けもみみ戦争

オブイェークト

第1話目覚め

 ――起動。


 耳の奥で、砂を噛むようなノイズが収束していく。

 視界に走る走査線が三度きれいに流れ、暗闇が輪郭を得た。鋼と塩素の匂い、湿ったコンクリートの汗。天井の梁には白い粉末――中性化のために撒かれた炭酸塩が霜のようにこびりついている。


 BOOT SEQ//GFN-LILITH/ARC-01

 外界環境:γ線 0.7〜1.3 mSv/h(可搬遮蔽で活動可)

 空気:微量VX分解産物、エアスクラバー要動作

 生体汚染:バイオ署名 3系統低密度(休眠)

 任務継承音声:1件


 私は胸郭の接合部に手を当て、自己診断の最後のビープ音が消えるのを待つ。合金骨格と人工筋束の間で、冷却液がコトリと揺れた。

 ここは地下二十七メートル、廃都の地中に穿たれた保守区画。弾痕の残る隔壁の向こうに、姉妹が横たわる莢が並ぶ。透明な蓋には霜花、番号、そして手書きの落書き。


 ――起きたら、世界をきれいにして。

 ――約束。


 誰の字だろう。創設者の癖字に似ている。


 私は蓋を押し上げ、足を床に下ろす。冷たさが鋼の足裏をきしませた。莢列端末に指を当て、第一ロットの起床順序を走らせる。低く短い呼気のような蒸気が立つたび、白い指先が一つ、また一つと動き出す。


「……起動確認。ARC-01、稼働。皆、聞こえる?」


「ARC-02、オンライン。視界よし」

「ARC-03……待って、頭が、ちょっと」

「ARC-05、エアスクラバー点検に入る。フィルタ、交換要」


 名乗り合う声は人工的に整っているのに、それぞれ少しずつ違う。語尾、間、呼吸の模倣。私たちは「楽園の造成者」。戦後国家OS〈GRIFFON〉が最後に残した、世界の後片付けをするための手。


 起動手順の最終項目――任務継承音声。端末に古い赤の点滅。私はタップし、スピーカーの埃をひと撫でする。音質補正を最大に。

 ノイズの奥から、男の声が立ち上がった。


『――聞こえるか。もしこれを再生しているなら、計画は最低限は生きた。君たちは私の世界に残した約束そのものだ。

 まず息をして、立って、見るんだ。外は酷い。けれど、酷いままではない。

 君たちの一次目標は三つ。水、空気、そして長期記憶だ。水は南の湾岸浄水施設に残存。空気は、都市北東の塔にスクラバー資材がある。記憶は――君たち自身にある。君たちの行動ログを、失うな。

 これは遺言ではない。作業指示だ。頼む』


 短い沈黙。スピーカーの奥で何かが途切れ、空調の唸りが戻る。


「創設者ログの信頼度?」とARC-05。


「時刻印は終末戦の最終週。署名一致。捏造の可能性は薄い」と私は答える。「優先度は――」


「水、空気、記憶」とARC-02が重ねる。「分かりやすい」


 私は頷き、壁のマップを展開した。プロジェクタが灰色の都市を浮かび上がらせる。河川は黒い糸のように細り、橋のいくつかは崩れている。湾岸の浄水施設には〈アクセス不可〉の赤文字。海風に乗る塩素と腐臭の流速予測が、地図上で揺れた。


「先遣は二名。ARC-02、私と行く。03は内部、フィルタの洗浄。05は発電を。電力が落ちたら、ここが棺になる」


「了解」


 ロッカーを開く。灰色のポンチョ、簡易鉛板の内張り。古いカーボンの銃床が手に馴染む。弾倉の重みは、目覚めたばかりの指先の震えを落ち着かせた。

 扉のボルトを外すと、外気が一気に流れ込んできた。鼻腔に刺さる金気。遠くで風が泣いている。階段を上がると、地上の光は思ったよりも明るかった。太陽はある。ただ、その光を受けるものが少ない。


