第五章 産土神
神、そしてこの町の過去の話
「C県某所にある神山町———
私はこの街で生まれ、この街で育った」
夜風に晒されながら新狐山へと向かう最中(さなか)、突如会長が僕に目も合わせずに呟いた。
あまりにも唐突なその発言に、僕はただ「はい」と頷き続きを待つ。
会長は「今から話すものは私が生まれてから暫くたったある日の出来事、昔話だ」と前置きすると、厳かに語り出した———。
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「この街はかつて何もなかった。田畑のみが存在し、建物と言えば小さな平屋が存在するのみで、大きな建物と言えば領主である久野三八衛門が住む屋敷くらいのものだった。民達は皆彼に年貢を納めていた。
今から話す話は、彼が妻を残して亡くなり民達の話題がそれ一辺倒になった———
その当時の話だ。
この町にはある特色が古くから存在していた。それは、君達現代に生きる人も馴染み深い新狐山の事だ。当時から現在まで形が変わらず存在しているその山は、当時現在とは違う点が二点あった。
一つは、この山が新しい狐の山として「新狐山(しんこやま)」と呼ばれているのではなく、古くから神が住む山として「神古山(しんこやま)」と呼ばれていた点。
そしてもう一つは、この山が狐によって支配されていたのではなく、狐とは別の産土(うぶすな)神(がみ)によって支配されていたという点だ。
この神は年号や西暦すらもなかった時代からこの地を支配していたらしく、神古神社に参拝する者は毎日後を絶たなかった。
「新狐神社」ではなく、「神古神社」への参拝客が後を絶たなかったという事だ。
そんな神古神社には時折神の座を狙おうと様々なあやかしが襲撃を仕掛けてきていたらしく、神はそんな奴らを返り討ちにするのが日課だったそうだ。
その神の妖力は強大で、どんなあやかしも神に一矢報いる事すら出来なかったらしい。だからいつしか、神に挑むあやかしは消えていった。
神古神社に、狐耳を携えたあやかしが現れるまでは———。
そう、妖狐だ。
そいつはある日突然現れた。
死装束に似た白銀の着物を纏い、見るもの全てを狂わさんとする瞳を据えて、突然神社に姿を現したのだ。
本殿で供物を嗜んでいた神はその妖力を感知して、いつもの事かと思い腰を上げて本殿の扉を開けると、妖狐の前に姿を現した。
神は本殿から出て妖狐の前に立つと、神を睨みつける妖狐を見て言った。
「お前もこの座を欲する者か? 痛い目を見ん内に帰った方が良いぞ。今まで余に怪我を負わせた奴すら一人も居ないんじゃからな」
神は右手を妖狐に翳して「立ち退かねば斬る」と警告した。
弱小なあやかしならその姿だけで格の違い、妖力の違いを痛感して飛ぶように逃げ帰るものだ。
神は今回もそうだろうと思っていた。
しかし、妖狐は違った。
彼女は逃げるのではなく不敵な笑みを浮かべると、逆に一歩前に踏み出した。
「残念です、神様。あなたなら私を見かけた直後に直ぐ攻撃してくると思ったのですが。まさか、手を翳して脅すだけだなんて」
神は予想打にしていなかったその言葉に面食らい、思わず一度翳した腕を降ろして唖然とした。
「お主、余を知らんのか? この町の神である余の妖力を知らぬとでも言うのか? 余の妖力は他(た)のあやかしのそれを遥かに凌駕するのじゃぞ? 余の攻撃を食らえばお主は死を免れぬのじゃぞ?」
妖狐はそれを聞いてククッと笑い、やれやれと言った感じで手を振った。
「とんだ拍子抜けですね。神様ともあろうお方が私の妖力すらまともに計れないだなんて。こんな偏狭な地に永住するあまり耄碌してしまったんじゃないですか? あなたの妖力など重々承知しておりますよ。そして、私があなたを殺すに足る妖力を持っている事もね」
その言葉を受けて、神は妖狐の魂を通し見て妖力を計った。確かに妖狐の魂からは莫大な妖力が感じられる。
「ほう。余を殺すと大言を吐くだけの事はある。中々の妖力じゃ。お主は無謀な愚者という訳じゃなさそうじゃの。少しは張り合いがありそうじゃ。十秒くらいは持つかもしれんの」
神はそう言って馬鹿にしたようにフッと見下して笑った。
それを見て苛立ちを募らせた妖狐は、再び足を前に踏み出し神に詰め寄ろうとする。
「それなら戦ってくれますね、神様。私を殺してみて———」
