君の涙が止まるまで

森川 隼人

第一章 — 孤独の終わり

足音が学校の廊下にこだました。

それは、ただの平凡な一日になるはずだった――少なくとも、そうであるはずだった。


宮崎タナベはぼんやりと歩きながら、自分の教室へ向かった。

教室に入ると、すぐに異様な雰囲気に気づいた。

いつもより静かで、みんなの声がやけに小さい。

視線は一斉に教室の奥へと向けられていた。


窓際の席に、ナカノ・アイリが座っていた。

彼女の顔には小さな傷がいくつもあり、唇は切れ、頬には不器用に貼られた絆創膏があった。

誰も何があったのかを聞こうとはしなかった。

いつも彼女をからかっていた女子たちですら、ただ黙り込んでいた――まるで何も見ていないふりをして。


アイリは外を見つめ、灰色の空を眺めていた。

――雨が降ってほしい。

もしかしたら、その雨が少しだけ痛みを流してくれるかもしれない。


宮崎はいつもの席に腰を下ろし、できるだけ気にしないようにした。

彼女のことなんて、ほとんど知らなかった。

でも――胸の奥で、何かが囁いていた。

「このまま放っておくな」と。


授業が終わると、アイリは静かに荷物を片付け始めた。

教室にはもう誰もいない。残っているのは、彼女と宮崎だけ。


深く息を吸い、彼はそっと近づいた。

「……家まで送っていこうか?」

少し緊張した声だった。


アイリは顔を上げ、驚いたように彼を見た。

一瞬、彼の表情から何かの冗談を探すように目を細める。

「ど、どうして?」と、警戒した声で尋ねた。


宮崎は少し考えてから答えた。

「なんとなくさ……こんな日に、一人で帰るのはよくない気がして。」


その瞳には同情ではなく、純粋な心配があった。

アイリはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。


二人は並んで歩き始めた。

しばらくして、宮崎は彼女が少し足を引きずっていることに気づいた。


「なぁ……おぶってやろうか?」

そう言うと、アイリは頬を赤らめた。

「だ、大丈夫……そんなの、恥ずかしいから……」と、目を逸らす。


宮崎は小さく笑い、少しだけ近づいた。

「じゃあせめて、肩貸すよ。」


彼はそっと腕を彼女の肩に回した。

アイリは一瞬ためらったが、やがてそのまま受け入れた。

「……うん、ありがとう。」

彼女の頬がほんのり赤く染まった。


足取りは少しずつ軽くなっていく。

しばらく沈黙が続いた後、宮崎が口を開いた。

「ところで……家ってどこ? 実は全然わかってないんだ。」


アイリははっとして笑った。

「あっ、ごめん。次の角を左に曲がって、それから三本目の路地を右。灰色のマンションだから、すぐわかるよ。」


歩くうちに、彼女の表情が少しずつ柔らかくなっていった。

宮崎の腕のぬくもりが、心の重さを少しずつ溶かしていく。

――そして、ほんの少しだけ、孤独が薄れていった。


「ここまでありがとう……本当に助かった。」

アイリは小さく笑いながら言った。


「気にしないで。でも、帰ったらちゃんと足に氷当ててな? それと……次からは気をつけろよ。」

宮崎の言葉に、アイリは小さく笑った。

「うん……ありがとう、宮崎くん。」


その言葉が自然に口からこぼれ、彼女はハッとして顔を赤らめた。

宮崎も少し照れながら、笑みを浮かべた。


少し歩いた後、アイリは深呼吸して、震える声で言った。

「……私の傷、気づいたよね。昨日の帰り道のことなんだけど……。」


宮崎は真剣な目で彼女を見つめた。

「何があったんだ?」


「帰りに公園を通ったら、不良の子たちに囲まれて……それで……」

声が途切れ、彼女の瞳に悲しみが浮かぶ。

「誰にも言ってないの。面倒をかけたくなくて……両親にも言えない。どうせ、誰もわかってくれないから。」


アイリの頬を、一筋の涙が伝った。

彼女は慌てて顔をそらす。


宮崎は一歩近づき、静かに言った。

「……わかるよ。」


その言葉に、アイリの目が大きく見開かれた。

胸の奥が、ほんのり温かくなった気がした。

「……ありがとう。知らない人に、こんな話してごめんね。」

「謝らなくていいよ。誰だって、一人で抱えるには重すぎる時がある。」

宮崎は優しく微笑んだ。


アイリも、小さく笑い返した。

「……そうだね。」


やがて、前方の建物を指さした。

「あそこが、私の家。送ってくれてありがとう。」


彼女が去ろうとした瞬間、宮崎が声をかけた。

「……一人で抱え込むのは良くないよ。もし話したくなったら、俺がいる。」


アイリは彼を見つめた。

その瞬間、世界が少しだけ静かになった気がした。

「……本当に、そう思ってくれてるの?」

「うん。」


「……私、誰にも話せないの。両親は忙しいし、学校では誰も気にしてくれない。みんな、私のこと“静かな子”としか思ってない。」


声が震える。

「……怖いの。ずっと、怖いままなの。」


彼女の肩がわずかに震えた。

宮崎はその肩に手を置き、静かに言った。

「君はよく頑張ってる。普通なら、とっくに折れてる。でも、君は違う。強いよ。」


「……ほんとに、そう思う?」

「思うさ。」


アイリの目に再び涙が浮かんだ。

だが今度の涙は、悲しみのものではなかった。

宮崎はそっと彼女の涙を拭った。

「泣かないで。こんなに綺麗な子が泣くのは、もったいない。」


アイリは驚いて顔を赤らめたが、目を逸らさなかった。

胸の奥が熱くなり、長い間閉ざされていた心が少しずつ溶けていく。


「……ありがとう。そんなこと、誰にも言われたことなかった。」

「俺こそ、ありがとう。笑ってくれて。」


「うん……私、もっと強くなってみせる。宮崎くんのために。」

彼女はそっと手を伸ばし、彼の手に触れた。

宮崎もそれを握り返し、穏やかに微笑んだ。

「それは嬉しいな。」


二人は微笑み合った。

その笑顔は小さかったけれど、確かに本物だった。


「そういえば……君の名前、まだちゃんと聞いてなかったかも。」

宮崎が少し照れくさそうに言った。


アイリは驚いたように目を瞬かせた。

「……あ、そっか。ちゃんと自己紹介してなかったね。ごめんね、私、ナカノ・アイリっていうの。」


「俺は宮崎タナベ。よろしく、アイリ。」


その瞬間、時が止まったように感じた。

静かに雨が降り始め、優しい雨音が二人の笑い声に混ざって響いた。


――そのとき、彼女の孤独は、少しずつ終わりを迎えようとしていた。

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