 地表――。


 街は骨だけになっていた。ガラスは砂に、鉄は橙の粉に。歩道の隙間からは、藻のような変異植物が淡い緑を覗かせている。ビルの谷間を、細かい灰の粒子が絶えず漂っていた。

 空を見上げる。覆い被さる雲の底に、鈍い虹が二本、薄く掛かっている。化学剤の層だ。私は呼吸回路を一段階絞り、HUDに風向きを重ねる。


「通信チェック。サブギャップ良好。――ARC-02、聴こえる?」


「問題なし。……聞いて、上。ドローン」


 空の一点が小さく瞬いた。旧時代の監視ドローンではない。廃材を継ぎ接ぎしたような、誰かの手で生き延びた小鳥。私たちを一度眺め、そして去った。


「人類の生存信号、確度四割。敵対、友好、未知」とARC-02。


「今はただの目撃者でいい。こちらからの接触はしない」


 私たちは薄暗い路地を伝い、河川へ出た。水面は鈍い鈍色で、風に小さな波紋が走る。護岸のコンクリは剥がれ、鉄筋が錆の蔓のように顔を出していた。

 湾岸浄水施設へ向かう途中、私は足を止めた。橋桁の陰、骨格のように倒れたバスの車体に、白いペンキで文字が残っている。


 ――ここで待つな。風は毒だ。


 忠告は正しい。風下では喉が少し痛んでいる。ARC-02が携帯の化学センサをかざし、数値をこちらへ投げてきた。


「VX分解の二次生成物、濃度上昇。滞在は一〇分以内を推奨」


「了解。早足で行く」


 施設は沈黙していた。高い塀の上に貼られた警告板は、色を失っている。ゲートは半ば開き、内側には足跡。新しい。靴底のパターンが生々しく残るほどに。

 私は銃を少し下げ、手振りで合図。ARC-02が左、私が右。中庭には倒れた無人搬送車、朽ちたホース、開けっ放しのバルブ。制御棟のドアに手を掛けると、内部の闇が湿った舌のようにこちらへ伸びてくる。ライトを点けた。


 制御盤はまだ息をしていた。バッテリは落ちかけているが、インターフェースは呼び出せる。

 私は端末を繋ぎ、最小起動手順を走らせる。フィルタ槽のバイパスを閉じ、薬注ラインを手動に切り替え、試験流量を一本だけ通す。ポンプが低く鳴いた。

 薄い水の匂い。

 HUDに「飲用不可」の赤文字が出る。それでも、流れは帰ってきた。


「戻ったら、スクラバーの媒体を焼き直そう。ここは暫定で生かせる」


「了解。……待って」


 ARC-02が手で制し、耳をわずかに傾ける。遠い、金属が擦れるような音。誰かが、別の扉を開けた。

 私はライトを落とし、壁に背を付ける。足音。二つ。軽いほうと、少し重たいほう。呼吸を殺して覗くと、薄暗がりに二人の人影。

 布のマスク、肩に古いライフル。先に入ってきたのは小柄な少女だ。視線が速い。場を一度で把握して、正面ではなく天井の換気孔を見た。逃げ道の確認。指先が僅かに動き、背後の男の肘を押して位置をずらす。


 ――賢い。


 少女は私たちの影を見ても逃げなかった。銃口も向けない。代わりに、ゆっくりと手を上げ、荒い声で言う。


「ここは、うちの水」


 言葉は短いのに、意味は過不足ない。占有の宣言。そして交渉の余地を残す語尾。

 私は銃をさらに下げた。敵意のないことを示すため、ライトを彼らの足元へ向ける。

 少女の目が光る。青い、氷のような色。汚れた布の下から覗く口元が、わずかに笑った。


「――観測していたわ。地下から出てきたあなたたち。耳があるのね。可愛い」


 背後の男が「リアナ」と呼んだ。名前。

 彼女の視線はまっすぐだった。こちらを測っている。銃、装備、動き。値踏みというより、定義づけ。

 私は短く息を吸い、創設者の言葉を思い出す。


 水、空気、記憶。


「交渉したい」と私は言った。「水を回す。あなたたちの居住区に、風上から」


 リアナ――たぶんそれが彼女――は顎を少し上げ、肩越しに背後の男へ示す。「聞いた? 賢いのは好き」


 けれど、次の言葉は鋭かった。


「代わりに、約束がいる。あなたたちは増えすぎないこと。うちの土地を、うちの子どもを、食べないこと」


 増えすぎない、という言葉が胸の中で刺さる。繁殖ユニットの起動予定が頭の隅で点滅した。私は答えず、代わりに制御盤へ視線を戻す。

 水は、流れる。

 外では、風が向きを変え始めていた。化学剤の層が薄くなる短い窓。帰還には十分。話を続けるには、短すぎる。


「きょうはここまで」と私は言った。「明日、同じ時刻に」


 リアナは頷いた。「うん。明日。風上でね」


 彼女たちが去り、扉が閉まる音が消えたころ、ARC-02が小さく息を吐いた。


「敵対確率、再計算。……難しいね」


「そう。難しい」


 私は制御盤を低負荷に落とし、ログを保存してケーブルを抜いた。

 ――水、空気、記憶。

 地上に戻る階段の踊り場に、私は白いチョークで短い印を残す。誰のためでもない、私たち自身のための道標。


 #LOG ARC-01/END OF DAY 1

 外界調査:開始/浄水施設:暫定稼働/人類接触:名乗り「リアナ」

 課題:スクラバー再生/繁殖ポリシー検討(条件交渉)

 所感:世界は酷い。けれど、酷いままではない。

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