E20
礼拝堂の敷居は低かったが、くぐる前に一度、息を整えさせた。海から上がった塩気がアーチ窓の縁で薄く乾き、ガラスに打ち込まれた金色の鋲が日差しを捕まえて、かすかに震えた。外套は鐘台の下にスピーカーのグリルを立て、覆い布を外しながら言った。
「現場記録を、まず共有しましょう。水跡、網の影、そして——輪。」
ミホがこちらを見た。私がうなずくと、彼女は私のノートから防波堤のスケッチを一枚破り、鐘台脇の机に広げた。細い線だけで描いた〈縁〉と、その上に置かれた小さな円がひとつ。隣に並ぶ二つの言葉。
今日は——ここ。明日は——ここから。
外套がその二語を読んでいるあいだに、ルシアは旗竿を畳んで鐘台の壁に立てかけた。ヨムスはスピーカーの電源を入れ、ノイズが塩のように口内で砕ける音をいちど高くしてから絞った。王子は出入口に立つ。海からついてきた風が彼の肩をひと撫でして抜けていった。
「手続きを進めるなら、」外套がスケッチを指す。「アンカーは機関保管へ移すのが原則です。とくに請求網の動向が識別された場合は。」
「原則がいつも正解とは限りません。」ミホが言った。「今日は『場所』の意味が先です。移した途端、輪は『物』になります。今はそうじゃない。『場所』です。」
外套の視線が、私のノートと窓のあいだを往復する。私は窓の外を一瞥した。少女は礼拝堂のひさしの陰に座っていた。片方の手の甲を陽にさらし、手首から落ちる雫が床に言葉を作るままに任せている。ときどき目を覚ますきらめきと、すぐに消える残像。彼女は中に入らない。意図的に、あるいは、まだ。
王子が少女の方へ半歩出て、止まった。靴先が礼拝堂の年季の入った石床に短い「コツ」を残す。彼は息を整え、言った。
「防波堤の裂け目から輪を取り出したのは私です。手にのせたとき、塩が崩れました。重さは……ほとんどありません。冷たさだけは。判断を問われるなら、外に置くほうに……心が傾いています。」
外套が王子を正面から見た。「あなたは観察者であり、同時に当事者です。発言は記録されます。」
「記録してください。」王子はうなずいた。「ただ、今日は——」
彼は語尾を丸ごと呑み込んだ。言葉の代わりに、戸外のひさしの下の少女をもう一度見る。彼女の手の甲が残した短い水跡が、陽の中で乾いて消える瞬間だった。
外套は腕をほどき、スピーカーの脇に立った。指でグリルの金属を軽く叩く。「では、現場責任者の判断に従いましょう。ただし、午後の手順では最低限の防衛線を張ります。請求網が再び付く可能性が高い。午後の風が立つと、結び目が動きますから。」
「黙音でほどきます。」ミホが先に答える。「名前は、まだ呼びません。」
外套は薄く笑った。「名前は——いつだって最後に呼ぶものです。」
儀式めいたやり取りはあったが、言葉の居場所は儀式ではなかった。私たちはふたたび防波堤に立つ。礼拝堂の影が半分だけせり出して縁を覆いはじめる時刻、海の表情が昼とは違う速度で微かに変わった。ヨムスが水筒の蓋を開けて空気を含ませ、ルシアが旗竿を倒して縁に長い影を落とす。外套はスピーカーの代わりにメモ帳と鉛筆だけを持っていた。鐘は昼寝でもしているように静かだ。
輪はまだ私のノートの上にある。少女は一歩前に立った。彼女はノートに指先を触れもせず、風上へ手の甲をそっと差し出した。雫がひとつ湧く。転がり落ちる前に、その雫を陽が透った。床に刻まれたその雫は語にならなかった。代わりに、線になった。きわめて短い水平線。
「始め。」ミホが低く言う。
最初に来たのは、音だった。塩の付いていない金属の音。捨てられた網の鉄の結びが石と擦れて鳴る音より、もっと古びた響き。隣で王子が反射的に身を起こす。手の甲の血管が細く浮き、すぐに引っ込んだ。
水のなかから影が上がってくる。朝見たあの網に似ていたが、結びはもっと密で、各結びに打たれた符号が風に早々と露出した。〈発行〉〈貸与〉〈請求〉〈延長〉。私は横目をごく短く点ける。長く点ければ目が手を先取りしてしまう。行を限って読む。〈担保:声 1〉〈副担保:魂痕 1〉。
「魂の担保は——不可。」私は先に口を開いた。「境界外請求では禁止です。」
