一章 聖典楽師【2】
【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《カトゥス塔長》
聖ドリード教団の「竪琴の塔」の監督者
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
カミル香国の主神であるドリード神を奉る聖ドリード教団は、多くの神職を抱えていた。聖典楽師もその職のひとつである。
彼らは楽器を手に、詩と音楽でもって人々にドリード神の教えを説くことを生業とする。ミィラスは十歳のときに見習いになり、修行の末、二十歳となった三年前に一人前の聖典楽師として認められた。今、教団において正式な聖典楽師とされているのは五十三名で、そのうちミィラスのように竪琴を持つ者が十四名、笛が十八名、太鼓が二十一名。そこに加えて、楽師ではないが踊り子が二十三名いる。これらの職が四つの塔に分かれて暮らしている。他にも楽器を持たない神職は大勢いたが、彼らは別棟で日々の務めを果たしていた。
工房へ向かう石畳の道はところどころすり減って、行き交う荷車の車輪をがたつかせた。そこらに昨日の風で吹き寄せられた落ち葉やゴミが吹き溜まっている。それらを箒でざらざらとかき集めている商店のおかみたちのお喋りや、家畜を連れて市場へ向かう農民の声など、徐々に活気づく街の様子は、聖堂に籠もっていては感じられない、ほどよい騒がしさであった。
工房に着いたミィラスが戸口をくぐると、中では親方と材木商人が話し込んでいた。硬く湿気に強いのはやはり近隣国産のヒバ──木によって耐久性に差が出やすいナラを均一な質で仕入れたいのだが──最近は産出が減って供給元が──などなど。ミィラスは彼らの邪魔にならないよう、戸のところに立って待つことにした。
工房の奥では職人たちが木材の寸法を測ったり、ノミで木材を削ったり、塗料を塗ったりと、黙々と仕事をしている。室内に響く彼らの作業音は耳に心地よく、退屈しなかった。
やがて商談を終えた親方が、ミィラスのもとへやってくる。
「楽師様」
彼は、ミィラスが着ている法衣と、脇に抱える竪琴を見てから、そう言った。
ミィラスほどの年齢では、どの階級の神職なのか、そもそも一人前なのか、ひと目見ただけでは判別しにくい。だが、自分の楽器を持てるのは正式に認められた聖典楽師だけだ。親方は、この若者には礼儀正しく応対すべきであろうと判断したのだった。
「なにかご用で?」
ミィラスは「朝早くから申し訳ない」と言った。
「実は、〝リィンの竪琴〟の弦が切れてしまったので、替えの弦を求めに来ました」
「ああ、なるほど。そいつは大変だ」
親方はあごひげをなでながら言った。
「勿論、替えの弦はあります。ちょいと待っておいてください」
親方は一度奥に引っ込み、やがて長い箱を携えて戻ってきた。彼は卓の上に箱を置き、どれでも必要なものを持って行ってくれと言う。ミィラスが箱を開けると、中には様々な弦が、太さごとに束になって納められていた。
「どうもありがとうございます」
ミィラスが弦を一本一本あらためているとき。
「ちょっと、あんたはもう関係ないでしょ!」
女の声がしたかと思うと、急に外が騒がしくなった。
「ふざけるな! 俺に逆らうのか?」
男の怒声もする。
ミィラスは検分途中の弦を箱に戻し、そっと工房の外を窺い見た。
通りに人だかりができている。見物人がやいのやいのと野次を飛ばしている中心に、喧嘩をしている男女がいるらしい。
彼は外に出て、人垣の間を縫って騒ぎのほうへ向かった。
決して野次馬がしたいのではなく、聖典楽師である以上は気は進まずとも行かざるを得ないのだ。それがただの痴話喧嘩か深刻な争いかによらず、「人同士の諍いに居合わせた場合、神職は仲裁に入るべし」とされているからだ。
「通してください。何事ですか」
「聖典楽師様が来たぞ」
「道を開けろ!」
ミィラスは群衆によって、押し出されるように人垣の中心へと進み出た。
騒ぎを起こしていたのは、ひと組の男女である。女のほうは、その服装から教団に属する踊り子であることが見て取れた。男が踊り子の腕をきつく掴んでおり、踊り子は嫌そうに顔をしかめている。
「何があったのですか」
ミィラスが問うと、男はチッと舌打ちした。
「聖典楽師様か。どうせこの女の肩を持つんだろう」
「わけを聞いてみなければ、なんとも」
ミィラスが踊り子のほうを見ると、彼女は「話したっていいけれど、困るのはあんたよ」と男に向かってまなじりを吊り上げた。
その態度に苛立ったのか、男が怒鳴る。
「この女は、俺と結婚するはずだったんだ! なのに、踊り子なんぞになりやがって」
「あなたは、彼女と婚約をしていたのか?」
ミィラスが問うと、男は「そうだ」と鼻息荒く答える。
すると踊り子はさらに目つきを険しくし、「よくもそんな嘘が言えたわね!」と、男に指をつきつけた。
「私も家族もその縁談は断ったはず! なのに今更つきまとってくるなんて、そんなに父の手蔓が欲しいってわけ?」
「なっ、このガチョウ女! 言わせておけば」
「金銭でどうにかされるほど、うちは道理を失っちゃいないわ」
