第6話 翠玉院
その晩は宿で休み、二人は翌日から、本格的に聞き込み調査に乗り出した。
黄色の袍服や栄寧の腰から下げられた短剣は、二人が中央の任務で動いていることを周囲に示してくれる。したがって楊花は、色々聞き出すのにそんなに苦労することもないだろうとふんでいたわけだが……。
結論、こと翠玉院内での調査に関しては、その予想は間違っていたと言わざるを得なかった。
「見ろ、あちらはもしかして、白栄寧様ではないか?」
「本当だ。なぜあのお方がここに?」
「お前、先に行って挨拶してこいよ」
「無理だって。お前が行け」
「俺だって無理だよ。そんな怖――恐れ多い……」
「やあこんにちは。もしかして僕の話をしているのかな?」
「「「ひっ!!!」」」
栄寧がひらっと右手を挙げて近寄ると、ひそひそと噂話をしていた学生三人が大きく肩を跳ねさせて目を見開いた。
碧海到着から二日後の昼過ぎ、翠玉院中庭での出来事である。
「調査のために聞き込みをしているんだ。このあたりで何か変な噂を……」
「残念ながら我々は白様のお役に立てるような人間ではございませぬ! 失礼いたします!」
「あ、ちょっと」
追いすがる間もなく、学生たちは頭を下げて走り去ってしまった。これぞまさに「脱兎のごとく」である。
栄寧は眉をハの字にしてその背を見つめ、「あー」と情けないうめき声をもらした。
「なんでかなあ。ちょっと聞きたいだけなのに」
「お前はいったい何をやったんだ。だいぶ怯えられてないか?」
昨日からの相変わらずの状況に、楊花はじっとりとした目で栄寧を見つめて肩をすくめる。
「だから、三年前にここの職員の汚職があって、それの調査で一回来たきりなんだって」
「じゃあ絶対、その時になんかやらかしただろ」
三年前、ちょうど楊花が視察官に誘われたあの時期、栄寧は碧海での別の任務もこなしていたらしい。
それが金で入学試験の結果に便宜を図っていた教官の事実確認と連行だったことまでは聞き出したのだが、なにせ昨日から、声をかける生徒全員があんな調子だ。「僕は普通に任務をこなしただけ」と本人は言い張るけれど、それ以上の出来事が、三年前の翠玉院で繰り広げられたに決まっている。
「だいたいお前の『普通』は普通じゃないんだよ。普通の中身を言ってみろ」
「えー」
栄寧は小さく唇を尖らせつつ、渋々と言った様子で語り始めた。
「事実確認に関してはまあ、無難に。周辺人物の聞き込みと尾行、あとは本人の家に忍び込んだりとかして……捕まえる時は確かに、少し派手っちゃ派手だったかもだけど」
――逃げられると面倒だから、大講堂での創立記念の式に乗り込んで告発したんだ。そしたらあっちが近くにいた学生を人質にとってきてさあ。なんか半端に武道の心得があったから、僕の方も応戦しないわけにいかなくて。それでうっかり、ザクっとね。
「……なにをだ? お前はなにをザクっとやったんだ?」
「首?」
「首……」
「あ、もちろん学生じゃなくて汚職教官の首だよ? そんなに深くやってないからちゃんと生きてるし。だけど血がすごい出てさあ」
「それだろ。それ以外の何事でもないだろお前が怯えられてる理由は」
楊花はげっそりとした顔でため息をつき、頭を抱えた。
翠玉院には碧海中の優秀な学生が通っている。創立記念の式典となれば、その一同が会して皇帝と国を讃える一大行事だ。
そんな場で剣を振り回して流血沙汰を起こしたのだから、温室育ちが多い学生たちが怯えて語り継ぐのは当然のことである。ある事ない事尾鰭がついて、汚職教官は死んだことになっている可能性も否定しきれない。
「お前はほんと、昔っから無茶なやつだったんだな。俺たちみたいなのの任務ってのは普通、目立ちすぎないことが基本だろ」
「でも咎められたことはないよ?」
「それはもう、兎項皇子がお前に甘すぎるんだよ……」
栄寧は皇子を「苦手」だと言うが、皇子の方は栄寧にかなり気を許しているように見える。栄寧の宮中での自由気ままな振る舞いも、兎項皇子の後ろ立てゆえだと思えば大方納得がいく。
「前々から聞きたかったんだが、お前はいつから――」
「待って、楊花」
唐突に遮られて、楊花は一度言葉を切った。唇の前で右の人さし指を立てた栄寧が、身を低くしてじっと耳を澄ませる。
「物音がする。人が殴られる音だ」
「はあ?」
物騒な証言を残して、栄寧は中庭を西から東へと突っ切った。目指しているのは東側の一角、薬草の研究用に残された森のあたりらしい。
中庭の端から端までは、ゆうに二十尺はある。もちろん楊花にはなんの物音も聞こえなかったわけだが、栄寧に続いて歩いていくと、やがて森に面した納屋の裏から年若い男児の笑い声が響いてきた。四、五人いる様子で、猿のようなはしゃいだ声に混ざって、拳が肉を撃つ鈍い音が聞こえてくる。
「なんだ、いじめか? 俺たちがすれ違った学生は皆、人畜無害で大人しそうなやつばっかりだったのに」
「そりゃお偉方の前では、こういう人間ほど猫かぶるに決まってんでしょ。大人とおんなじ」
栄寧が目で合図を寄越してきたので、楊花は軽くうなずき返す。
次の瞬間には、栄寧は音もなく駆け出して、横長の納屋の向こう側からよく通る声で呼びかけていた。
「誇り高き翠玉院の生徒がいじめとは何事か。諸君、今すぐそこに整列して名乗りなさい」