外套がうなずく。ミホが旗の代わりに掌を開き、風の中へ短い線をひとつ引いた。少女が同じ線をつま先でなぞる。ヨムスが水筒を掲げ、防波堤の縁の手前の空中へ短く霧を散らした。雫は落ちる前に互いを摑まえ、いくつかの大きな滴へ合わさる。滴が輪に落ちないよう、私はノートの角度をわずかに風上へ傾けた。
網の結びが一斉に張りつめた。足元の石の隙間から低い唸りが上ってくる。ルシアが旗竿の先で、海の線と防波堤の線をXに交差させた。低く裂けた音が、その交点で止む。
「請求人の記載は?」ミホが問う。「発行人の欄。」
私はもう横目で読まない。代わりに、塩の匂いに混じって入ってくる別の匂いを嗅いだ。甘い匂い。果物ではない、砂糖を焦がす直前の甘さ。局の講習で聞いた言葉が遅れて背筋を登る。〈甘ければ——二歩さがる。正面は見ない〉。私は本能で半歩退いた。王子もほんのわずかに下がる。少女だけが位置を守った。彼女のつま先が、水平線をもう一本引いた。
「甘香なら——請求人の名を呼んではいけない。」外套が低く言う。「取引当事者ではなく、条件だけを見る。」
「条件変更の提案。」ミホ。「副担保の削除。担保は『場所』に置換。輪=場所。移動禁止。」
網の結びが同時に揺れた。互いに問い合うみたいに。無音の問いと、無音の答えが、風を介して行き来する。そのあいだを、私は目で見ず、手で感じる。輪の冷たさがノートへ降り、指の節を登ってくる。骨に触る冷。私はその冷たさを借りて、心の中に一行書いた。
今は——場所だけを担保。
王子が私の手の甲をかすめ見て、再び海を見る。彼は私の内書きを見ていないが、似た言葉を首のうなずきでなぞったようだった。喉仏がゆっくり動いて、止まる。少女は輪を見ない。輪のまわりの空気だけを、深く吸って吐いた。
網の結びがひとつほどける。〈魂痕 1〉が風から消えた。他の項目が短く光り直す。〈担保:声 1〉〈貸与期間:未詳〉〈延長:請求人裁量〉。外套が鉛筆で、私のノートの余白に小さく〈延長拒否権——追加〉と記す。私はうなずいた。
「延長拒否権を宣言します。」ミホ。「延長は『人間の日常』と衝突する場合、自動保留。」
網の結びが二度揺れた。承諾か否かは判じ難い。が、次の瞬間、結びのあいだ三か所で、ごく短い金属の咳のような音がした。私はヨムスの水筒を取り、蓋を掌でいちど押えて放す。空気が水の上へ薄く張り、音が水の底へ押し沈められる。
「では——発行人を確かめます。」外套が慎重に言う。「黙音で。」
ルシアが旗竿をさらに寝かせる。先端の影が網の影に重なった。風が止まらなければ分からない瞬間が来て、風は短く止まった。結びのあいだから、舌先でしか読めない名の影が通りすぎる。誰もが一度は悪役に誤解される仕事の名。先に警告を言い、代価を隠さず、それでもいつも罵られる——その名。
魔女。
外套が、とてもゆっくり息を吐く。ミホの口角が微かに動く。私は少女を見る。彼女の手の甲に生まれた雫が落ちきれず、肌の上で震えていた。落ちきれないものは、たいてい重く、長く残る。
「発行人通知:承認。」外套が低く言った。「条件変更は受領。ただし、『声 1』は——貸与状態を維持。」
「貸与なら、」ヨムスがつぶやく。「返す時がある。」
「魔女はもともと、返すのよ。」ミホが語尾をやわらげる。「代価を隠さなかったし、警告もした。私たちの仕事は——その代価を別のものへ置き換えること。痛みや魂ではなく、『場所』と『時間』に。」
網の結びがぽつりぽつりと解けていく。最後に残った符号が陽に曝される。〈返却時:無痛——かわりに遅延発生〉。外套が〈遅延承認〉に小さな丸をつけた。
その瞬間、海側から、いっそう濃い甘香がひと波押し寄せた。機械的に舌先が、その甘さを疑う。私は正面を見ず、自分の足首の影を見た。影の端が、半拍遅れて私の足首に従う。王子が横に寄って低く言う。
「今——彼女は話せますか? ほんの少しでも。」
私はミホを見る。ミホは少女を見る。少女は海を見ない。彼女は私たちを見ず、自分の手の甲を見る。肌理が陽で均(なら)されて温まり、冷めていく。彼女は手の甲に残っていた最後の雫を唇へ運び、極短く吹いた。音ではなく、かたちだった。風が作る音のかたち。そのかたちが唇から離れ、私たちの間の空中に短く留まる。