「黙れ! せっかく援助してやろうって話を!」
両者の言い争いは聞くに堪えず、ミィラスはうんざりした。
「静かに!」
聖典楽師の一喝に、男も踊り子も思わず口を閉じる。周囲の者も、この大人しそうな若者の口から飛び出た意外な声量に驚いていた。
「二人とも、落ち着きなさい」
ミィラスはまず男に言った。
「仮にも彼女に婚約を申し込んでいたと主張するのなら、街なかでその相手を罵り、ガチョウ女などと侮辱するのにはどういった正当性が?」
「それは……その、縁談を蹴るだなんて無礼だと……」
男はもごもごと口ごもっている。
ミィラスは踊り子にも向き直った。
「君も、神に仕える身であるとは思えない暴言だったのでは? 慎みなさい」
「……そうね、たしかに、それは私が悪いわ」
踊り子は素直に認めた。彼女の瞳にはまだ闘志が燃えさかっていたが、落ち着く気にはなったようである。
ミィラスは男に言った。
「婚姻は、両者の同意と神の承認あってのもの。彼女が踊り子として神に仕えているのは、神がお認めになったからだ。あなたが彼女への未練を抱えていたとしても、踊り子は踊り子である限り、未婚を貫かなければならない。どうしても彼女と結婚したいと言うのであれば、今は教団が彼女の後見であることに留意していただきたい」
ミィラスは孔雀色の瞳で男を見据えた。
「再び正式に申し込むのであれば、あなたと彼女の婚姻が両者にとって相応しく平等であるか、教団の立場からも検討させていただく。仮にも神の踊り子である女子を妻にと求めるのならば」
若い聖典楽師の淡々とした、しかし断固とした言葉に男は鼻白む。彼は踊り子の腕を離しながら、「検討って言ったって、難癖つけるんじゃ?」などと言った。
「はっ、どうやら後ろ暗いところがあるらしいな」
側で見ていた群衆のひとりが面白がるように言うと、男は「こっちは教団に布施を納めているんだぞ!」と食ってかかった。
ミィラスは穏やかに「あなたの善なる寄付によって、救われる人も多いことでしょう」と言った。
「しかしドリード神は、富める者も貧しき者も、あまねく人々を見守ってくださっている。もちろんあなたのことも。その心に曇りなく、正直であれば、なにを恐れずとも善きように計らいがあるでしょう」
こうして町辻で説教をするのもまた、聖典楽師にとっては珍しいことではない。だが男にとっては、見るからに自分より若い男に諭されて、素直に反省の意を示すのは、どうしても悔しいものであった。
彼はぐっと黙り込み、ミィラスと踊り子に忌々しげな視線を向けると、踵を返した。
「どけ!」
彼は群衆を押しのけ去って行く。見物人が数人、男に野次を飛ばすが、ほとんどの者は見世物は終わったとばかりに散りはじめた。
「ふう、やれやれだわ、まったくもう」
踊り子が掴まれた腕をさすりながら息をつく。彼女はミィラスを見上げて「どうもありがとう」と言った。
「お陰で助かったわ。今日は本当に偶然、ばったり出くわしちゃったの。もう二年も前のことなのに。けど彼もきっと色々うまくいかないんでしょうね、さもありなんだわ──」
彼女はよく日焼けした肌に、豊かな黒髪を波打たせていた。足首に届くほど長い袖――踊り子の衣装である――に両腕は隠されていたが、全体的に健康的で筋肉質な体型である。そこには家畜として太らされたガチョウを連想する要素はない。あの男の揶揄は、彼女が口達者でガチョウの鳴き声のようにやかましいという意を込めてなのだろう。
「街でいったい何を?」
ミィラスが尋ねると、踊り子は「お遣いよ」と言った。
「踊り子は美しさ――顔の美醜ではなくってよ――を保つために、ミランの実をいっぱい食べるの。きらしちゃったから、買いに来たのよ。お姉様たちの分もね」
近くには市場がある。ミランの実は街の娘たちに好まれており、すぐに売り切れるので、朝早くに買いに来たのだろう。
ミィラスは頷いた。
「ミランの実を買ったら、寄り道せずに帰りなさい」
「ええ、勿論そうするわ」
「それと、さっきのことは、〝踊り子の塔〟の塔長に報告させてもらうよ」
「そんな! どうして?」
踊り子はさっと青ざめた。肩をふるふると震わせながら、ミィラスをきっと睨む。想定外の展開に「それは困る」と思ったのだろう。
「君が騒ぎの一因になったことは事実だろう。もちろん、君が悪いと言っているわけではないよ。ただ、あのような相手につきまとわれたことは、踊り子の監督者には伝えておく必要がある」
ミィラスはなだめるように言った。しかし、踊り子は首を振る。
「ファリナ塔長は頭が固いのよ。私、絶対に罰則を食らってしまうわ」
「……君が通りで散々わめき散らかしたこともついでに報告しておくかい?」
ミィラスの言葉に、踊り子は「まあ」と憤慨の表情を浮かべた。
「聖典楽師って、どうしてこう、融通が利かないのかしら。分かったわよ、どうぞ報告してちょうだい。私はしおらしく罰を受けるわ」
踊り子は裾をひるがえして市場のほうへ歩きはじめた。ミィラスはその背に向かって「君の名は?」と尋ねる。
踊り子は振り返った。
「パルラよ」
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