そう言いかけた妖狐の足が止まる。
途端妖狐の頬がゴパッと避け、血が流れた。
咄嗟に頬を触る妖狐を見て、神はニヤリと笑みを零す。
「どうした? 防がんのか? それとも主があまりに愚鈍すぎて『防ごう』と思う事すら出来なかったのか?」
妖狐に傷を付けて上機嫌な神とは対照的に、妖狐は至って冷静に頬の血を拭った。
鮮血が流れる頬の切り傷は妖狐が血を拭うと直ぐに塞がっていき、やがて血を一滴たりとも流さなくなった。
「少し傷を負わせたくらいで簡単に上機嫌になるなんて、そこら辺の雑魚と品性は何ら変わりませんね。本当に神様何ですか?」
神は妖狐の嫌味に対して一切の感情の起伏を見せず、ただ切り傷が塞がった妖狐の頬をジッと見ていた。
神の表情は直ぐに塞がった事への驚きではなく、何故塞がったのかを分析するような思慮に満ちている。
「時間か」
神はハッとした表情で呟いた。
「流石にこれくらいは直ぐに気付きますか。そうです、時間です。私は時間を操れるのですよ。どれだけ私に攻撃を与えても全く以て無意味なのです」
そう言うやいなや、妖狐は神に向かって駆け出した。
神は咄嗟に妖狐に手を翳して、かまいたちを再び浴びせる。
音を斬ったかまいたちが、妖狐の頬も全身も切り裂いていく。
しかし、妖狐はそれに動じる事なく神の下へと駆け抜ける。
駆ける度に妖狐の皮膚は損壊と修復を繰り返し、ひいては裂傷を受ける前よりもより艶のある皮膚へと戻っていく。
「へぇ、中々やるの」
攻撃を全て無に帰す妖狐を見ても、神は全く動じない。それどころか、此処までやっても斃れないあやかしを見つけて、少しばかり嬉しそうな面持ちさえ見せている。
妖狐もそんな神の姿に気付いてはいるが、それに動揺を見せる様子は全くない。
ただ無表情を貫いて、神へと叩き込む為の拳を握りしめている。
「これで終わりですよ、神様」
神の目前まで迫った妖狐は、握りしめた拳を神に打ち付けようとする。
次の瞬間、拳が轟音を放って打ち付けられた。
辺り一面に桶をひっくり返したかと見紛う程の血が飛び散り、神と妖狐の着物を赤く染め上げる。
凄惨な現場は、轟音の後にやがて一切の静寂に包まれた。
数秒の静寂の後、一人の呻き声が辺りの木々を震わした。
「う、うぅ……。な、何で?」
呻き声を挙げたのは妖狐だった。
神ではなく妖狐が倒れ込み、潰れた右目を手で抑えながら左目だけで神を見上げてい
た。
妖狐の右頬はえぐれて吹き飛び、骨が露出している。
「もう喋らなくて良い。現時点を持ってお主の負けじゃ。余の攻撃を食らった時点で、勝ち目はとうになかったのじゃ」
「う、うぅ……」
グフ、ガハッ
妖狐は喉に流入しようとする血液を苦しそうに吐き出した。彼女の顔面はもう既に肉が骨を覆い始めており、再生が行われている。
それを見て、神はニヤリと優しく口角を上げて笑った。
「お主に再生能力があって良かったのう。間違いなくその能力がなかったら死んでおったぞ」
そう言う神を傍らに、既にほとんど顔が再生している妖狐は神を片目で見据えると、立ち上がりざまに神に向かって拳を振り下ろした。
しかし、その鉄槌は神には当たらず、今度は自分の膝を砕いて割った。
「う、うげええええええええええええええええええ」
膝から崩れ落ち悶絶する妖狐を見て、神は呆れたように頬杖をついた。
「だからお主の負けだと言っておるじゃろう。もうお主は余に勝てぬのじゃ。先の攻撃でお主の魂に呪いをかけたからの。余を攻撃できぬ呪いをの」
膝を修復させた妖狐はそれを聞くと立ち上がり、今度は攻撃せずに神をただ睨みつけた。今の妖狐には睨みつけて歯ぎしりをする他に取れる手段がなかった。
「ふざけないで下さいよ。私は今日まで必死にあなたを殺す為に鍛錬してきたんですよ!それなのに魂に呪いをかけたからもうあなたには攻撃出来ませんだぁ? 素直に力負けするならいざ知らず、こんな卑怯な搦(から)め手で負けるなんて私の誇りにかけて許されないんですよ!」
喚き声を上げて地面を殴りつける妖狐を見て、神は頭を抱えた。
「はぁ……。童(わらべ)みたいだなお主。私に攻撃出来ないからって叫んで、地面を殴って。駄々っ子か。お主は負けたんじゃ。早く認めて帰ってくれ。またその呪いが解けた時にでもかかってこい」
