風の背骨 ― 武士道三代記

Algo Lighter アルゴライター

第1話 堤の夜〈鎌倉末〉

踵をそろえ、土踏まずのやや前に重心を置いた。吸う二拍、止める一拍、長く吐く三拍。吐き切ったとき、肩がひと段落ち、指が軽くなる。座礼は十五度、戻しはゆっくり。雨は細かく、夜の黒を磨くように降り続く。川名の堤は泥を膨らませ、靴底の跡をすぐに満たしてしまう。忠成は背を立てた。胸の骨は一本の棒になり、雨粒がそこへ水平に打ちつけるのを受け止める。


守る、と口の中で言い切る。声は外に出さない。言葉より先に、所作が立つ。


親指を鞘口へそっと添える。刀身は見えない。見せない。黒塗りの縁を流れる水が一粒ずつ跳ねて、夜の光を短く擦った。背の内側で、呼吸が一定の幅に落ちていく。吸二、止一、吐三。吐ききって、指が軽くなる。袖の内から油紙に包んだ香木の欠片を取り出す。紙を剥ぐと、沈んだ甘さが湿った空気の底で広がって、胸骨の裏に小さな温をつくった。匂いをひと呼吸嗅ぐ。拍が半拍だけ低くなる。スイッチはこれで入る。


堤の斜面に足を置く。荷重を前へ送ると、泥の冷たさが踵の骨を伝って上がってくる。膝は浅く折る。四十五度より少し立ち、踏ん張りの角度を保つ。草鞋の縄が水を吸って重たくなり、足背に巻きついた繊維の一本一本が皮膚の上で硬くなる。その硬さが位置を教え、立ち方を正した。


川は低い唸りを長く引いていた。音は太くはない。太さの代わりに粘りがあった。山の雪解けと長雨が混じって、黒い水は重たく、しかし速い。視線を十五度だけ上げる。上流の闇が、わずかにうねった。夜半から未明へと移る間の、目に見えぬ薄明が水の表を柔らかくし始めている。


そのとき、川の向こうから細い叫びが割れた。高い声だった。子どもの声が、雨に洗われて、細く、裏返って、また高くなった。柳の影が横に伸び、その影の中で小さな影がよろめいた。泥の上に手をついたときの指の跡が、五本、細く、深く刻まれて残った。


忠成は半歩だけ前に出た。前足の母趾球で重さを受け、後足の踵は泥に沈めた。吐ききって、一拍、息を止める。次に吸う。鞘口の縁に添えた親指は動かさない。袖の香木へ指先を滑らせる。触れるだけで、胸の拍が落ち着く。触れることが合図になる。スイッチは触覚で確かになる。


草鞋の緒が、ぬらついた。指の腹で縄をつまみ、親指で送って、人差し指で摘み、中指で返す。摩擦が起きる。湿った縄でも、皮膚と繊維の間に熱が生まれる。短く、確かな熱だ。それが、雑念の行き先をひとつに束ねる。結わえてから、指を離す。軽くなる。吐き切った息の先に、その軽さがある。


縄を取る。濡れた麻は重い。水が繊維のあいだに居座って離れない。その重みが、手の中で頼りになる。結び目は逃がさない。道忍に習った結索の順番が、手の動きにそのまま現れる。


本線で環をつくる。立ち木側から端を通す。自分側で返して本線の外へ出す。端を引く。締め音がひとつ、堤の木杭に吸い込まれていく。「コツ」。音は乾いているのに、湿りを帯びていた。夜の底で鳴って、すぐに沈んだ。沈んだ音は、心の底へも落ちていく。落ちたところで、決まる。匂いを嗅ぐ。麻の青さに雨の鉄のにおいが混じって、鼻の奥に残る。触れる、嗅ぐ。結ぶ。三つの動きで心が同じ方向を向く。


