彼女のお守り
「だから言ったじゃ~ん。内緒にしてねって~」
驚きで呆然と立ち尽くす僕を見上げて、先生はピンと立てた人差し指を口元に当てて軽く笑った。
いや、笑ってる場合じゃないでしょ。
勤務中に酒を飲む事がおかしいという事は働いたことのない僕でも分かる。流石にこれを黙って見過ごす事は出来ない。
僕がソワソワしていると、先生は上体を椅子の背もたれに預けて仰け反り、駄々っ子のように頬を膨らした。
「もういいじゃ~ん。そのお茶飲んでいいからさぁ~。内緒にしてよ~」
先生はもう酔いが回ってきているらしい。足を空中でバタバタさせて気持ち良さそうにニヘラニヘラとにやけ面を浮かべている。
どうやら先生は他人との境界線と同時に常識まで捨ててしまっているらしい。何故こんな人が教師という職に就けたのか甚だ疑問だ。
「先生……」
僕は先生のその態度にホトホト呆れ返ってしまった。この人には何を言っても無駄だと言う予感が確信に近く感じられる。
僕は後で他の先生に報告する事に決めて、今はこれ以上何も突っ込まない事にした。
事を荒立てないように先生に従って椅子に座る。
「そうそう。君は何も見なかった~」
先生は上を向けていた顔を僕に向けて、細い目を僅かに開けながらそう言った。
「で、話は戻りますけどここは何処なんですか?」
僕はお茶を飲みながら先生に尋ねる。
「ここは社会科準備室。私は社会科教師だからね~」
なるほど。
確かに納得だ。ここにあるのは授業用の地球儀や地図、そして予備の机と椅子という事か。
僕が周りを見回して確認していると、先生が頬杖をつくのが目に入った。
そして、遂に僕に本題をぶつけてきた。
「ところでさ~。君その子とどういう関係なの~?」
先生はふぅを指差して落ち着いた口調でそう言った。僕は内心ギクッとしたが、別に怒られている訳でも注意されている訳でもないようだ。ただ純粋に疑問として聞いているように感じられる。
ならば僕にはまだ弁護の余地があるだろう。
「いや~実はですね。この子は僕の従妹なんですよ。夏休みに遊びに来ましてね。それでこの子がどうしても僕の通う学校に行きたいって言うから仕方なく連れて来たんですよ」
僕は前々から用意してあった弁解の言葉をそれは流暢に述べた。
よし、これでどうだ。これなら僕が少女と行動していても変に思うまい。
「ふ~ん、なるほどねぇ~。私もまぁそんな所だろうと思ったよ~」
と言って先生は立ち上がった。
良し。どうやら僕は何のお咎めもなく今日一日を過ごせるらしい。前々からこの文句を考えていて本当に良かった。
「いや、すまなかったね~怜。私もそんな気はしてたんだけどさ~。部活動中の生徒から『昇降口で小学生とウチの生徒が一悶着起こしてるからちょっと様子を見に行ってもらえませんか』って頼まれちゃってさ~。私としては確認せざるを得なかったんだよ~」
そう言いながら先生はドアの方へ歩いていくと、ガチャリと開けた。
少し遠回りしてしまったが、これで漸く会長を探しに行ける。
「僕の方こそ突然この子を連れてきちゃってすみません。では、失礼します」
僕はここから早く出ようと素早く椅子から立ち上がった。そして、そのままドアに向かう。
ところが、先生はドアを開けて外の様子を窺ったきり、バタンと再び閉めてしまった。
「ごめんな~怜。ここからは大事な話だ」
そう言って先生は細い目を開いて僕を見る。まるで睨まれているかのようなその顔つきに僕はビクッと姿勢を正す。
「せ、先生? 大事な話って何ですか?」
僕の質問に先生は答えない。代わりにガチャリと鍵を掛けて、元いた椅子に座り直す。
それから先生はジッとこちらを見つめて言った。
「確かに君の説明は本当かもしれないね。このご時世だ。到底日本人に思えない白髪の少女が従妹にいたって何らおかしくはない」
そして先生は「これも何かの運命なのかもね」と小声で呟いて、狐のような目で僕を見た。
「この子。人間じゃないでしょ~」
先生はふぅを指差してそう言った。
は?
僕は愕然とする。
ふぅの正体がバレているのか? 僕の従妹じゃないという意味ではなく、もっと根源的な嘘がバレているのか?
まさか先生もなのか?
先生も、あやかしなのか?
