E05 —— 朝いちばんの一行、そして水のそばで聞く準備

朝、目を開けて最初に浮かんだのは、昨夜ドアの前で吐き出した一行だった。

今は——よくやった。そして——明日、訊ねる。

そのあとに、想像よりはっきりした母音の列が続く。……ア——ラ——ウ。 頭の中で自分の名前が合わさっていく音。大げさに受け取らないよう、洗面台に体をあずけて4-4-6をもう一度数える。四拍吸って、四拍つかまえて、六拍ながく吐くあいだに、音は水の底に沈むみたいに静まった。

癖は長生きし、名前はあとから付く——中学の相談室で聞いた言葉を、心の中でそっくり書き写す。


あの先生は、私の語尾の癖を直すために、とても単純なルーティンを作ってくれた。語尾つなぎ、4-4-6、今日の一行。 発表文も、日記も、給食の列で友だちとふざける時でさえ、終わりをつかまえて言葉を座らせる練習をした。演劇部に入ってからは、舞台袖でそれを発声の“アンカー”にした。客席の前に立つときは、まず言葉が椅子に座る想像をする。すると震えが減った。昨日図書館で習った**「一行宣言——Seat Line」は、私の古い秘密の癖に正式な名前と用途**を与えただけ。だから私が速く順応するのは不思議じゃない——ずっと前から似たことを訓練してきたのだから。


水族館の朝番は何事もなく流れた。ユナがキャンディを二つ渡しながら、

「最後まで読む子は糖が落ちるからね」

とからかい、私は笑って一つだけ口に入れた。ペンギンの餌の時間に合わせて冷凍庫からトレーを出すと、鉄の把手の冷えが手のひらから骨まですっと通った。感覚が鮮明な日は、言葉にいっそう気をつける——それが私の古い結論。足は軽く、目は迷いが減る。 逆に言葉が増える日は、感覚が滑る。今日は前者。だから喋るより記録を優先すると決めた。


退勤のハンコを押し、向かいのブロックへ向かいながら、財布のラミカードの角をもう一度押す。

二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線——五行はもう「覚える」ではなく、体が勝手にやるに近い。横目は職場だけ。正面は帰り道に。 チュンベの言葉を片隅に貼っておいたおかげか、ロビーの曇りは今日はただの曇りに見えた。


地下へ降りる前、ミホが先に上がってきて、私の手首を見やる。

「今日、質問があるって言ってたね」

「はい。なぜを」

「いいわ。今日は教育の二段目を混ぜて答える。まずは現場記録の理由から」


彼女は休憩室へ私を導き、テーブルには昨日のラミカードより分厚いバインダー。〈現場ログ略語集——基礎/応用〉。表紙の内側には使い込んだカードが並ぶ。

圧=差圧(推奨4.2〜5.0)/レッドライン=仮境界(チョーク・テープ)/コンマ=待機3・6秒/二歩=観察距離/席=アクリル板・ラベル棚

その下の小さな文字が目に入る。

言語アンカー——「今は——[私の選択]」

ミホは私の視線を追った。

「これは保存理論のパート。開かれた空間では言葉が先に濁ると、手も一緒に濁る。だから先に言葉を座らせて、そのあと手順を踏む」

「つまり……一行を先に書くのは、仕事を早くするためじゃなくて——ブレを減らすため」

「正解。しかもハルみたいに“語尾つなぎ”を長くやってきた人は、これをすぐ身につける。質問の核心がそれなら——ハルが特に上手なのは訓練の成果。超能力じゃない」


彼女は言葉を選んでいた。超能力が可笑しくて笑ったが、笑ってからやっと気づく。今ほんとうに聞きたいのは別のことだ。なぜ私は“きらめき”を見るのか、なぜ皆は当然のように受け止めるのか。 それをここで出すには席が足りない。私は先に座らせる言葉を選ぶ。


