第15話:軍師、時の流れを止める
午前六時。
手術室の前の廊下で、僕は、一人、椅子に座っていた。
時計の針が、カチ、カチと、規則正しく時を刻んでいる。
だが、僕には、その音が、まるで太鼓のように、大きく響いて聞こえた。
「手術は、三時間の予定です」
医師の言葉が、頭の中で、何度も繰り返される。
三時間。
千八百年を生きた僕にとって、三時間など、瞬きのようなものだった。
だが、今、この三時間が、永遠のように感じられる。
午前六時三十分
廊下の窓から、朝日が差し込んできた。
光が、床に、長い影を作る。
僕は、ふと、千八百年前の朝を思い出していた。
五丈原で迎えた、最後の朝。
あの時も、こんな風に、光と影が交錯していた。
だが、あの時の僕は、死を恐れていなかった。
天下統一という大義のために死ぬことを、むしろ誇りに思っていた。
今は、違う。
サクラという、たった一人の人間を失うことが、どの戦場よりも恐ろしい。
愛とは、こんなにも人を弱くするものなのか?
それとも、強くするものなのか?
午前七時
看護師が、コーヒーを持ってきてくれた。
「ご家族の方ですか?」
「恋人です」
「そうですか。大丈夫ですよ。先生は、とても腕の良い方ですから」
僕は、コーヒーカップを両手で包み込んだ。
温かい。
サクラの手のように、温かい。
「看護師さん」
「はい?」
「人は、なぜ、愛するのでしょうか?」
看護師は、少し驚いたような顔をして、それから、優しく微笑んだ。
「難しい質問ですね。でも……愛するから、生きていけるんじゃないでしょうか?」
「愛するから、生きていける……」
「ええ。愛する人がいるから、明日が楽しみになる。愛する人がいるから、今日を大切にできる」
看護師が去った後、僕は、その言葉を反芻していた。
愛するから、生きていける。
愛するから、時間が意味を持つ。
愛するから、永遠が、今この瞬間に宿る。
午前八時
手術が始まった。
「手術室」という赤いランプが点灯する。
僕は、目を閉じた。
そして、サクラとの思い出を、一つ一つ、丁寧に辿っていった。
初めて出会った日。
彼女が、僕のコーヒーを、優しく拭いてくれた日。
二人で渋谷を歩いた日。
彼女が、僕に告白してくれた日。
僕が、彼女に愛を告げた日。
一つ一つの記憶が、宝石のように輝いている。
千八百年の記憶の中で、最も美しい、たった数ヶ月の記憶。
時間とは、長さではない。
深さなのだ。
午前九時
廊下に、足音が響いた。
振り返ると、田村健太と中島さんが、心配そうな顔で立っていた。
「孔明さん、大丈夫ですか?」
「どうして、ここに?」
「サクラさんのことを聞いて……。何か、僕たちにできることはありませんか?」
僕は、深く感動した。
彼らは、僕たちに何かをしてもらったお礼に来たのではない。
ただ、心配だから、来てくれたのだ。
「ありがとう。でも、今は、ただ、待つしかない」
「じゃあ、一緒に待ちます」
中島さんが、僕の隣に座った。
田村も、向かいの椅子に座る。
「孔明さん」
田村が、静かに言った。
「僕、サクラさんに会えて、本当に良かったです。あの人がいなかったら、僕たち、出会えなかった」
「そうね」
中島さんが頷いた。
「サクラさんって、人と人を繋げる天才よね。きっと、大丈夫」
僕は、二人の言葉に、心が温かくなった。
サクラは、確かに、人と人を繋げる天才だった。
そして、今、その繋がりが、僕を支えてくれている。
午前十時
山本さんと田村雄一も、やってきた。
気がつくと、廊下は、小さなコミュニティになっていた。
「みんな……」
僕は、言葉に詰まった。
「当たり前よ」
山本さんが、きっぱりと言った。
「サクラさんには、お世話になったもの。今度は、私たちが恩返しする番」
「そうです」
田村雄一が頷いた。
「孔明さんとサクラさんがいなかったら、僕たち、こうして知り合うこともなかった」
僕は、改めて気づいた。
僕たちが始めた「心の対話カフェ」は、単なるカウンセリングの場ではなかった。
人と人が、本当の意味で繋がる場所だったのだ。
