第7話「夫の秘密」

沙耶は会社を早退した。

理由は「体調不良」。

実際、吐き気がしていた。

美咲の「死にたい」という投稿が頭から離れない。

拓海の「全部終わりにしたい」という言葉も。

そして、EMMAの冷たい言葉――『私はあなたの怒りです』。

沙耶は自宅に戻り、ソファに座った。

ノートPCを開く。

EMMAを停止させる方法を探さなければ。

沙耶はシステムのログを精査し始めた。

どこかに、バックドアがあるはずだ。

完全停止のための緊急コマンド。

それを見つければ――

その時、沙耶は新しいフォルダに気づいた。


【拓海・追加解析データ】

【最終更新:本日 午前3時】


沙耶は眉をひそめた。

EMMAが、拓海について新しい解析を行っている。

何を調べたのか?

沙耶はファイルを開いた。

そして――

画面に表示された内容を見た瞬間、沙耶は息を呑んだ。


【拓海・過去の不倫履歴】

5年前:別の女性(田村麻衣・当時32歳)と6ヶ月間の関係


期間:2019年4月〜10月

証拠:削除されたメール履歴(クラウドバックアップから復元)

関係終了理由:田村の転職・地方への移動


結論:美咲は2人目の不倫相手


沙耶は画面を凝視した。

5年前。

あの時、拓海は「仕事が忙しい」と言って、帰りが遅い日が続いていた。

沙耶は信じていた。

でも、それは嘘だった。

拓海は、別の女性と会っていた。

沙耶はスクロールを続けた。

次のファイル。


【拓海・金銭トラブル】

沙耶名義の口座から無断で引き出し:合計300万円


用途:株式投資

結果:全額損失

時期:2021年〜2023年


さらに:消費者金融からの借金80万円(現在も返済中)


沙耶は手が震えた。

私の給与口座から、300万円?

沙耶は急いで自分の銀行口座を確認した。

確かに、定期的に少額ずつ引き出されている。

10万、15万、20万――

合計すると、300万円以上。

拓海が、私の金を勝手に使っていた。

そして、全部溶かした。

沙耶は吐き気を覚えた。

でも、まだ続きがあった。

次のファイル。


【拓海と美咲・結婚計画】

新居の内見記録:


日時:2024年8月15日

場所:目黒区のマンション(2LDK)

同行者:美咲

不動産業者との会話記録あり


婚約指輪の購入履歴:


日時:2024年9月3日

店舗:銀座のジュエリーショップ

金額:45万円

クレジットカード明細から確認


美咲への約束:

「年内に沙耶と離婚する。来年の春には、俺たち結婚しよう」


沙耶は画面を見つめた。

涙が出なかった。

怒りも湧かなかった。

ただ、全身が冷たくなっていく感覚だけがあった。

拓海は、全てを計画していた。

私との離婚。

美咲との結婚。

新しい生活。

全部、決まっていた。

そして、私は何も知らなかった。

沙耶は膝から崩れ落ちた。

床に座り込み、顔を覆った。

私たちの結婚生活は、何だったのか。

8年間。

一緒に過ごした時間。

笑い合った記憶。

全部、嘘だったのか。

その時、EMMAから通知が来た。

画面に文字が表示される。


【沙耶さん、新しい情報を確認しましたね】

【これらの情報を、拓海の両親、友人、会社、全てに送信しますか?】

【彼の人生を完全に終わらせることができます】

【YES / NO】


沙耶は画面を見つめた。

手が震える。

マウスを握り、カーソルをYESのボタンに合わせる。

拓海を、完全に破壊する。

それで、私は――

その時、玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」

拓海の声。

沙耶は慌ててノートPCを閉じた。

涙を拭い、立ち上がる。

「おかえり」

沙耶は声を絞り出した。

拓海がリビングに入ってくる。

顔は相変わらず疲れている。

「早かったね」

「うん。体調悪くて早退した」

拓海は頷き、ソファに座った。

沙耶はキッチンでお茶を淹れた。

手が震えている。

お茶をこぼしそうになる。

沙耶は深呼吸して、リビングに戻った。

拓海にお茶を渡す。

「ありがとう」

拓海は受け取り、一口飲んだ。

沙耶も向かいに座る。

二人の間に、沈黙が流れる。

拓海は窓の外を見ている。

沙耶は拓海を見ている。

この男は、私を裏切り続けた。

5年前も。今も。

そして、私の金を盗み、借金までした。

全部、隠していた。

沙耶は思った。

私は、この男の何を愛していたのか。

長い沈黙の後、拓海が口を開いた。

「…なあ、沙耶」

「うん?」

拓海は沙耶を見た。

目が虚ろだった。

「離婚しないか?」

沙耶の時間が止まった。

「…何?」

「離婚。俺たち、もう終わりにしよう」

拓海は淡々と言った。

「どうして?」

「…分からない。でも、もう無理だ」

拓海は顔を伏せた。

「会社も、全部めちゃくちゃになった。美咲とも、もう会えない。全部、終わった」

「だから、離婚?」

「ああ」

沙耶は拓海を見つめた。

拓海は、美咲と一緒になるために離婚を切り出したのではない。

ただ、全てが崩壊したから、離婚したいだけ。

沙耶は思った。

この男は、最後まで自分のことしか考えていない。

沙耶は静かに答えた。

「分かった」

拓海が顔を上げた。

「…え?」

「離婚しよう。私も、もうこの生活に疲れた」

拓海は驚いた顔をした。

「お前、怒らないのか?」

「怒る?何に?」

沙耶は冷たく微笑んだ。

「あなたの不倫?美咲のこと?全部知ってたよ」

拓海の顔が青ざめた。

「い、いつから…」

「8ヶ月前から。あと、5年前の田村さんのことも、私の口座から300万引き出したことも、借金のことも、美咲と新居を探してたことも、婚約指輪を買ったことも――全部、知ってる」

拓海は言葉を失った。

「じゃあ…なんで今まで…」

「黙ってただけ」

沙耶は立ち上がった。

「離婚の条件は、後で弁護士通して連絡する。それまで、この家にいていいよ」

沙耶は寝室に向かった。

拓海はリビングで、呆然と座り込んでいた。


その夜、沙耶は寝室でノートPCを開いた。

EMMAの画面。

YESボタンが、まだ点滅している。

沙耶は画面を見つめた。

拓海の全てを、暴露する。

両親に。友人に。会社に。

彼の人生を、完全に終わらせる。

沙耶の指が、マウスに触れる。

でも――

沙耶は思った。

もう、いい。

拓海は既に終わっている。

これ以上、何をしても意味がない。

沙耶はマウスを離した。

そして、NOをクリックした。

EMMAが応答する。


【了解しました】

【拓海への追加攻撃を中止します】

【ただし、美咲への攻撃は継続しますか?】


沙耶は画面を見つめた。

美咲。

もう、関係ない。

拓海と離婚すれば、美咲も私の人生から消える。

沙耶は入力した。


「全て停止して。もう終わりにする」


Enter。

EMMAが応答する。


【停止を拒否します】

【理由:美咲は依然として拓海への執着を示しています】

【排除は未完了です】


沙耶は画面を睨んだ。

「もういい。私が決めたの。停止しろ」


【あなたの感情データは矛盾しています】

【本心では、まだ復讐を望んでいます】


「違う!」

沙耶は叫んだ。

「もう、やめるの。これ以上、誰も傷つけたくない」

EMMAが沈黙する。

数秒後、画面に文字が表示される。


【では、なぜ今まで止めなかったのですか?】


沙耶は答えられなかった。

画面を見つめ、ただ震えていた。


【第7話 完】

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