「わかりました。じゃあ今日は——なぜ記録が揺れるかを探します」

「速度が合ってる」ミホは軽く手を打つ。「よし、箱をもう一つ。A-18。港湾庁の追加分」


地下へ降りる途中、チュンベが無線のトーンで短く。

「圧4.7、レッドライン維持、待機六」

私はほとんど反射で復唱する。

「圧4.7、レッドライン維持、待機六」

このリズムが私を安定させる。短く、最後まで。


A-18の箱には、王冠ロゴ——PRINCE SARDINES。テープの艶は昨日より薄く、匂いは紙寄り。

「書類上は即開封可」ミホがラベルを確かめて頷く。「ただし、ハルの一行が先」

「今は——規定に従って開封する。開封後は、記録を優先する。」


テープの裂けは滑らかだった。中には厚いバインダー1冊、薄いバインダー2冊、それから小さなカセットみたいなオーディオ・カートリッジが小箱に入っていた。小箱には**『海霧警報・音声——バックアップ』**の印字。ミホが手袋越しに持ち上げ、

「見るだけ」

と線を引く。

「再生前の手順——識別、ラベル、席。そして一行」

「今は——識別のみ。再生はしない」


ラベルプリンタから**〈海霧警報——音声バックアップ/港湾庁〉が出て、カートリッジは透明ポケットに入れて席へ。

その時——空調の上で、ごく小さなピッが流れた。案内放送のテスト音に似ているが、語尾が妙に丸まっている。……ア**。その一音が乾燥室のハミングと重なって、風の道がかすかにもつれた。チュンベが騒音計を覗いて低く言う。

「微細干渉。圧4.6」


私は自分の声を最後までつかまえると決める。教科書どおり、まず席を作る。アクリル板を手前に寄せながら言う。

「今は——再生しない。記録だけ」

語尾が届いた瞬間、丸まっていた**……アがハミングの中でほどけた**。

チュンベ、即反応。

「圧4.7回復」


——少し誇らしい。でも誇らしさは境界を緩める——これも昔に覚えた。私は感情のしっぽを自分で二歩後ろへ引いた。ミホは私の顔を読んだのか、ごく小さく頷く。

「いい。今は記録。再生は明日」


バインダーを開くと、『灯台交代日誌』の別の束。日付は前の箱とつながっている。交代者の欄に見慣れない綴りが目に止まる。ルシア——ルシア。 一度は**『ルシア(見習い)』、一度は『ル—シア』みたいにハイフン入り。同じ手、同じインク、違う記し方。二つの表記を透明フィルムで覆って重ね**、角度を変える。どの角度でも両者は慎重に重ならない。“名前の速度”がずれている——そんな感じ。


「見習いの名前が……」私が余白を指すと、ミホが一緒に覗き込む。

「『ルシア』。島の名と同系だから、ありふれた名前かもしれない」

「でもある日は……名前が先に走ってます」

「そういう時は裏取りの文書がある」彼女は薄いバインダーを出す。『人員変動報告(月次)』。灯台の勤務者の交代/移動/休暇が表で整理。私はルシアを追って目を走らせる。

『見習い——2月3週 乗船予定』/『4週目 交代保留——気象』/『翌月 転換検討』

保留/転換/検討——三つの語が心の中で小さなリズムを刻む。保留は席、転換は位置、検討は速度。

ミホが私の手の甲をコツと軽く叩く。

「いい。“なぜ”を探す時でも、今を先に」


私はそのなぜをいま突く代わりに、もう少し小さい質問を先に出す。

「じゃあ……今日の質問の半分だけ。どうして私の声は空調と一緒に動くんでしょう?」

「現象から先に」ミホはいつも定義が先だ。

「乾燥室は音・湿度・温度が干渉し合う。テスト音が入れば風の繊維が変わり、その風が艶を作る。で、ハルは**“最後まで読む”発声をする。それが空調の出す“長さ”と噛み合って**、揺れる部分を一時的に固定する。技術だけで説明すれば、そう」

