第2話
一年前、ロジーナは世界で最も幸せな女だった。
少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
幼い頃父の勧めで身につけた薬草と錬金術の知識を活かし、薬草師として自立し細々と生計を立てていた。
この日も、乾燥した薬草を市場に卸すため、薬包紙に包んでいた。
日が暮れた頃、小屋の扉がどんどんと叩かれた。
ロジーナが小走りで駆け寄ると、扉の向こうには、大柄で金髪が印象的な、純朴を形にした青年が一人。
大きな猟銃と数匹の獲物を抱え、目を輝かせながら立っていた。
「ロジー、今日の得物だ。
大量だぞ」
同棲する恋人のグスタフは、腕のいい猟師だった。
毎日日の出とともに狩りに出かけ、空が赤くなる頃に得物を持って帰ってくる。
彼の獲る動物は皆一級品で、よく肥え太り毛並みがいいものばかりだった。
「まあ、綺麗な兎が三匹も! 今日はご馳走ね。
いつもありがとう」
「いいって。俺はただ捕ってきているだけだ。
処理はロジーばかりだろう。
僕にはできないよ。
すぐに毛皮をダメにしてしまう」
「こういうのは適材適所というでしょう。任せて」
彼が持って帰ってきた得物を裁き、毛皮や料理にするのがロジーナの役目だった。
彼女の一族は皆代々狩人の職を受け継ぎ、数え年一五になると弓矢を与えられ狩りをする決まり事があった。
だが生まれつき魔力も体も強くなかったロジーナは狩りを許されず、代わりに得物の裁き方や毛皮の加工方法、薬草の知識を身に付けることになった。
怪我によく効く軟膏の作り方や、毒薬の精製まで。
彼女の知識量は幅広い。
かつては科学者養成施設として名高い、プロイセン王国立アルケミストアカデミーにて入学を望まれていたほどだ。
彼らは一見、仲睦まじいごく普通の夫婦だが、二人は式を挙げることも、籍を入れることもできていない。グスタフが獣の病の罹患者であるせいだ。
獣の病。それは魔術と引き換えに、強力な能力を有する先天性の病。
彼らのもつ能力の多くは人間に対し害を与えるものばかりで、有史以来迫害の対象となることが多かった。
グスタフも例に漏れず魔術を行使できない。
代わりに動物並の五感を得ており、その力が彼を最高の狩人として完成させていた。
薬草師のロジーナ、狩人のグスタフ。
二人はある日、運命的な出会いを果たし、駆け落ち同然に家を飛び出して現在に至る。
ロジーナは心から彼を愛し、グスタフもまた、ロジーナを大切にしていた。
だが、幸せな日々は長く続かず、突然終わりを告げた。
ある日、ロジーナがなめした毛皮を街へ売りに行った帰り。
小屋の近くで違和感に包まれた。
妙に静かだったのだ。鳥の歌も獣の鳴き声も聞こえない。
さらさらと木々を抜ける木枯らしだけが寂しく駆け抜けている。
「……」
本能的に恐怖を感じた。
生まれてからずっと、森に親しんで生きてきたロジーナの直感が警鐘を鳴らしている。
一刻も早く、この場所から立ち去るべきだ、と本能が言う。
グスタフ……!
それでもロジーナの理性は愛する恋人を見捨てることができなかった。
食料の入ったバスケットを投げ捨て、小屋の扉を押し開ける。
途端に、きつい血の臭いと、目を疑う惨状が飛び込んできた。
「あら。貴方だぁれ」
部屋の中心に、見知らぬ女が立っていた。
背丈はロジーナよりも少し高く、細い腰に豊かな髪。
同性でも魅力的だと感じる、美しい女だ。
「何、しているの……」
けろりとした顔で血濡れる女の足下には、愛する恋人が横たわっていた。
腹部を刺され、流れ出た血液が絨毯を真っ赤に染め上げている。
その時、ロジーナは直感した。
装幀師だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます