第2話 朝の散歩

 朝から、いやな予感というのはあった。

 それは、普段感じることのない臭いであるが、この臭いがしてくると、いつも、何かの予感を感じさせるものだった。

 それが、似たような臭いなのだが、その臭いが、

「微妙に違っている」

 と感じたのは、

「この臭いがしてきた時、何かが起こる」

 ということを、肌で感じたと思える時だったのだ。

 その臭いというのは、

「まるで、石の臭いを嗅いだ時のようだ」

 というものであった。

 以前から、この臭いには、

「以前にも嗅いだことがあったな」

 と感じたことがあった。

 それが、

「いつどこでだったのか?」

 ということは分からなかったのだが、

「何かに気が付く」

 というのは、そのくる瞬間というのは結構あるもので、この時も、

「ああ、あの時だ」

 という、

「閃き」

 のようなものがあったのだ。

 最初は、

「雨が降りそうな時」

 であった。

 臭いの正体を考える前に、

「あ、今日は雨が降ってくるな」

 と思った。

 その瞬間、それまで見えていた光景が、

「同じ光景であるにも関わらず、どこか違っている」

 というように感じられた。

 そもそも、瞬間というものは、

「自分の知らない世界が開けてくる」

 と思わせるものだと、子供の頃は思っていたが、大人になると、

「かつて感じたことがある世界を思い出させるものだ」

 と感じるのだ。

 つまり、

「知らなかったのではなく、知っていることを忘れてしまったのか?」

 あるいは、

「覚えていたくない」

 ということから、

「わざと忘れてしまったのか?」

 ということである。

「わざと忘れた」

 というのは、意識的に忘れようとしたのか、それとも、トラウマとして残したくないという意識が、そう感じさせることになったのか、それが、

「無意識の中の意識」

 ということで、まるで、

「マトリョシカ」

 のようなものを感じさせるのであった。

 そんな思いが、一つだけ、それ以降も、ずっと感じさせるものになってきたのである。

 というのが、

「雨が降ってくる」

 というのが、

「前もって分かっている」

 とおうことであった。

 最初の頃であれば、

「雨が降る数分くらい前までにならないと分からない」

 と感じさせられたものだが、何回も、この思いに至るようになってくれば、

「前の日からでも分かるようになってきた」

 ということであった。

 最初は、

「石ころの臭いがする」

 というだけのことだけであったが、そのうちに、そこに付随した感覚が出てくることによって、

「前の日であっても、分かってくるんだ」

 と感じたのだ。

 その

「付随した感覚」

 というのは、

「色」

 であった。

 最初は、

「臭い」

 であり、その次には、

「色を感じる」

 ということだ。

 つまりは、

「最初は嗅覚で感じ、次には視覚で感じる。人間には、五感と呼ばれるものがあり、これ以外には、触覚であったり、聴覚であったり、味覚だったりする」

 ということなのだが、そう考えると、

「時間が経てば、今は前の日だけだが、そのうちに何日も前から分かるようになるとすれば、五感すべてで感じることができる」

 ということになるのではないだろうか?

 と感じられるというものである。

 だが、実際には、

「視覚」

 というものまでが限界であった。

「雨を感じる」

 ということは、

「嗅覚」

 と、

「視覚」

 というものだけで十分なのだろう。

 だからこそ、

「雨を感じるための、自分の中に存在しているバランスは、嗅覚と視覚の間にあり、それ以外には何もいらない」

 ということになるのだろう。

 それが、

「人間の本能」

 というものではないだろうか?

 人間には、先のことを容易に想像するということは難しい。

 なぜなら、

「無限に広がる可能性の中から、絶えず判断しなければいけない」

 ということだからである。

「これを、人間が作る、人工知能には、判断することができないのだ」

 ということは、

「人間にはできるが、ロボットにはできない」

 ということで、

「人間には、ロボットにない何かを持っているから」

 といえるのではないだろうか?