私はそのかたちを読んだ。音ではなく、文字として。丸い唇が、短く閉じて開く一度きり。名前の最初の字が唇に生まれるときの形。彼女は話さなかった。だから、語られた。誰も口を開かない。代わりに王子が、目を閉じて開くことで、その一文字をなぞった。睫毛がひと揺れする。
「今は——ここまで。」ミホが静かに言う。「今日の契約は、場所と遅延まで。『言葉』は次。いちどに一段。」
外套がメモ帳を閉じた。表情は相変わらず滑らかだが、その下に、かすかに皺(しわ)が寄っている。彼はその皺を指で伸ばすように、ネクタイの結び目をいちど整えた。
「夜の風は、もっと荒い。」外套が防波堤の先を見る。「夜には網がまた来る。輪を礼拝堂へ移せば、危険は広がるでしょう。なら——ここで護りましょう。」
「私が残る。」私が先に言う。「ここはよく見える。波も、風も、鐘も。全部、聞こえる。」
「私も。」王子が重ねる。「今日は……ここにいるのが、私の場所な気がします。」
ルシアが旗竿を立てた。「旗は置いていくよ。夜にまた『X』が要ったら、何も言わずに使えるように。」
ヨムスは水筒を一本、縁の下の岩の裂け目に横向きに挿し入れた。「これは『息』だ。夜風が強ければ蓋だけ開けろ。その音だけでも、網は『場所がある』って理解する。」
ミホは、輪が置かれたページをノートから外さなかった。代わりに、その余白へ極小の字で一行加えた。〈夜間——正面禁止、側面確認〉。それから顔を上げ、私と王子を見くらべる。
「正面は見ないで、互いを見る。夜は正面が先に私たちを見る。斜めに立って、同じものを別角度で見よう。二つの長さが出会うと、『ここ』になる。」
少女は動かない。しばらくそのまま立ってから、防波堤の縁に腰を下ろし、膝を抱えた。水面と同じ高さ。昼と夜の境が膝の下に触れる場所。彼女は手の甲で最後の水平線をもう一度引き、その上に小さな点をひとつ打った。点はすぐ乾いた。乾いて、長く残った。
陽が傾くあいだ、礼拝堂の鐘が一度鳴った。誰の手も綱を引いていないのに、金属が空気を吸って吐く音が、礼拝堂の中へ入り、外へ出ていった。外套はスピーカーのグリルに再び布を掛ける。彼は背を向ける前に言った。
「この夜を越えれば、輪の性質はもっとはっきりするでしょう。そのとき——名前を呼ぶかどうか、決めましょう。」
「今は——呼びません。」私は小さく首を振る。「彼女が先に呼ぶまで。」
外套は答えなかった。代わりに礼拝堂の扉を閉めながら、もう一度、鐘台の方を見た。鐘の胴のあいだから夕陽が長く伸びる。扉が閉まると、風の音はいっそうはっきりした。残ったのは三人。私と王子、そして少女。
夜が始まるとき、海は昼の色をゆっくり畳んだ。畳まれた箇所は暗くなり、暗い箇所は深くなった。輪は相変わらず冷たい。冷たさは消えない。代わりに、言葉が少し消えた。私たちは言葉の代わりに場所を確かめた。少女は海側、王子は陸側、私はその間。三点が一直線にならないよう、少しずつずらして立つ。
澄んだ甘香が、もう一度、はるか遠くから吹いてきた。私は正面を見ない。横に立つ王子の横顔に、低く沈んだ緊張とどこか似た匂い。彼は私を見ず、私も彼を正面からは見ない。代わりに、同時に輪を見る。同時に見ないために、少しずつ違う角度で。
網の影が闇に紛れて近づいてくる。結び目がひとつずつ光った。風が結びの間を通り、名前ではない名前をかすめる。私の舌先から消えていく母音と、王子の手の甲に浮く血管の浅い息。少女の手の甲に生まれる、ごく小さな雫。
その雫が、今度は落ちた。落ちながら音がした。音らしくない音。だからこそ、いっそう音。言葉には聞こえないのに、言葉になる前のかたちを帯びていた。私はそのかたちを、胸の内でなぞる。王子は息を吸い、ながく吐いた。少女は輪を見ない。輪のまわりの空気が、彼女の名を先に呼んだ。無音で、正確に。
私は、唇の内側で、ごく小さく一文字をつくった。呼ばないために、自分の内だけで。彼女が〈まもなく〉と残した、あの約束を守るために。
夜はまだ長い。そして私たちは、場所を守る側を選んだ。輪の冷たさが、もう一度、私の指の節を登ってくる。私はその冷たさをつかまえて、心の中に短く書いた。
今は——契約に従って。名前は——まだ。
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