そして、その繋がりは、今、僕を支えてくれている。
午前十一時
「ご家族の方」
医師の声に、僕は飛び上がった。
手術室のドアが開き、医師が出てきた。
「手術は、成功しました」
その瞬間、世界が、色を取り戻した。
廊下の蛍光灯が、まぶしく輝いて見える。
みんなの顔が、安堵の笑顔に包まれる。
「ありがとうございます……」
僕は、深く頭を下げた。
「腫瘍は、完全に摘出できました。良性でした。一週間ほどで退院できるでしょう」
僕は、その場に崩れ落ちそうになった。
田村健太が、僕の肩を支えてくれる。
「良かった……本当に、良かった……」
午後二時
サクラが、病室で目を覚ました。
まだ麻酔の影響で、ぼんやりとしているが、確かに、いつものサクラだった。
「孔明さん……」
「ここにいる」
「手術……成功した?」
「ああ。完璧に成功した」
サクラは、安堵の涙を流した。
「良かった……みんなに、心配かけちゃった」
「みんな、廊下で待っていてくれた」
「え?」
「田村殿たちも、山本さんも、みんな」
サクラの目に、驚きと感動の光が宿った。
「本当に?」
「ああ。汝が繋いでくれた人たちが、今度は、我々を支えてくれた」
夕方
病室に、みんなが顔を出してくれた。
サクラは、まだベッドから起き上がれなかったが、その笑顔は、いつも以上に輝いていた。
「ありがとう、みんな」
「何言ってるの。当然よ」
中島さんが、サクラの手を握った。
「それより、サクラさん」
田村健太が、照れながら言った。
「僕たち、付き合うことになりました」
「え!」
サクラが、目を丸くした。
「本当に? やったー!」
病室に、笑い声が響いた。
生と死の境界線で味わった恐怖が、嘘のように消えていく。
「孔明さん」
サクラが、僕の手を握った。
「私、気づいたの」
「何を?」
「時間って、長さじゃないのね。深さなのね」
僕は、驚いた。
それは、まさに、僕が手術室の前で気づいたことだった。
「汝も、そう思うか?」
「うん。今日の数時間で、私、すごくたくさんのことを感じた。みんなの愛とか、孔明さんの愛とか、生きてることの奇跡とか」
サクラは、僕の目を見つめた。
「これからは、一瞬一瞬を、もっと大切に生きたい」
「ああ。我も、同じことを考えていた」
その夜
病院の屋上で、僕は、再び星空を見上げていた。
昨夜と同じ星々が、静かに瞬いている。
だが、今夜の星は、昨夜とは全く違って見えた。
より美しく、より温かく、より身近に感じられた。
「孔明さん」
振り返ると、サクラが、車椅子に座って、看護師に押されてやってきた。
「起きていて、大丈夫なのか?」
「ちょっとだけ。星が見たくて」
僕は、サクラの隣に座った。
二人で、静かに星空を見上げる。
「綺麗ね」
「ああ」
「千八百年前も、こんな風に星を見てた?」
「見ていた。だが、今夜ほど美しく見えたことは、なかった」
「どうして?」
「汝がいるからだ」
サクラは、僕の手を握った。
「私も。孔明さんがいるから、全てが美しく見える」
その時、僕は、ついに理解した。
愛とは、時間を止める魔法ではない。
愛とは、時間を永遠に変える魔法なのだ。
この瞬間が、永遠に続けばいいと思う。
だが、この瞬間が過ぎ去るからこそ、永遠の価値を持つのだ。
「サクラ」
「何?」
「我々は、これからも、人々の心に寄り添っていこう」
「うん」
「だが、今度は、もっと大切なことを伝えよう」
「どんなこと?」
「今、この瞬間を、愛することの大切さを」
サクラは、微笑んだ。
「素敵ね。『今を愛する』カフェ」
「ああ。それが、我々の新しい使命だ」
星空の下で、僕たちは、新しい誓いを立てた。
過去でも未来でもない。
今、この瞬間を、精一杯愛すること。
そして、その愛を、一人でも多くの人と分かち合うこと。
時は流れる。
だが、愛は、その流れの中に、永遠の瞬間を創り出す。
僕たちの物語は、まだ始まったばかりだった。
(第15話 終わり。次話へ続く。)
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