環を子の腰に回し、余りを自分の手首へ軽く取る。強すぎない。逃がさない。荷重を前へ少し寄せ、余裕を拳一つぶん残す。息を吐き切る。


指が軽くなる。


抜かぬまま立つ。


また土俵の方へ身を向け直す。堤の切れ目に俵を積む番が来ていた。膝を四十五度。腰を据える。踏み締める。掛け声は短く、低い。言葉は三つで足りる。


据える。


持つ。


置く。


粗布の袋は肩に掛けるとすぐに痛みをよこす。その痛みで軸が通る。肩甲骨の間に一本、空気の道ができる。吸二、止一、吐三。吐の終わりで膝を伸ばし、次の者に滑らせる。泥が俵の下で座り、じわりと高さを保つ。その座りが、指の腹に伝わってくる。指先は冷たいが、内側は温い。温度の差で、やるべき角度を覚える。


作業のあいだじゅう、忠成は香木の欠片にときどき触れた。匂いは嗅がない。ただ触れる。触れるだけで、胸の中の糸がたるみすぎず、張りすぎず、ほどよい弾みを保つ。道忍は昔、触れるだけの効き目を笑いながら教えてくれた。匂いは時に溺れる、触れるは時に救う、と。


雨脚が少し強くなる。耳の端で音が一段重くなり、俵の布の目が濡れの度合いを増す。背を少し低くして風の面を減らす。視線を水平に戻す。堤の中央へ、一定の間で近づいてくる足音がある。水を踏む音は、乱れない。左右が同じ。ぱしゃ、ぱしゃ、と、同じ間で響く。


黒い蓑が闇から抜けた。男は堤の中央で止まり、背を真っすぐに伸ばす。踵はそろっている。忠成もまた半歩だけ前へ出る。鞘口に添えた親指は、そこから動かない。


軍律違反がある、と男は言った。言葉は雨に濡れても沈まない。よく通る。敵地に踏み入って、堤を勝手に高めた。律に照らせば、それは罰に当たる。


忠成は水平に見た。男の視線の高さに、自分の視線を合わせる。雨粒が視野の端を横切る。吐き切る。指が軽くなる。言葉は短い。


「恥なら受ける。だが、命は返せぬ。」


言い切る。約束する。背中の筋は揺れない。男の目がわずかに動き、また定まる。背の芯は折れない。川の低鳴りが、間を埋める。背後で子の足音が一度止まる。止まり、また小さく動く。泥がそれを覚える。


「子を渡さぬ。」


男はすぐには何も言わなかった。忠成も言わない。


沈黙が雨の中に畳まれた。沈黙は軽くないが、重すぎもしない。息を合わせるのにちょうどよい重さだ。


その沈黙に、別の足取りが混じった。老女が出た。濡れた布を頭にかぶり、肩は小さく震えている。皺は深く、頬の肉は薄い。声は濁って、腹から出ず、胸の上で擦れた。


「この子は、返さんでくれ。」


「返さない。」


忠成の掌に、老女の掌が重なった。老いの手は熱かった。雨の冷えと並べて持つと、温度差がはっきり分かる。熱は約束の温だ。握るのではない。受ける。受けて、保持する。掌のあいだに湯気のような息が滞り、すぐ冷えた。冷えたあとに残るのは、皮膚の表面に張りつく薄い温。そこに、心が定まる。


草鞋の緒がまた緩む。しゃがむ。膝角度四十五度。腰を据える。指腹で緒を押さえ、結び直す。もやいほどには固くしない。動く分だけの余裕を残す。結びの締めで、小さな音がする。コツ。土と水と麻のあいだを、音が一度、通り抜けていく。


「ここで持つ。」


老女は一度だけ頷いた。深い頷きだった。背筋が一瞬だけ伸び、また沈む。頷きで堤が固まったように見えたが、比喩はいらない。そう見えただけだ。堤は堤として座り続ける。


男は一歩前へ出た。鞘が雨を受けて鈍く光る。刀は見えない。見せない。彼は杭の前で止まり、鞘の背で一度、木に触れた。打つとはいえない。打てば音は立つ。触れたのに、音は立った。「コツ」。乾いた、けれど湿りを含む音。局地の合図だと、その場にいる者の体が先に理解する。約束は言葉にも似ているが、言葉より先に体が知ることがある。


息が、一斉に止まった。止まり、すぐに整って、雨の音に戻る。


「抜かずに立った背に、嘘はない。」


男はそれだけを言った。忠成は頷かない。頷く代わりに、五度の目礼で返す。礼は合間に置くものだ。戻しはゆっくり。彼は袖から短冊を取り出した。油紙で庇い、縁にゆっくりと記す。筆は使わない。刃の背で、浅く刻む。雨に滲む。それでも骨は残る。


