで魔法のようにパッと剣の柄頭(つかがしら)で、相手の膝裏や手首を的確に打ち据えちまう。人体の脆い場所を全て知っているかのようにね…」

 ハナには、その話の何が特別なのか、全く分からなかった。しかし、ロッケの握りしめた匙が、カタカタと微かに震え始めているのを見て、彼女の心に不安がよぎる。

 「ロッケ?」

 彼女が声をかけると、彼ははっと我に返った。その顔から血の気が引き、瞳は、ここではないどこか遠い、暗い過去の一点を見つめていた。

 「…なんでもない」

 彼はそう言って、無理にスープを口に運ぼうとするが、その手はまだ震えている。ハナの笑顔が、ゆっくりと消えた。まただ、と彼女は思う。彼が時折見せる、兄の不在という、決して癒えることのない傷口。

 「…また、兄さんのこと?」

 ハナの声は、咎めるようであり、しかし、どうしようもない悲しみを帯びていた。

 「噂話だよ、ロッケ。北の国には、若い栗毛の髪の傭兵なんて、きっと沢山いるわ」

 「違う」

 ロッケは、かぶりを振った。その声は、震えていた。

 「今度の話は、違うんだ。…あの戦い方は…」

 彼は動揺の中、一つ一つ言葉を手繰り寄せるように必死に探した。

 「…見たことがあるんだ。一度だけ。ずっと昔に。…忘れるはずがない」

 彼の脳裏に、かつて、冷たい冬の日に見た光景が、雷に打たれたかのように蘇っていた。家に押し入ってきた屈強な野盗たち。そして、たった一本の鉄の棒で、音もなく彼らを無力化していく、細身のニラの影。斬るのではなく、突くのでもなく、「打つ」ことで関節を砕き、戦意だけを奪う、あの冷徹で合理的な技術。

 その瞳に宿る、恐怖と、そして、ほんのかすかな希望の光を見て、ハナはもう何も言えなかった。その夜、二人の間に、それ以上の会話はなかった。ただ、忘れられたスープが、静かに冷めていくだけだった。


 帰り道、荷車を引く二人の間には、重い沈黙が流れていた。来た時には軽やかに交わされた言葉も、今は落ち葉を踏む乾いた音に吸い込まれて消えていく。ロッケは前だけを見つめ、その横顔は石のように硬い。ハナは、そんな彼の隣を歩きながら、かけるべき言葉を見つけられずにいた。

 峠を越え、見慣れた村の家々が見えてきた、その時だった。ロッケは不意に足を止め、ハナに向き直った。

 「ハナ」

 その声は、低く、決意に満ちていた。

 「行かなければならない。確かめに」

 「……あの人のこと?」

 ハナは、全てを察していた。ロッケはただ、黙って頷く。

 「でも、どうするの。ニラ様には…?」

 その問いに、ロッケは苦しげに首を振った。

 「言えない。あの人にこれ以上兄さんのことを……」兄を案ずるあの悲し気な笑顔が胸の中に浮かび上がる。「頼む、ハナ。俺が戻るまで、うまく…」

 彼は、ハナの手を固く握った。それは懇願であり、そして、沈黙の約束だった。

 「『山猫亭』の女主人が、珍しい薬草を探していると言っていたんだ。北の山にしか生えないらしい。ギルドを通して正式に依頼されたから、どうしても行かなければならない、と…。そう伝えてくれ」

 それは、少年が考えうる、最大限にもっともらしい嘘だった。

 「十五夜までには、必ず戻る。月が満ちるまでには」

 ハナは、彼の瞳の奥に宿る、決して揺らぐことのない光を見て、小さく息を呑んだ。そして、その手を強く握り返すと、ただ、こくりと頷いた。

 その夜、ロッケはニラの家には帰らなかった。村の、ハナの家の納屋で、短い夜を過ごした。

 夜明け前、空が白み始めるよりも早く、ロッケは小さな革袋一つを肩に、静かに村を出た。見送るのは、心配そうに佇むハナ一人だけだった。彼は一度だけ、ニラの住む深い森の方角を振り返り、詫びるように、そして決意を固めるように、ぎゅっと唇を結んだ。そして、兄の影を追って、北へと向かう街道へと、その一歩を踏み出した。

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