僕がフリーズしていると、先生はすぐに目尻を下げて先程と同じ柔和な笑顔をその顔に貼り付けた。
「ごめんごめん。驚かせちゃったかな。別に怜には何もしないよ。ただ、同じ世界に生きる住人としてその子の事を知りたくてさ」
そう言って、先生は頭のヘアバンドを解き、スルスルと外した。
「ほら、私もね。こういうものだからさ~」
先生は先程ヘアバンドを巻いていた辺りの髪の毛を掻き分けて、僕に角(つの)を見せた。
角だ。
前々から人間として色々欠けていると思っていた先生は実際、人間性を欠いていた。
「先生、それって……」
あまりに突然のあやかしとの邂逅に僕は弱々しく声を出す。チラリとふぅの様子を窺ううとふぅはいつも通りの無表情だった。まるで最初から知っていたかのようにその表情は変わっていない。
「うん。私は人間じゃないんだよ~。実は鬼なんだよね~」
先生は照れくさそうに笑った後、照れをごまかすためか後ろの冷蔵庫から再びビールを取り出してプシュッと開けた。
ごくごくごくと喉を鳴らして飲んでいる。
「本当に何もしないんですね?」
恐る恐る確認する。
今まで出会ってきたどのあやかしも僕にとって手放しで好きになれる相手ではなかった。
僕に呪いをかけた上に邪険に扱う妖狐一家。
僕にお守りと称して呪いを掛けてきた生徒会長。
僕と戦い、姉さんを一度殺した吸血鬼。
あやかしとの思い出の大半は苦いもので出来ている。
そんな所に新たなあやかし、鬼の登場だ。きっと良くない事が起こるに決まっている。
願わくば今だけの付き合いにして、少なくとも夏休みが終わるまでは関わりたくない。
というかこの戦いが終わったら転校したい。
ピンと張り詰めた空気がこの場を支配する。学校中には僕達しかいないのではないか、そう思わせる程の静寂に包み込まれる。
そんな空気に耐えかねてか先生はプフッと失笑を零した。
「そんなに警戒しなくても怜は無事にこの部屋を出れるよ~。私がその気ならもう怜はこの世にいないからね~」
先生はハハハと乾いた笑いを響かせた。
僕もふぅも笑わなかった為、先生の笑い声だけが室内にこだまする。
その後、先生はきまりが悪そうに肩を竦ませて僕を見た。
「冗談だって、冗談。それで? 何であやかしのその子が人間の怜と一緒にいるのかな?」
どう答えたらこの場を丸く収められるか。先生を敵に回さずにこの場を去れるか。
僕が思考を巡らしている最中、先にふぅが口を開いた。
「大したことはないんですよ。ただ、怜の生徒会長を一緒に探しているだけですからね」
「ほ~、生徒会長ねぇ~。確か彼女もまたあやかしだったよね~」
ふぅの話を聞いて、先生はなるほどと言った風に数回頷いた。
「でも何で? 彼女を探すのは止めたほうが良いと思うけどね」
先生は声のトーンを一段落としてそう言うと、再びビールをグイッと飲んだ。
止めたほうが良い? どういう事だ?
確かに生徒会長は僕に呪いをかけたかもしれないが、それでも探すのを躊躇う程の危険性は感じなかった。話さえすれば呪いをかけたのは何かの間違いだったと分かるはずだ。
会いさえすればきっと呪いを解いてくれるはずだ。
「止めたほうが良いってどういう事ですか?」
僕が尋ねると先生は急に立ち上がり、後ろを振り向いて窓の外から見える新狐山の頂上を指差した。
「君達はあの山の頂上にいる神様の事を知ってるかい? あの山には古くから神様が住んでいてね~。どうやらあの生徒会長はその座を狙っているらしいのさ~」
神様とは妖狐の事か。生徒会長がそんな事を目論んでいたなんてな。そうなると昨日の妖狐の言動は腑に落ちる。妖狐もまた、生徒会長が自身から神の座を引きずり下ろそうとしている事を知っているのだろう。妖狐にとって会長は敵なのだ。
「道理であいつは会長を目の敵にしていた訳だ。お前はこれ知らなかったのか?」
ふぅに聞くと、彼女は「全く知らない」と言いたげにゆっくり大きく首を横に降った。
となると何だ?
僕が会長に呪いを掛けられたのは妖狐の仲間だと思われたからって事か?
冗談じゃないな、全く。
「で、それの何処が止めたほうが良いって理由になるんです?」
僕が聞くと、先生は背もたれを前にして椅子に座り、今度は僕の胸の辺りを指差した。
「私も呪いが使えるからよく分かるのさ~。怜、君から会長の呪いを感じるんだよ~。そして、どういう訳かそこの少女のもね~」
そう言って先生はチラリとふぅを見て、また僕を見る。
「で、そこの少女のものは言わば時限爆弾式の呪いだね~。恐らく一週間以内に爆発するんじゃないのかな~?」
先生の言っていることは当たっている。どうやら先生は嘘は言っていないようだ。まぁ一週間以内どころか実際は明日に爆発してしまうのだが。
「そして」と先生は神妙な面持ちに変わって続けた。
「生徒会長から仕掛けられたその呪いは起爆式の爆弾だね。怜は一度生徒会長に接触したんだろう? その時に呪いが仕込まれたんだ
ね。で、怜がもう一度生徒会長に接触した時に———」
そうして先生は手で握り拳を作り、一気にパッと開いた。
「呪いが起爆して死ぬ」
「———!?」
僕は驚いた。
自分が死ぬ、という事にではない。
生徒会長が僕を殺そうとしているという事実に驚いた。
次いで、死の宣告そのものには驚かなかった自分にも驚いた。
死ぬと言われる事にもう慣れてしまったのかもしれない。
一瞬の驚きの後、直ぐに思考は会長の事に向かっていく。
何故会長は僕を殺す?
