善
彼は「ありがとう、もう大丈夫よ」といわれるまで食器を洗った。
そのあとで、女は「すごい、とっても奇麗に洗ってくれたのね!」と大声を上げた。彼は虹彩の黄色な双眸でその様子を見た。果たして、自分は彼女にとって
彼は建物の外へ出た。なにか女の声がしたが、不要で無害なものであった。
外には膨大な情報が転がっている。彼はその
彼はどうやらこの近くには仕事を果たす機会がないと判断すると、
次第しだいに人間の数が減り、声が減り音が減り、建築物が減って植物が増えた。
なにか声がした。キンとする高い声がある程度続いて響いた。彼は足を止めて、声の聞こえた方角を正確に把握しようとした。すると声がもう一度響いたので、はっきりと聞こえた方へ向かった。
木の間を進んでいき、腹のあたりまである草を搔き分け出ていくと、女がいた。女の歪んだ顔つきの先にはなにか大きなものが見えた。むろん
女は歪めた顔を彼に向けた。「助けて!……あの化け物を、どこかへやって!……」
彼は頷いた。で、足元の枝を拾った。幹から割合近くの枝のようだった。小枝なんてものではまるでなく、それだからといって持てないほど大きなものでもない。要は振り回すのに都合のいいものなわけである。——いや、実際にそうしようとするとちょっと勝手が悪い。彼の手には
彼はさっと女の前に立って、珍妙な生き物と対峙した。女は背後でどさりと
彼は目の前の珍妙な生物に彼女を攻撃させなければいいと考えた。併しすぐに、ただ追っ払っただけのこの珍妙な生物が、のちになってべつな者を攻撃する場合に思考が及ぶと、ちょっと判断が下せなくなった。
珍妙な生物の巨大な爪が彼の腕を裂いた。肉體が異常を伝えながら出血した。彼は次に飛んできた激しく動く腕に、枝を突き当てて下へ叩きつけた。
殺傷は善行とは距離がある。が、この生物の活動を停止させれば、今後この女のような者がいないようになる。
一とつの殺傷それじたいと、一とつの殺傷によって保障されるいくつかの将来。
——彼は数の多い方を優先した。
重たい枝は使い勝手がよくない。振ろうとしている間に攻撃を受ける。肉體がその都度異常を伝えながら出血する。
彼の中に、そうした肉體の反応に対する快か不快かという感覚は生じない。
肉體が宙を舞った。彼はその間に體勢を整えて、草の生えた地面を踏んだ。枝を摑む手に一層の力を込めて、珍妙な生物を見る。彼は生き物がどのような動きをするかとか、そういうことについては疎かった。つまりはこうした荒々しい場面には向かない性質なのである。
彼は生物の方へ突進した。彼の手のひらほどもある爪が彼の服を摘み上げた。巨大な口が粘ついた液を垂らして開かれる。そして摘み上げられた體がその口元へ寄せられたので、枝を両手で振り上げてその鼻のあたりへ叩きつけた。
彼は爪に投げ飛ばされた。着地はうまくいかずに転がって、木の根元へ體をぶっつけた。肉體が神経を通じて異常を訴える。
彼が起き上がったとき、珍妙な生き物はどこかへ向かって歩いていた。彼はむろん、それを追うべく足を動かした。が、後ろからそれを封じられた。
「もう、いいです。あなたが危ない!」
彼は女を振り払った。背後でどさりと音がした。
もう一度動きを封じられた。
「お願い!」——その声が最初に聞いたキンとした声と似ているのを知ると、彼は女を振り返った。女の虹彩が紫色をした眼は濡れているらしかった。
女は首を振った。「わたしはもう、大丈夫です。だからもう、危険なことはしないでください!……もちろん、わたしがあんなふうに縋ったせいだとはわかっています、でももう、あの化け物はいません。追う必要も、ありません」
彼は判断した。女は彼の膚が裂け、出血することを
彼が
「ひどい傷です、手当てをしないと!……」
彼が言葉の意味を測っているうちに、女は彼の手を摑んだ。それですたすた歩いていく。彼は、その手を振り解けば女が厭がるのが予測されたから、そのままでくっついていった。
女は自分が住んでいるらしい家に彼を連れ込んで、あれこれとなにか細かいものを持ってきては彼の傷をいじった。肉體が異常を訴え、彼は腕を引っ込めた。
「我慢して。消毒をしなくちゃいけないでしょう?」
女の、見てわかるところに攻撃しようという気配はないが、彼は座らされた椅子から腰をあげた。
「だめよ、外へいってはだめ。さあ戻って、傷を奇麗にさせてちょうだい」
彼は女の顔を観察した。このまま外へ出れば泣き出すつもりであるような顔をしている。
「お願い」と掠れた声に小さくいわれた。
他に認識した善行のきっかけとなるものもない。今できる善行は、この女から泣く理由をとりあげることだった。
彼は椅子に戻った。
女はひどい世話焼きだった。彼の肉體が彼に対して異常を訴えているのを知っているように、「傷を早く治すためよ」とか「もう少し我慢して」とか説明しながら彼の傷をなにか薄い布でぐるぐる巻きにすると、その次にはなにやら食い物を出してきた。
「さあ、食べて。わたし助けてもらったんですもの、お礼がしたいわ」
高さのある木板に並べられたものはどれも生命の維持に必要なものであった。
「スープと一緒でも、ジャムをつけてでも、好きなようにどうぞ」
彼は肉體の動くままテーブルに並べられたものを取り込んだ。それらは舌と鼻に情報を与えたが、肉體はおよそ関心というものを起こさず、生命をつなぐためにのみ、提供された活動力の素を取り込んだ。
動きを止めた肉體は少ししてから、飲み込んだ空気を吐き出した。
その始終を見ていた女は小さく笑った。「とても、いい食べっぷりね」
彼は女の笑いかたを、これまでに見てきたものと
女は「いいえ」と首を振った。「いいのよ、食べてもらえてよかった」
女はまったく珍妙なほどの世話焼きだった。彼は女の用意した寝具で休息をとることになった。彼は女を観察して、女に彼を放すつもりがないものと判断すると、女のいうとおりにした。女の与えたものの上に體を横たえ、女の与えたものを上にかけた。それで目を閉じた。
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