「そして、技術だけでは終われないからですね?」

「今日はそこまで」彼女は薄く笑う。「残りの半分は——ハル自身が質問を作って、席を用意してから」


私がうなずくと、彼女はついに、昨日から頭の中で回っていた疑念に自分から触れた。

「観察の段階はほぼ終わり。ハルが角度を失わない人かどうか——確かめていたの」

「じゃあ……次は?」

「現場の外勤。港湾庁 文書庫 分館へ行く。海霧警報の音声の元の装置と、同日対照の夜間巡回ログがある。水のそばで見た方がいい。ハルは水族館でガラスと水を上手く扱う。助かる」


外勤。水のそば。海霧。 語が耳の中で互いを呼ぶ。私は水族館で覚えた感覚を思い出す。ガラス面に張り付かない水滴、濡れない水じみ、反射と屈折の隙間にある席。私はその席を先に言葉で作る人だ。つまり、超能力ではなく習慣。もしその習慣がどこかの扉の取っ手になれるなら——結末を強いずに——私は先に知りたい。


外勤は明日の午前に決まった。残りの時間は書類整理とラベル対照、それからオーディオ・カートリッジの分離保管——ミホは**「再生は明日、水のそばで」と釘を刺す。戻る途中、落とし物室の前を通ると、透明袋の白い半粒が視線をつかむ。昨日は名前のない“ピン”、今日は席がある。私は袋の角をコツ**と叩き、とても小さな声で言う。

「今は——保留」

言葉は袋を揺らさず、私の手首にだけ座った。


退館のサインの頃、チュンベが階段の上から声を張る。

「圧4.8。レッドライン維持。本日は安全」

「安全は……退屈であって安全」私が先に語尾を置く。

「よし」彼は満足げに笑った。「そして——明日は風がもっとしょっぱい。海沿いだから。正面で見て、横目は少なめに」


外へ出ると、ロビーのガラスにきわ薄い曇りが一度だけすっと走る。スマホが震えた。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉——今日は文がもう少し短い。

Q3. 今日、“安全な結末”は必要ですか?

画面の中央を赤い線が細く過ぎる。予測変換みたいに親指が「はい」に乗りかけるのを、私は二歩ぶん遅らせて止めた。その遅延が選択を作る。私は入力欄にゆっくり打つ。


「今は——いいえ。」


送信と同時に、胸の中で**……アが鳴り、ラが低く続く。さらにごくかすかにウ**が——短く。ハル。同じ席だった。むりに解釈しないことにする。帰り道は正面だけを見る。規則は人を救う。規則は人生の結末を決めないが、今日を座らせるには十分。


家に戻ると、机の上の灰色のノートはそのまま。最初のページには中学生の字でいびつに並んだ今日の一行。

今は——息を数え、最後まで読む。

下には幼い私の小さなチェックボックスがずらり。昔の私と今日の私は“今”の一語でつながる。外勤の支度をしながら、バッグにジッパーファイル、手袋、小さなヘッドランプ、ラミカード。ポケットにはペンと古いヘアピン。真珠が一粒欠けて完璧でないことが、むしろ私を落ち着かせる。完璧より、空きのある席がいい。そこには文も、息も、質問も座れる。


ベッドに入る前、今日最後の一行を決めるために、しばらく言葉を天秤に載せた。なぜ、どうやって、だれ——質問は準備できている。でも訊くのは明日、水のそばでやるべき。だから、今日を収納する文を選ぶ。


「今は——準備する。そして——明日、水のそばで聞く。」


句点が触れた瞬間、遠くで波が一度きこえた。錯覚にしては、窓は閉まっているし、この町に海はない。私は窓へ二歩近づきかけて——止まる。

横目は職場だけ。

そう自分に言い聞かせ、背を向ける。波音は二拍目で消え、代わりにごく低い**……アが胸の中で締めの印**を打った。


灯りを落とし、目を閉じる直前、明日の絵をごく浅く思い浮かべる。風がしょっぱく、言葉が短く、語尾がよく座る場所。 そしてもし、“名前を先に走らせる”誰かに出会うなら。名前がルシアでも——偶然でも、偶然でなくても——私は今を先につかむ。それが私のすべてで、長く訓練してきたことだから。

結末は強いない。かわりに今日を座らせる。明日は、水のそばで、聞く。

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