ただあの時神社で会っただけの僕を何で殺そうとする?
恐らく会長は妖狐と僕に関係がある事は知っている。
でもだからと言ってそれは僕を殺すだけの理由になるのか?
どれだけ考えても答えは出ない。ここで考えていても八方塞がりだ。
「先生、会長に接触しなければ僕は死なないんですよね?」
僕は立ち上がり拳を握りしめる。
依然の僕ならブルブル震えるだけだった。しかし、今の僕は会長から真実を聞きたいという思いが胸の大部分を占めている。
妖狐との出会い。吸血鬼との戦い。あやかし達との異常な出来事が僕を芯から変えようとしている。
「もしかして、それでも行くの~?」
先生は僕のその発言が大分想定外だったらしく、僕は初めて先生の素っ頓狂な声を聞いた。
「先生。僕は先生の話を聞いてどうしても確かめたくなってしまったんです。会長が何故僕を殺そうとするのか。その真実を」
先生は大きくため息を吐いてやれやれと言った風に僕を見た。
「まさか怜が少し見ない間にこんなに大きくなってしまってるなんてね~。ハハハ、先生として誇らしいと言うべきか何と言うべきか。流石の私も決意した男子を邪魔するなんて野暮な真似はしないよ~」
先生の声音は普段と同じおどけた感じに戻っている。
先生は立ち上がって後ろを向き、少し屈むとまた冷蔵庫をゴソゴソと探し出した。そして、そこから一本の瓶を取り出すと、立ち上がって机の上に置いた。
「これ、お守り。怜にあげるよ」
お守り。
僕はその言葉に不意にゾクッとしてしまった。その響きにいい思い出はここ最近全くと言っていい程ない。
しかし、先生の顔からは僕をどうにかしようという気持ちは見受けられない。一〇〇%の善意でくれるように見える。
僕は顔を引き攣らせながら瓶を手に取る。
「何ですか、これ。酒?」
瓶の中身はどうやら日本酒のようだ。手のひらサイズの小瓶にラベルが付いている。
「そう酒~。あ、でも飲んじゃダメだよ~。怜はまだ未成年だからね~」
先生はそうおどけた調子で言った後、真面目な調子に変わり
「危なくなったらこれを口に含んで会長に吹きかけて。これで少しは時間稼ぎになる」
と僕に使用法を説明した。
なるほど。これで生徒会長が浄化されて足止めという訳か。
「ありがとうございます。先生」
僕は先生にお辞儀をして礼をする。
「良いって良いって。生徒が困ってたら助けるのは当たり前だからね。そんな畏まらないでよ」
先生は手を胸の前で小さく振って僕に顔を上げさせようとしている。
なるほどな。確かに先生は「あまねぇ」だ。
先生が生徒に好かれている理由、そして教師になることが出来た理由が今漸く分かった気がする。
僕は顔を上げるとふぅに声を掛けて、ドアへと向かった。
「じゃあ、行ってきます先生。改めましてありがとうございました」
「気を付けてね~。何かあったら何時でもここにおいで~」
先生が手を振って見送る中、僕はドアの鍵を開けた。そして、ふぅと共に一歩廊下へと踏み出した。
「さて、会長は何処にいるんだ?」
僕は小瓶を強引にポケットにねじ込んで辺りを見回す。
大半の部活動はもう活動終了したらしく、ここに来た時よりかは大分静かになっている。
「生徒会長だから生徒会室か? お前はどう思う? 何か妖力を感知出来たりしないのか?」
ふぅに尋ねると、彼女は「いや全然」と言った風に首を横に振った。
「手がかりはなし、か。頑張って探さないとな」
この際だ。もう裸足とかに構っていられない。僕とふぅで手分けして探した方が良いだろう。
「なぁ。ここからは別れよう。僕は二階と三階を探すからふぅは一階と外を探してくれないか?」
社会科準備室は一階にある。ふぅが物理的にも社会的にも危なくなったら直ぐにここに駆け込めば大丈夫だろう。先生が何とか取り持ってくれるはずだ。
僕にはこの酒があるしな。我ながら名采配だ。
ふぅは僕の提案を聞いて少し考えていたが、「まぁいいんじゃないですか」と納得してくれた。
そこで、僕はふぅに会長の特徴を告げ、「見つけたら戦わずに社会科準備室で待機してくれ」と念を押す。
ふぅは軽く頷いた後、僕と別れて廊下の奥の方へ進んでいった。
「さて、やりますか」
僕もまた、再度決意を固め直して階段を一段一段確かめるように登っていく。
「先ずは、生徒会室まで行ってみるか」
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