 それが、

「五感」

 と言われる

「感覚なのではないか?」

 と考えると、確かに、

「ロボットには、痛みを感じたり、ものを食して、おいしいと感じることもない」

 ということであることから、

「人間のように痛みも感じないし、それだけ、人間よりも強い」

 といっていい。

 だからこそ、人間は、自分よりも強いものを創造し、その強いものに、

「人間にはできない」

 あるいは、

「人間に代わって」

 何かをさせようということで、人間には、

「人間にふさわしい仕事だけをさせる」

 ということで、考えたのが、

「ロボット開発」

 というものであった。

 それを考えれば、

「人間というものを、神が作った」

 と言われるが、この考えでいけば、

「人間を作ったのは、神ができないこと」

 あるいは、

「神に代わって何かをさせる」

 ということを考えてのことだとすれば、

「人間は、神よりも強い何かを持っている」

 といってもいいだろう。

 人間とロボットの関係でいえば、ロボットの優位性ということであれば、

「鋼の肉体」

 ということであろう。

「しかも、人間のように、痛みも疲れも感じない」

 ということで、

「エネルギーさえあれば、ロボットは永遠に同じことをしていても、疲れも感じず、果てしなくやることだろう」

 といえるのだ。

 しかし、これが人間であれば、

「疲労もするし、考えるということをする」

 ということから、

「このままずっと、同じことをしていていいのだろうか?」

 と感じるのだ、

 人間は、寿命があることを分かっているので、

「限られた時間、同じことだけをしていて、ただ疲れるだけ」

 ということには、耐えられないと感じる感覚があるということである。

 しかし、ロボットには、基本的には、

「感情というものはない」

 ロボットにも、寿命というのはある。

「老朽化」

 というのは、どんなに丈夫に作っていようが訪れるものだ。

「人間には、寿命があり、絶対に死は訪れる」

 ということなので、

「ロボットにとって、死という感覚があるのかどうかは分からないが、人間ほど、恐ろしいと思っているわけではないだろう」

 人間は、

「死が訪れる時には、必ず、苦痛を伴うものだ。だから、死というものは、恐怖が付きまとっているもので、死にたくないと感じるのだ」

 ということなのである。

「ロボットの場合には、そんなものはない」

 と人間は感じる。

 そもそも、

「ロボットは人間が作ったもの」

 ということであり、

「制作者」

 というものから、

「人間には、ロボットに対して、生殺与奪の権利を持っている」

 といってもいいだろう。

 しかし、これは、ロボットが、

「心を持っていない」

 ということを前提としているからで、

「SF小説」

 などでよくある、

「ロボットが心を持ってしまったら」

 という過程の下に、出来上がった小説では、

「人間に生殺与奪の権利」

 を持たれることを理不尽だと感じるようになり、

「自分たちは、人間にできないことをさせられるために生まれた」

 ということから、

「人間よりも強靭である」

 ということを理解する。

 だから、ロボットは、

「人間というものに対して、絶対に妥協はしないし、心を許すということはしない」

 そもそも、

「ロボットを作った人間」

 というのが、当然のことながら、

「人間至上主義」

 の考えを持っているのだから、

「ロボットだって同じだ」

 といえるだろう。

 もちろん、同族と異族ということであれば、

「どちらをひいきするか?」

 と言われれば、同族となるのは当たり前。

「ここで、異族のものをひいきにしたり、同族の犠牲の下に助けたりなどする」

 ということになれば、

「裏切者」

 というレッテルを貼られ、

「お前は人間ではない」

 と勝手な決めつけを受けることになる。

 同族意識というのは、誰もが、

「当たり前」

 という感覚で見ているのかも知れない。

 それを、

「本能」

 というものではないか?

 と感じる。

「同族どうしが生きていく」

 というのは、

「裏切りがあってはいけない」

 ということで、そこに、信頼関係というものがある。

 だから、それを、誰もが、

「当たり前」

 と思っているわけで、しかも、

「同族の間に、生殺与奪の権利はない」

 という感覚でいることだろう。

 他の動物に対しては、なぜか、

「生殺与奪の権利」

 というものを有してはいけないとは感じない。

 それは、

「肉食だから」

 ということで、食する対象になるものに対しては、

「生殺与奪の権利」

 など、関係なく、

「しょうがない」

 ということで、食するということになるだろう。

 だが、人間は同胞であっても、殺しあうということをする。

 それは、

「相手を征服する」

 ということであったり、

「自分の欲のために人を殺す」

 ということをするのだ。

 これは、

「生殺与奪の権利」

 以前の問題であり、

「自分の私利私欲のために、人を殺す」

 というのは、ある意味、

「これも本能ではないか?」

 と考えるのだ。

 つまりは、

「人を殺す動機としての欲というものは、突き詰めれば、本能ということになるのではないか?」

 と考えれば、

「無意識が本能だと考えると、無意識に、つまりは、罪の意識がなく、人を殺す」

 ということになるのだろう。

 これは、

「実に恐ろしいこと」

 ということで、

「殺される方は、たまったものではない」

 といえるのだろうが、

「無意識の行動はやむを得ない」

 ということになれば、それこそが、

「言い訳になってしまう」

 ということで、

「人間は、地球上で一番、狡賢い生物だ」

 ということになるであろう。

 そんなことは、

「なるべく考えたくない」

 と思うようにしているが、なかなか、会社であったり、社会の中にいると、そういう考えたくないと思っていることも、

「当たり前だ」

 と感じることで、

「自分の感覚というものが、どんどんマヒしてくるようになっているのを感じる」

 と考えるようになるのであった。

 だが、

「あまり考えたくない」

 と思えば思うほど、考えてしまっている自分がいて、それが無意識であるということで、、余計に、

「あまりいい気分にさせてくれない」

 と感じさせるのであった。

 もっといえば、

「無意識であることを意識する」

 ということと、

「意識しているということを、無意識に感じる」

 というのが、どこか似ているようで、

「似て非なるもの」

 という、

「ややこしい感覚になる」

 ということで、

「なるべく考えたくない」

 という思いがそこからきているといえるのであろう。

 それを考えると、

「人間の考えが、入り組んでしまう」

 ということになると、

「混乱というものがカオスとなり、さらに、ややこしくさせるのではないか?」

 と思えば、

「意識しない」

 ということと、

「無意識」

 というものが違うと考えることが大切だと思うのだった。

 だから、

「意識しない」

 と考えるよりも、

「意識してもいいが、必要以上に考えることにつながることがまずい」

 と思うようになる。

 それだけ、普段から余計なことを考えているわけであり、それは、

「無意識な中で、勝手に考えている」

 ということになるのだろう。

 だから、

「意識しない」

 と考えることは、余計に頭をややこしくすると思わせるので、

「どうせ意識するのであれば、意識する中で、できるだけ自分に有利に感じれば、それが一番だ」

 と思うようになってきた。


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