第6話 準備不足という名の絶対的な壁
風が砂埃を巻き上げる辺境の街道を、一頭立ての簡素な馬車が西へ急いでいた。乗っているのは、アレス・クロノスと、行商人リーナ・バローネだ。目的地は自由都市。彼らが『鉄錆の門』で築き上げた流通網の、新たな中枢となる場所だ。
「自由都市まではあと二日。あんたの作戦は順調すぎるね、アレス」
リーナが手綱を握りながら、興奮を抑えきれない様子で言った。
「市場はあんたの規格外アイテムで大混乱だ。大臣ベリアスの正規物資はもう誰も見向きもしない。回復ポーションなんて、あんたの超濃縮ポーションの存在を知ったら、ゴミ同然の扱いだよ」
アレスは馬車の奥で静かに目を閉じていたが、リーナの言葉に淡々と頷いた。
「ベリアスの利権構造は極めて脆弱だ。彼の支配は品質ではなく、独占によって成り立っていたに過ぎない。僕が純粋な品質とコストでそれを上回れば、崩壊は必然だよ」
「品質とコストで世界を破壊するってわけか。あんた、本当に恐ろしいよ。『鉄錆の賢者』だなんて呼ばれているが、あんたのやってることは、ただの復讐じゃないだろう?」
リーナはアレスの横顔を伺う。彼女が本当に聞きたいのは、ゼノス・ブレイド、かつてアレスを追放した勇者隊のエースについてだった。
「どうするんだ、アレス? 東の辺境で古代種が出現した。ゼノスたちが潰されたら、王国全体の防衛線が崩壊するぞ。あんたの復讐は、王国を滅ぼすことじゃないんだろう?」
アレスはゆっくりと目を開いた。瞳の奥には、冷たい計算が宿っている。
「僕の目的は、王国を滅ぼすことじゃない。既存の秩序と、ゼノスが固持する『武力至上主義』という古びた信念を、根底から書き換えることだ。彼らは今、僕が管理していた完璧な準備と、ベリアスによる劣悪な流通の差に苦しんでいる。純粋な武力だけでは、物資の力を超えることはできない。この事実は、彼らの誇りと信念を打ち砕くには最高の舞台だ」
「つまり、ギリギリまで見殺しにするってことかい?」
「そうだね。僕が用意する『救済』は、単なる救援ではない。それは彼らの人生における、絶対的な敗北の証明だよ」
アレスは静かに『無限収納』へと意識を接続した。内部の『空間整備(ファクトリー・ゲート)』では、時間停止空間の中で、特殊な合成が最終段階を迎えていた。
***
同じ頃、王都近郊の野営地。防衛線の最前線に位置するこの場所は、極度の緊張と絶望に覆われていた。
「なぜだ! なぜ、この重要な局面で、装備もポーションも不足しているんだ!」
ゼノス・ブレイドは怒りに声を震わせ、司令部のテントの机を叩いた。彼が剣術の修行以外に興味を示さなかった物流や物資管理の崩壊が、今、彼の命運を握っている。
副官が青ざめた顔で報告する。
「ゼノス様、新たな報告です。東の辺境より、古代種の接近速度が予想を遥かに上回っています。明日夜には、この野営地に直撃するでしょう。しかし……物資が」
「物資はどうした、報告しろ!」
「ベリアス大臣が納入させた防具の補強材は、訓練中に亀裂が入り、既に信頼性がありません。回復ポーションも、以前のアレスが用意していた特級品とは比べ物にならず、古代種の魔法傷に対処できるレベルではありません!」
ゼノスは頭を抱えた。純粋な武力で押し通せる問題ではない。いくら彼が王国屈指の剣士であろうと、防具が機能しなければ一撃で命を落とす。ポーションがなければ、かすり傷ですら致命傷になりかねない。
「なぜだ……! あの荷物持ちの小細工野郎が、なぜ我々の力を根底から支えていたんだ……!」
彼は信じたくなかった。自分たちが軽蔑し、追放したアレスの『準備』が、自分たちの武力よりも遥かに重要な戦略的要素だったという現実を。
「違う! 武力こそが全てだ! ポーションや防具が劣悪でも、俺たちの技が鈍るわけではない! 全員、迎撃態勢だ! 絶対に防衛線を崩すな!」
ゼノスは自らに言い聞かせるように叫び、震える手で愛剣を握りしめた。彼の心の中で、武力至上主義の信念と、物資の欠乏という見えない敵への恐怖が激しく衝突していた。
***
自由都市の境界線が視界に入り始めた。アレスは馬車の中で、最後の確認を終える。
『空間整備(ファクトリー・ゲート)』内の『工房』と『鍛冶場』で同時並行で生産された【超濃縮回復ポーション】と、ゼノスの剣に合わせた【時空干渉性・強化コーティング剤】の合成が完了した。
「完璧だよ」アレスは満足そうに呟いた。
「準備不足は、死を意味する。だが、僕の準備は、世界をひっくり返す。ゼノス・ブレイド。君の武力ではどうにもならないこの絶望的な戦場こそが、僕の『戦術』の絶対性を証明する最高の舞台となる」
アレスは、彼の最終兵器――規格外のアイテム群を、王都近郊の野営地、戦闘空域へ転送するための座標を設定した。
「さあ、ショーの始まりだ」
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