神はなるべく妖狐を宥(なだ)めるように接したつもりであったが、妖狐を子ども扱いした事は妖狐の自尊心を深く傷つけた。
「ありがとうございます神様。おかげで最悪の気分です。何としてでも殺したいと願った相手はあなたが始めてですよ」
そう吐き捨てた妖狐はユラリと立ち上がり、フラフラと神に背を向けて去っていった。
「漸く帰ったか。あの妖狐め。口では余裕ぶっていたが余の呪いに対して何の対策もしてこないとは。口程にもない奴だったの」
神はそう総括すると、本殿内部へ戻ろうとした。
しかし、何か様子がおかしい。
妖狐が未だに下山せずにいる。
本殿から遠ざかってはいるものの完全に山を降りた訳ではなく、ただじっと立っている。
神が訝しげに様子を眺めていると、突如妖狐はその場にしゃがみ込み、何度も地面に殴打を繰り出し始めた。
「な、何やってんじゃあやつは。余に勝てなかったからって鬱憤を余の山に向かって晴らすなんて。いい度胸してるじゃないか」
少し苛つく行動ではあったが神に実害はない。その為、神は妖狐を放って本殿へと戻る事にした。
「ん? え?」
本殿へ帰った直後、神は内部に違和感を覚えた。
「ない」
妖狐に会う前に頬張っていた供物が綺麗サッパリなくなっている。
食べかす一つ残さずに綺麗になくなったその姿は、まるで最初から供物など送られていなかったと思える程だった。
「どういう事じゃ? 無意識の内に余が全部食べてしまったとでも言うのか? それともあやつと戦ってる内に誰かに食べられた?」
そう思いながら外に出ると、妖狐が未だに地面を一心不乱に殴っているのが目に入る。
「あやつもしつこいの。そろそろ帰って欲しいんじゃが」
妖狐のこれでもかと言う程の打撃に堪忍袋の緒が切れた神は、妖狐を止めようと近付いた。
近付いて、今度は胴に違和感を覚える。
ハッと見ると、着物の帯がなくなっている。帯が消失したその着物は途端にはだけ、華奢な素足が隙間から見え隠れする。
流石に何かがおかしいと感じた神は、大きく跳躍して妖狐の下へ跳び込んだ。
そして、空中から大声で妖狐に向かって叫びを飛ばす。
「おい! 殴るのを止めろ! 今直ぐ帰らんと今度こそ殺すぞ!」
叫びも虚しく、妖狐は一心不乱に地面を殴るままで、その体勢を変える事はない。
神は軽く舌打ちをすると手を翳して妖力を溜め、一気に妖狐の息の根を止めようとした。
が、神の目にあるものが見えてしまい、殺害を中断せざるをえなかった。
「何じゃ。何をしてるんじゃ。おい、止めろと言っておるじゃろ!」
神の目に見えたもの。それは青々と茂った草花だった。
土と古ぼけた木に囲まれたこの山にはそぐわない程綺麗で生命力に溢れた草花が、妖狐が殴った地点を中心にして円状に広がっている。
ハッと「時を戻せる」と言う妖狐の言葉を神は思い出す。神は妖狐の下に着地すると間髪入れず妖狐を殴り飛ばしてその場から弾き飛ばした。
妖狐は弾き飛ばされた勢いのまま背を木に叩きつけて倒れ込む。その後「うぅ……」と頭を抱えて起き上がると、焦点が合っていない目で神を見据えた。
「痛いですねぇ、神様。勘弁してくださいよ。もうあなたとは戦っていないじゃないですか。私のちっぽけな慰みくらい多目に見て欲しいんですけどね」
「慰みだと? この現象を慰みの一言で済ませられると思っておるのか? 主がその慰みをしてから供物と帯が消失したのじゃぞ! 主が何かをしようとしている事は明白じゃ! 一体何をしようとしているんじゃ!」
声を張り上げて尋問する神をおかしく思ったのか、妖狐はクククと不気味な笑いを上げると、腕をバッと広げて声高らかに宣言した。
「過去を変えて未来を変えるんですよ! もう今のあなたと直接戦えないなら過去のあなたに勝とうと思いましてね。過去のあなたを斃し私がこの山の支配者である世界に書き換えるんですよ!」
飄々とそう言ってのける妖狐を見て直ぐ、神は更に自分の身体に違和感を覚える。
「なん、じゃと?」
自分を見た神は驚いた。以前数百年にはなかった、そして今後数百年にもないだろう驚愕に襲われる。
最も、数百年後まで神が生きているという可能性があればの話だが。
神の身体は透けていた。
まるで幽霊の身体のように半透明で薄かった。
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