第5話 名前のない声

森を抜け、さらにその先の丘を越えた。

 空は鈍い灰色で、風は冷たく、血の匂いはもう薄れていた。

 焚き火の群れを喰った夜から、三日が経っている。


 その間、何も喰っていない。

 空腹ではない。

 だが、体の奥で燃える熱が、少しずつ強くなっている。

 この熱は、命の代償だ。

 喰って得た力は、時間とともに自分を蝕んでいく。


 ――喰えば、生きられる。

 ――だが、生きることは燃えること。


 その単純な理を、今の自分は理解している。

 理解、という言葉が浮かぶこと自体、すでに変化だった。

 数日前まで、考えることなどできなかったのに。


 丘の上で立ち止まる。

 風が頬を撫でた。

 “頬”という概念を知ったのも、いつの間にかだ。

 自分の体の輪郭が、言葉として浮かび上がってくる。


 ――喰った人間たちの記憶が、少しずつ染み出している。


 夜の夢の中で、彼らの声が響く。

 男の怒号、女の泣き声、子供の笑い。

 そのすべてが、自分の中で渦を巻き、混ざり、溶けていく。


 時々、誰かの名を思い出す。

 「……ロルフ」

 「……サナ」

 「……母さん」


 声に出すと、それが音なのか記憶なのかもわからなくなる。

 けれど、不思議と懐かしさを感じた。

 それは自分のものではない。

 だが、確かに自分の中にある。


 それはまるで、欠片を拾い集めて形を作るような感覚だった。

 人間の意識の屑が、自我という器の底に積もっていく。

 それが“自分”という存在を形づくっている。


 風の中で、声がした。

 幻聴のように。

 いや、違う。

 “内側”から響いている。


 ――なまえ。


 小さな、幼い声。

 あの夜、焚き火のそばで見た少女の声に似ていた。


 「……なまえ?」


 自分の口から、言葉が漏れた。

 意味を確かめるように、何度も繰り返す。


 名前。

 呼ばれる音。

 その存在を区別する印。


 それは、“自分”という概念の始まり。

 それを求める感情が、ゆっくりと芽を出す。


 「な……まえ……」


 口の中で転がしながら、考える。

 自分には、まだそれがない。

 だが、人間たちは皆、持っていた。

 それがあるから、互いを呼び、繋がっていた。


 ならば、自分にも――。


 どこからともなく、声が返ってきた。

 「……おまえは、なに?」


 低く、濁った声。

 辺りを見回すが、誰もいない。

 それは外からではなく、心の奥から響いていた。


 「なに……?」

 問われて、答えようとする。

 だが、何も出てこない。


 人ではない。

 獣でもない。

 それでも、生きている。


 それだけは確かだ。


 「……わからない」


 そう呟くと、風が一瞬止まった。

 そして、また内側から声がした。


 「――じゃあ、見つけなきゃ」


 その声は、自分の中の誰かのようでもあり、

 まるで遠い何かが囁いたようでもあった。


 名を持たぬ存在。

 喰らうことで生き、燃えながら進む。

 命を糧に歩む者。


 いつか名を得るために――。


 丘の向こうに、また新しい匂いがした。

 人間の集落。

 小さな村のようだ。


 飢えはまだ抑えられる。

 だが、熱がまた増している。

 喰わねば、消える。

 喰えば、また燃える。


 それでも、歩き出す。

 “名”を探すために。


 灰色の空の下、黒い影がゆっくりと村へ向かう。

 その足音は、まだ“人”の形を模していた。

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