第八章 100年越しの空 ― 未来が見せた光景 ―
庭の木々を揺らす風が、初夏の匂いを運んでいた。
白瀬紗菜は、離れの軒下からそっと顔を出した。
縁側に座る桐生遼は、まだ歩き慣れぬ足を摩りながら、庭の空を見上げている。
「……遼さん」
その声に、遼は振り返った。
表情は落ち着いているが、その目の奥には、まだどこか“戦の影”が残っていた。
紗菜は深呼吸した。
胸の奥が、今日だけは強く脈打っている。
「……ここにいるの、危ないかもしれません」
遼の眉がわずかに動く。
「昨日から、AIパトロールドローンのルートが変わったんです。
離れの上を……さっきも二度、通りました。」
遼は静かに息を吸い込んだ。
「……軍は“わからないもの”ほど恐れる。
俺は、まさにその“わからない存在”なんだろうな」
紗菜は首を振った。
「違うよ。
遼さんは……未来を信じた人なんだから。」
その声が震えていることに、紗菜自身が一番驚いた。
「……だから、外に出ましょう。
ここ以外に、きっと安全な場所があります」
遼はしばらく黙って紗菜を見つめ――そして、ゆっくり頷いた。
「……わかった。任せる」
紗菜は小さく息をつき、玄関の端末を操作してレンタル輸送カートを呼び出した。
家の前に、低い振動音を立てて白いカートが滑り込んできた。
無人のAI走行車。ドアが静かに開く。
遼はその光景を見て、目を見開いた。
「……人が……乗っていない……?」
「うん、自動運転。
今は、こんな車ばっかり」
遼は信じられないというように車体を触り、
わずかに震える声で言った。
「……未来だな……」
紗菜は胸の奥が痛くなるような、温かくなるような不思議な感情を覚えながら、
遼を車内へと案内した。
座席が柔らかく沈み、
車は静かに住宅街を抜けて走り出した。
遼は窓に張りつくように外を見ていた。
舗装された道路の上に人影がない。
すべての車が滑るように音もなく進む。
歩道では、半透明のホログラム広告がふわりと浮かび、
AIドローンがパトロールルートを光で描いている。
紗菜が言った。
「ほら、あれ……エアレーンっていうの。
空の“道”」
見上げた遼の目が、さらに大きく見開かれた。
空に光の筋が走っていた。
糸のように整列し、その上を小さな空中機が静かに行き交っている。
「……空を……走ってる……」
「うん。
昔よりずっと安全に飛べるようになったんだよ」
遼は息を呑み、
そのまま、言葉を失ってしまった。
その横顔は――
100年という時の重さを初めて実感した人の横顔だった。
AIカートが停止する。
紗菜は遼を連れ、近くの公園へ向かった。
広場の奥に――
白い石碑が立っていた。
〈戦没者追悼記念碑〉
その文字の下には、
「この国の空を守った人々へ」と刻まれている。
遼は、何かに引き寄せられるように歩み寄った。
「……ここは……」
紗菜は静かに言った。
「戦争を知る人がいなくなっても、
“忘れないため”に作られた場所だよ」
遼の指が石碑に触れた。
震えていた。
「……守れなかったと思っていた。
だが……」
彼は空を見上げた。
そこには、青すぎるほどの青が広がっていた。
100年前、仲間と共に守ろうとした――あの空だった。
遼の目に涙が溜まり、ひと筋だけこぼれた。
「……未来は……生きていたんだな」
紗菜は横で静かに微笑んだ。
「守ってくれた人がいたから、今があるんだよ」
紗菜は気づいていない。
公園の出入口に設置されたAI防犯ホログラムが、
遼の顔をスキャンしたことを。
【照合開始:歴史人物データベース】
【類似度計測中……】
薄い光だけが、一瞬石碑に反射した。
夕方。
車に揺られながら、遼は窓の外を眺めていた。
「……紗菜。
今日は……ありがとう。
俺は、この時代を……嫌いじゃない」
紗菜はどきりとした。
「そ、そんな……
私は何も……」
「君がいなければ、
俺はこの青い空を見ることもなかった」
未来の風が、窓から吹き込む。
その言葉だけで、紗菜の胸は熱くなった。
夜。防衛省の一室で
パソコンの画面に文字が走る。
【照合データ:類似度 96%】
【対象:桐生遼(1945年戦死扱い)】
【ステータス:要調査】
職員が息を呑んだ。
「……まさか、本当に……?」
画面の端に映るのは、
紗菜と遼が並んで歩く姿だった。
――物語は、静かに、しかし確実に動き出す。
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