義は人に。


勇は己に。


礼は合間に。


声に出すわけではない。胸の内で、ひとつずつ置く。置いたものを、雨が濡らし、余白がその隙を埋める。朗誦は外ではなく、内で行う。書付は薄く、しかし消えない。


作業は続く。土俵は最後のひと積みに入った。掛け声は増やさない。低く、短く。足裏の重心は前へ、膝を四十五度で止めて、踏む。俵の面が泥に触れ、沈み、止まる。その止まりが、堤の命になる。比喩は不要だ。沈んで、止まった。止まったものは、そこにある。


誰も歓声を上げない。上げないと決めている。勝ちは長くするものだと、道忍は言った。節度は勝ちを長くする。勝ちは、声ではなく、間で保つ。


夜は薄くなりかけている。上流の闇に、早い流れを縁取る白が生まれた。川霧が堤の面に低くかかる。冷えが強くなる。香木の欠片は湿りを増し、匂いはなお温い。袖口の中で、忠成はそれに指で触れた。匂いは嗅がない。触れるだけで十分だ。スイッチは最後まで同じ効きである。


「礼を受ける。」


忠成は短く言う。男は頷かず、少しだけ顎を引いた。背は真っすぐのまま、踵をそろえて向きを変えた。足音は来たときと同じ間で遠ざかる。ぱしゃ、ぱしゃ。雨の音にすぐ紛れて、しかし耳はしばらくその等間を記憶する。


忠成はふたたび短冊を胸に当てた。声は出さない。心で唱える。


義は人に。


勇は己に。


礼は合間に。


吐き切る。指が軽くなる。抜かぬまま立つ。背を通して堤の面へそのまま伝える。伝えたものは、たしかに受け手を選ばず、空気の圧に変わる。俵の列にいた男たちの肩が、同時にひと段落ちた。それでも誰も笑わない。誰も泣かない。息がそろうだけだ。


沈黙が堤の上に薄く敷かれた。薄いが、足が取られないほどには確かだ。雨の細かさが変わる。火照っていた掌は、冷えを取り戻す。老女の手は、いつの間にか袖の中へ戻っていた。子の呼吸は浅かったのが、少し深くなる。鼻の奥で小さな音が鳴り、止む。止んだあと、静けさは残る。


道忍の声は、回想を装って現れた。装って、と言ったのは、言葉が思い出ではなく、今の手の動きから立ち上がったからだ。香木を親指で送り、人差し指で摘み、中指で返す。指がその順番を守ると、声が現れる。


——死を済ませて、生きよ。


——済ませた死の上でしか、手加減は見えぬ。


——生きるとは、抜かずに立つ間合いを守ること。


忠成は俯角五度で自分の足跡を見た。泥の中に、草鞋の菱目が均等に並んでいる。並びの均等は、心の均等でもある。背の筋がもう一度、一本に集まった。肩甲骨の間に、透き通った空気が細く通る。


雨脚が弱まる。音が少し軽くなる。川の低鳴りは続くが、胸骨に刺さらない。残るだけだ。残る音が、その夜の基準になっていく。


忠成は背で合図した。列が解ける。草鞋の音が、堤を離れて、畦道へ散っていく。等間と不等間が混じり合い、すぐに田の水の音にまじって見分けがつかなくなる。誰かが振り返ったが、口は開かない。開かなくてよい。目だけで、互いの背筋に礼を送る。目礼は五度。戻しはゆっくり。


改める勇で終える、と忠成は胸の内で言った。言って、何かを改めたわけではない。改める覚悟の輪郭を、今の体の中に置いただけだ。輪郭はすぐに消えるが、消えたところが残る。雨は細くなり、川霧が薄く流れていく。湿った香木の匂いが、雨の鉄とまじり、遠ざかる背中の列の後ろを静かに追いかけた。


胸骨に、夜の川音が低く残った。その残りが、これからの朝の基準になる。忠成は鞘口から指を離し、袖の中の香木へ、もう一度だけ触れた。触れる。嗅がない。結び直すものはない。息を吐き切る。指が軽くなる。抜かぬまま、立つ。

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