番外編 濡れ衣
珍しく、この日は死者が一人も来なかった。
そんな日は決まって奪衣婆と懸衣翁と並んで川辺に座り、雑談をする。
二人は私を管理する立場で、あまり私のことを好いていないはずなのに、そんなことをしてくれるのは不思議だった。
この日も私は二人に挟まれ、川のそばに腰を下ろしていた。
「そういえば、罪の重さというのは、どのように測っているのですか? 閻魔様もですが。私はあれが正確なのか、いかにしてわかるのかが一番の不思議です」
そう尋ねると、奪衣婆はああ、と頷いた。
「枝が特殊なのさ。あの枝に死者の服をかける。そうすると、犯した罪が重いほど、枝がしなる。仕組みはよくわかっておらんが、便利なものだな。閻魔様は……」
どうだったかな、と私を挟んで懸衣翁に目配せした。
懸衣翁は顎に手を当てて考える素振りを見せた後、あ、と思い出したように手を叩いた。
「閻魔様は確か、まずは舟を渡った後の着物を見られる。どの程度着物が濡れているかを見て、およその罪の重さを見ると言われている。地獄行きか極楽浄土行きかを判断したあと、水晶玉で量刑を決めていくらしい、が、詳しいことは儂もわからぬ」
「執行人。お前の腕にもあるだろう。見分けをつけるために、量刑が決まる前に地獄へいく印が押されているはずだ」
奪衣婆にそう言われて、右の袖をたくし上げる。
確かに、二の腕に黒く丸い印がある。
永遠とも取れるような長い時間火に炙られ、腕を切り落とされても残るその印は、私にとってどこか恐ろしいものであった。
懸衣翁が人差し指を立ててニヤリと笑った。
「ちなみに、濡れているほど印は強く押し付けられる。そういう二週目の人間が極楽浄土へ行くと、腕に強く押された印が残っているせいで、しばらくは白い目で見られるそうな」
「……」
「おっと、乗客じゃ。舟の準備をしておけ」
まだ人は見えていないのに、奪衣婆と懸衣翁は腰を重そうに上げ、私に背中を向けて歩き出した。
私は岸まで引っ張り上げていた舟を水の上になんとか押し戻し、そのまま舟に乗り込んだ。
乗せた乗客は、つまらない話をしながら、嬉しそうに笑う老婆だった。
野間幸代。さっちゃんって呼んで、と目をきらめかせて言うものだから、私も会話の中ではさっちゃんと呼んだ。
特に罪を犯した様子もなければ、特筆すべき事項も話さなかった。
麩菓子が好きだの、お見合い結婚した夫が優しくて心から好きになれただの、吐き気がしそうな幸せな話しか出なかった。
幸福にまみれた人生を送り、死ぬときは息子、娘、孫、ひ孫に見守られながら死んでいったらしい。
「死ぬのは怖くて悲しかったけど、みんなが泣いてくれて、手を握ってくれたのが嬉しかったわ」
さっちゃんは昔を懐かしむように目を細めた。
子孫の写真と共に葬ってもらったらしいが、写真は奪衣婆と懸衣翁に回収されてしまったのだ、とさっちゃんはため息をつく。
「そうですか」
聞いている身としてはおもしろくないが、おそらく、何もないことこそが幸福な人生なのだろう、と思った。
二人が橋に通したわけではないので、軽い罪は犯しているのだろうが、彼女は刑期も短く生まれ変われるだろう。
舟に足を揃えて正座する彼女の着物は、裾に少し水がかかったのみで、ほとんど乾いていた。
「……着きました。ここからまっすぐ進めば、閻魔様のもとへ辿り着くでしょう」
岸について、できるだけ穏やかな声で私は言った。
「ありがとう。ミチビキさん」
さっちゃんは心の底から嬉しそうに笑ってお礼を言った。
「ええ。さようなら……あ」
視界の端に、這いずりながら川から出る男が写った。
江深淵を泳いで渡ってきたのだ、と一目でわかった。
冷たい川を泳ぎすぎたせいか指先と唇は紫色に変色し、川の中の化け物に襲われたせいかあちこちから流血したあとがある。ところどころ敗れた白い着物からは、絶え間なく水が垂れている。
さっちゃんは私が彼女の目を隠す前に、男に駆け寄った。
「あの、あなた、大丈夫かしら」
「……」
ひゅ、と音を出しながら呼吸をするだけで、男は答えなかった。
「せめて、服を交換しましょう。冷たい服じゃあ、風邪をひくわ」
さっちゃんは躊躇いなく着物を脱ぎ、男に渡した。
あ、と止めるまもなく、男はさっちゃんから着物を受け取り、大人しく自分の着ていたボロボロの着物を差し出していた。
私の視線に気づき、男はにやりと笑って見せた。
「あっ、さっちゃん」
呼びかけると、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「なあに、ミチビキさん」
「……」
なんと言うべきか分からなくて、口をぱくぱくさせていると、さっちゃんは痺れをきらしたように言った。
「なんでもないのよね? じゃあ、私たち、行くね」
さっちゃんは男の肩を支えながら歩き出した。
歩きながらも、男は私の方を振り返り、下卑た笑みを浮かべている。
「……あれが、濡れ衣、か」
随分と前に乗せた乗客の言葉を思い出した。
濡れ衣を着せる。
意味は、自分の罪を他者になすりつけ、罰を逃れようとすること。
長いため息をついて、舟を漕ぎ始める。
やはり水を叩く音は心地が良い。
「……まあ、正しい判断をしてくださると、信じています。閻魔様」
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