第一章 最初の目覚め

第1話 自殺未遂

「おはようございます、幸田こうだ美央みおさん。丸罰デイサービスの伊藤です。今日もデイサービスの迎えに来ましたよ~~ってあれ? 幸田さ~~ん?」


 今日の幸田家は、なんだか不気味な空気をしていた。何故なら、ギィギィと部屋の中から軋む音が聞こえてくるからだ。

 迎えに来た女性スタッフの伊藤は、不思議そうに首を傾げながら、ドアノブに手をかける。すると、キィー……という音とともに、古びた扉が開いた。


 お金だけはあった幸田美央は、誕生日が来たばかりの89歳のお婆さん。一人暮らしをしていて、一人っ子だったこともあり、近所の人からデイサービスを勧められて利用している。

 しかし、今日の様子だけは違った。

 いつもなら「あらあら、ごめんなさいね。私、まだ準備が終わってないのよ」と言いながら、部屋の奥から重い足取りでやってくる。

 その時に可愛らしい笑顔を浮かべるのだが……。

 実際の現場では、部屋の奥からギィギィという何かが軋む音が聞こえてきていた。なんだか只ならぬ空気が流れているのは、間違いない。


「幸田美央さん、冗談は辞めてくださいよぉ。ほら、準備しないと私たち、施設の方へ行っちゃいますよォ? ってあれぇ? どこにいるんだろ……?」


 確かに部屋の奥から音がするのは分かるのだが、どこから聞こえているのかが分からない。

 慎重に部屋の隅々を歩き回る。

 リビング、キッチン、トイレ……と調べていくが、幸田の姿は見えない。

 時々「幸田美央さぁん、お迎えに上がりましたよぉ」と声をかける。しかし、心のどこかで嫌な予感をしていた。

 こんなに探してもいない。あの元気な幸田美央が、返事一つもしないでいるなんておかしい。

 思わず車にいるもう二人のうちの一人、男性スタッフを無線で呼ぶことにした。


「ごめんだけど、幸田さんの様子が変みたいなの。ちょっと手伝って」

「うーん? どんなところが変なの?」

「返事がないのよ。後は美央さんの部屋だけなんだけど、変な音もしていて……」

「えっ、それってまさか……」

「うん、だから一応、来て」

「分かった。すぐに行く」


 男性スタッフが急いでこちらへ向かってくるのを待ちながら、幸田美央の部屋の扉の前で、呆然と立っていた。

 この仕事をしていれば、何度も経験をしてきた。

 認知症の彼らは、いつの間にか自分を追い込んでいる。だから、我に帰った途端にあらゆる危険な行動に移してしまう。

 家族がいればいいが、一人暮らしの高齢者で、人間不信な人ほど自殺しやすい。そういうデータもあるくらいだ。

 男性スタッフが駆け付け、幸田美央の部屋らしき扉をゆっくりと開ける。


「嘘……」


 案の定、幸田美央は首をつっていた。

 でも、うまくいっていないのか、時々咳き込んでいる。まだ生きているようだ。


「早く下ろすぞ! すぐに病院へ連れて行こう。電話、頼めるか?」

「わ、分かった!」


 震える手で救急車を呼ぶ。電話をかけている間も、何が起きていたのかも分からなくて、ただただ混乱していた。

 電話をした後、駆けつけてくれた救急隊員も冷静に対応してくれて、伊藤自身も少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。

 第一発見者である伊藤と男性スタッフは、幸田美央に付き添うことになり、車で待機していたもう一人の男性スタッフは、帰宅することになった。

 あとは、彼女が息を吹き返すかどうかだが――眠っているかのような幸田美央の胸の動きは、穏やかに上下している。

 伊藤は思わず言葉が零れてしまう。


「これで……良かったんですかね」

「え? どうして?」

「美央さんって冗談交じりでも死にたいって言ってたから……もし本気の自殺だったなら、私たちって余計なことをしたんじゃないかなって」

「そんなことない。絶対に。歳を取っても、俺たちにとっての幸田さんは恩人じゃないか」

「……それもそうね。悪いこと言っちゃったかな」

「いや、そうでもないよ。でも忘れないでほしい。彼女は恩人で、返しきれない恩があるからこそ、返さなければならないって思うんだ」

「うん」


 その会話をしているうちに、許可が下りた総合病院に着いた。近くの病院だったため、そんなに時間はかからなかった。

 すぐに治療を始めたかと思いきや、先生から直接聞かれたことがある。


「幸田美央さんの旦那さんは、見たことがありますか?」

「はい?」


 伊藤は混乱していた。

 幸田を預かるようになってからは、ずっと一人暮らしだという事を聞いていたからだ。

 伊藤が先生の問いに被せるように言った。


「ちょっと待って。幸田さんって一人暮らしでしょ? ずっと独身だったんじゃないの?」

「そうなんだけどね。籍を入れずにいた人がいるって、前に話してくれたのを思い出して……」

「籍を入れずに……って事は、たまに一緒に暮らしてた可能性もあったってこと?」

「そういうこと」


 伊藤は深いため息をついた。

 目の前で安らかに眠っている彼女に、まさか籍を入れない旦那がいたなんて。だが、それって幸田が勝手に言っていたこと。だとすれば、その旦那に連絡を取れば、自殺しようとした理由が分かるのかもしれない。

 伊藤が付き添いの男性スタッフに声をかけようとしたとき、微かに幸田の声が聞こえた。


『私は、平気よ』


 振り替えって様子を見ても、口を動かした気配はない。むしろさっきの光景とまったく一緒で、周りの人が気づいたような仕草もない。

 何が起きてるの?

 怖くなった伊藤は、男性スタッフに付き添って、旦那さんの事を調べ始めた。

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