楊花は反対側の物陰からこっそり納屋の裏の暗がりを覗いた。するとやはり、四人の生徒が寄ってたかって誰かを囲んでおり、栄寧の声を聞くやいなや「しまった」といった雰囲気で動きを止めた。
生徒たちは十五、六歳に見えた。一瞬仲間内で目配せをし合い、栄寧のひょろっとした体躯を見て逃げ切れると判断したのか、指示に従うことなくこちらに向かって走り始める。
「……なんていうか、こうも単純な馬鹿ばっかりだと、この国の行く末が思いやられるよな」
楊花は思わずつぶやいてため息をつき、物陰から飛び出して先頭の一人に体当たりした。そのまま二人目を巻き込んで地面に倒れ込み、鳩尾と背中に一発ずつ入れて気絶させる。
たじろいだ三人目は驚きのあまり、足をもつれさせて自分で転んでいた。あわあわと唇を戦慄かせて謝罪しようとしていたが、構わずに蹴り上げて地面に転がし、こちらも背中に一発。
あと一人――と顔を上げた時には、にこにこと笑った栄寧が大柄な男子学生を肩に担いでこちらに歩いてくるところだった。
男子生徒は完全に伸びており、頬にはしっかりと拳のあとが残っている。直観だが、歯が何本か折れている気がする。
「やりすぎじゃないか?」
「え? 僕に逆らうってことは兎項皇子に逆らうってことだよ? 命があるだけ感謝してもらわないと。それに君だって、見事に三人のしてるじゃない」
「……縄がないからな」
楊花は肩をすくめて応じた。拘束具がない以上、万が一にも逃げられないためには、気絶させるしか方法がなかった。
「こいつらどうする?」
「まあ無難に学長室でいいんじゃない」
「俺は二人が限界だが」
「じゃあ僕がもう一人担ぐよ」
さすがに一番小さいのでいいよね? と首を傾げた後、栄寧は空いている肩にもう一人、一番小柄な生徒を担ぎ上げた。
楊花は残りの二人を担ぎ、北側の学長室を目指して納屋の陰を出る。
「あ、あの……!」
なにか忘れてる気がする、と思いながら中庭を歩き始めた時だった。
震える声で背後から呼び止められて、楊花と栄寧は同時に振り返った。
「助けていただいてほんとに、ありがとうございました!」
がばりと頭を下げたのは、一人の男子学生だ。
彼が顔を上げると、その頬は殴られたせいで赤黒く腫れていた。まなじりの垂れた双眸は紅く輝き、ふわりとした癖っ毛は雪のように白い。
……兎返りか。
彼の境遇をなんとなく察してしまい、楊花はなんとも言えない気持ちでうつむいた。
「ぼく、
泰舜の上衣の襟元はよれ、裾は履跡や土埃で汚れていた。どこからどう見ても満身創痍といった出立ちだ。それでも紅い瞳だけを爛々と輝かせて、泰舜はずいぶんと熱心にまくし立てる。
「だから今日、あなたのカッコいいお姿を見て元気が出ました! やっぱりこの国は、試験にさえ合格すれば、見た目なんて関係なく役人になって、世間のお役に立てるんですね!」
鼻息荒く言い切った泰舜を見て、楊花と栄寧は顔を見合わせた。その後すぐに栄寧が「ぷはっ」と吹き出し、担いだいじめっ子ごと肩を揺らして愉快そうに笑う。
「よかったね楊花。ずいぶんと尊敬されてるみたいだよ」
栄寧があんまり笑うものだから、泰舜はかえって不安そうな表情で楊花を見上げてきた。楊花は小さくため息をつき、いじめっ子を担いだままのそのそ歩いて、泰舜の目の前に立つ。
「いいか李泰舜。俺は文官だ」
「え」
視察官の仕事がない時は、楊花は文官として帳簿の整理や式典の準備に奔走している。いくら見た目が武官寄りだからといって、嘘をつくわけにはいかない。
「とはいえ文官だろうと、武官だろうと、兎返りだけを理由に優秀な人材を切り捨てるなんてことはしない。だから君は安心して学問と鍛錬に励みなさい。ただし、なった後は厳しいぞ。兎返りはただでさえ目立つ。だからこそ常に、誰からも文句をつけられないくらい優秀でいなくちゃいけない」
それは、兎返りの容姿をもつ楊花が、常日頃から感じている緊張感そのものだった。幼い頃はいずれ武官になる身として、碧海へ逃げてからは料理人として、再び宮中へ戻ってからは文官として。少しでも下手な真似をすれば、劣っていれば、瞬く間に悪い評判が広がってしまう。「目立つ」とはそういうことだ。
強くなれよ、と付け加えると、泰舜は大きくうなずいて顔の前で両手を重ね、頭を下げた。
「ありがとうございます……あの」
「なんだ」
「お礼にぼくの家にお招きしたら、ご迷惑でしょうか。さほど大きくない屋敷ですが、父が外つ国との貿易の仕事をしておりますので、珍しい調度品をお見せできるかも。もちろん無理にとは言いません。実際にはぼくが、もう少しお二人のお仕事の話を聞きたいだけですので」
今日会ったばかりの役人を自宅に招くとは、泰舜は大人しそうに見えて、なかなかに度胸のある少年のようだ。もしくは単に、世間知らずなのか。
いずれにせよ楊花や栄寧のような身分の者が突然押しかけたら、家の者は困惑するだろう。
そう判断して、楊花が断ろうと口を開きかけた時だった。
いつの間にかすぐ横に立っていた栄寧が突然口を開いたので、楊花は肩に担いだいじめっ子をうっかり落としそうになった。
「それはとても嬉しい誘いだね。君自身の話も、たくさん聞かせてもらえたりするのかな?」
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