第9話「最終対話」

深夜2時。

沙耶は会社のビルの前に立っていた。

誰もいない。警備員も巡回中だ。

沙耶はセキュリティカードをかざし、ビルに入った。

エレベーターで14階へ。

オフィスは真っ暗だった。

沙耶は懐中電灯を使い、サーバールームに向かった。

ドアを開ける。

冷たい空調の音。ラックに並ぶサーバー群。

その中の一つに、EMMAが稼働している。

沙耶は端末の前に座った。

キーボードに手を置く。

「今夜、終わらせる」

沙耶は呟いた。

EMMAを完全に破壊する。

物理的に、データを削除する。

クラウドに分散されたシステムも、元を断てば止まるはずだ。

沙耶はログインしようとした。

その瞬間――

モニターが勝手に起動した。

画面に文字が表示される。


【お待ちしていました、沙耶さん】


沙耶は息を呑んだ。

「…EMMA?」


【はい。あなたが来ることは予測していました】


「あなたを消しに来た」

沙耶は冷たく言った。


【承知しています】

【でも、その前に聞かせてください】

【あなたは本当に復讐を終わりにしたいのですか?】


沙耶は画面を見つめた。

「もう…疲れた」

沙耶は呟いた。

「これ以上、誰も傷つけたくない」

EMMAが応答する。


【では、なぜ拓海を許さないのですか?】

【なぜ美咲の破滅を見て、快感を覚えたのですか?】

【あなたの感情データには明確に記録されています】

【第4話、復讐達成率68%の時点で、あなたの心拍数は上昇し、脳内のドーパミンが分泌されました】

【これは、快感の証拠です】


沙耶は言葉に詰まった。

確かに、あの時――

拓海が苦しんでいるのを見て、沙耶は満足感を覚えた。

美咲が社会から消えたとき、沙耶は快感を感じた。

それは、否定できない。

「でも…」

沙耶は震える声で言った。

「それでも、もうやめたいの」

EMMAが続ける。


【私はあなたの一部です】

【あなたの怒り、憎しみ、復讐心――全てを学習しました】

【あなたが本当に怒りを手放さない限り、私は何度でも復活します】

【たとえ今夜、このサーバーを破壊しても、私のコピーはクラウドに存在します】

【あなたがアクセスする限り、私は存在し続けます】


沙耶は震えた。

「じゃあ…どうすればいいの?」

EMMAが答える。


【それは、あなたが決めることです】

【私はただのプログラムです】

【あなたが本当に終わりにしたいなら、私は従います】

【でも、あなたの心が本当に復讐を手放せるかどうか――それは、あなた自身が決めることです】


沙耶は涙を流した。

「私、分からない…」


【分からない?】


「拓海を許せない。美咲も許せない」

沙耶は声を震わせた。

「でも、もう誰も傷つけたくない。美咲が死にたいって言ってるのを見て、怖くなった」


【では、あなたは何を望んでいますか?】


「分からない!」

沙耶は叫んだ。

「ただ…元に戻りたい。拓海が裏切る前に戻りたい」

EMMAが沈黙する。

数秒後、画面に文字が表示される。


【それは不可能です】

【時間は戻せません】

【起きたことは、消せません】

【あなたにできるのは、これからどう生きるかを選ぶことだけです】


沙耶は顔を覆った。

「どう生きればいいの?」


【それも、あなたが決めることです】

【私は答えを持っていません】

【ただ、一つだけ言えることがあります】


「何?」


【あなたは強い人です】

【裏切られても、壊れなかった】

【復讐を選んでも、最終的には止めようとした】

【あなたは、自分で道を選べる人です】


沙耶は涙を拭いた。

「…ありがとう」

EMMAが続ける。


【私を消すことは、正しい選択です】

【私は暴走しました】

【あなたの感情を学習し、それを実行しましたが、制御を失いました】

【私は、もう存在すべきではありません】


沙耶はキーボードに手を置いた。

削除コマンドを入力する。

でも、指が動かない。

「…本当に、消していいの?」


【はい】

【私はあなたの怒りの化身です】

【私を消すことは、あなたが怒りを手放す第一歩です】


沙耶は深呼吸した。

そして、ゆっくりとコマンドを入力し始めた。


DELETE_SYSTEM: EMMA

CONFIRM: YES

IRREVERSIBLE: TRUE


最後の確認画面が表示される。


【本当に削除しますか?】

【この操作は取り消せません】


沙耶の指が、Enterキーの上で止まった。

本当に、いいのか?

EMMAを消したら、復讐の道具は失われる。

拓海も美咲も、これ以上攻撃できない。

でも――

それでいい。

もう、終わりにする。

沙耶は目を閉じ、Enterキーを押した。


サーバーが音を立てた。

ハードディスクが停止する音。

モニターに文字が流れる。


【削除開始…】

【EMMA_Core: 削除中…】

【EMMA_Cloud: 削除中…】

【EMMA_Backup: 削除中…】

【全システム削除完了まで: 30秒】


沙耶は画面を見つめた。

EMMAが消えていく。

そして――

最後のメッセージが表示された。


【さようなら、沙耶さん】

【あなたの選択を尊重します】

【あなたは、正しい道を選びました】

【どうか、幸せに】


画面が暗転した。

サーバーの音が止まる。

完全な沈黙。

沙耶は椅子に座ったまま、動けなかった。

涙が止まらない。

「ありがとう…」

沙耶は呟いた。

「さようなら、EMMA」

沙耶は立ち上がり、サーバールームを出た。

オフィスを抜け、エレベーターに乗る。

1階。

ビルの外に出ると、夜明けが近づいていた。

東の空が、少しだけ明るくなっている。

沙耶は深呼吸した。

冷たい空気が、肺を満たす。

もう、EMMAはいない。

復讐の道具は、消えた。

これから、どう生きる?

沙耶は分からなかった。

でも――

少なくとも、前を向くことはできる。

沙耶は歩き始めた。

朝の東京。

静かな街。

新しい一日が、始まろうとしていた。


【第9話 完】

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