月の想いは夏の日から
4月16日日曜日。
とあるテニスコートのフェンスの外。
観客が座るためのベンチではなく、
木の陰にシートを敷いて二人は座っている。
前話の逢瀬の最後のセリフ通り、
和泉と逢瀬は月詠の調査をするために
わざわざサングラスにマスクという
典型的な変装までして
ここに足を運んでいた。
月詠が十六夜をストーキングする理由を
少しでも推測して、
集めた証拠と共に月詠を呼び出す。
そして、止めるように説得する。
さながら探偵のようなやり方だが、
和泉もこうする他に
手段を考えることができなかった。
「いやしかし…本当に上手いわね。」
現在、和泉が見ているコートには
ボールを追う二人の女性がいる。
言うまでもないが、片方は月詠だ。
珊瑚色の桃髪と純白のユニフォームが
実にマッチしたその姿は、
まるでテニスコートを駆ける妖精。
若さ故に惜しげも無く披露されている
白く太く長い足にも
じんわりと汗が滲んでおり、
興奮という名の漢のロマンを
これでもかと掻き立てている。
しかし、相手方の女性も負けてはいない。
20代もそろそろ折り返しかと
思われる年齢の彼女は、
仕事終わりにサッとテニスを
かじっているだけの新人のようだ。
サーブもストロークも球威が弱く、
しかも月詠の放つボールに
全くついていけていない。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。
年相応に肌を隠してはいるが、
時々チラリと見える太ももは
素晴らしい完成度をしている。
普段から綺麗に手入れをしているのが
手に取るように分かり、
大きく弾む胸からは
熟しかけの体にムチを打って
それを保っているのが分かる。
そして、それが素晴らしいものであると、
聡明な方には伝わるはずだ。
「逢瀬君…何をしにここに来たのか、
覚えてない訳ではないわよね…?」
この世界が産んだ
素晴らしい光景を逢瀬が眺めていると、
横から諭すように和泉に言われた。
健全な男子高校生であれば、
これだけの誘惑を前に
何も見ないという選択肢はないのだろう。
「もちろん覚えているさ。
テニスをする女の子を見に来たんだ。」
「その言葉が冗談であることを、
私は心の底から祈ってるわ……。」
呆れたような和泉の表情に
逢瀬は少しだけ興奮していたが、
それを無視して和泉は視線を月詠に向けた。
我が烏城高校のテニス部は
全国大会出場の実績があるが、
そのテニス部のレギュラー達を
全員倒したとされる月詠は
相当な実力の持ち主だと思っていた。
事実として、今行われている試合は
月詠の一方的な攻撃となっていた。
相手の女性は為す術なく、
30分もしない間に試合が終わる。
その後、お互いに笑顔で握手を交わして、
結果の報告をしに行った。
スコアは0-3でさすがの結果だなと
思うところではあるが、
和泉はどこか引っかかっていた。
あれやこれやと考えを巡らせるが、
様々な可能性が多すぎるために
まだ結論を出すことができないでいた。
「和泉さん、お腹空かない?」
他にもいくつかの試合を見ながら
頭を回転させていると、
大きな包みを持った逢瀬が
にこやかな笑顔で言ってきた。
テニスコートの外にある時計台で
現在の時間を確認すると、
もうすぐ1時に針が届きそうだった。
「そうね。今日は早起きだったし、
そろそろ何か食べたい頃合いだわ。」
和泉がそう答えるが早いか、
逢瀬はシートの上に包みを広げていた。
ベンチがあるにも関わず、
わざわざシートを敷いていた理由に
和泉はこのタイミングで気づいた。
しかし、シートのことなど
どうでもよくなるくらいに
驚愕するべき事態になっていた。
「これ全部……あなた一人で作ったの?」
全部で3段ある重箱には
食べ物が隙間なく詰められており、
種類も優に10品目は超えていた。
お弁当のおかずの筆頭である
唐揚げや玉子焼き、
タコさんウィンナーの他には
鰹節を振りかけた数の子や
時間のかかるであろう里芋の煮っころがし、
一番下には段いっぱいのちらし寿司、
そして、おそらくはデザート用であろう
桃と柏餅という、
縁起が良い時に食べるような
立派な重箱がそこにあった。
「うん…。そんな日じゃないのに
今日はなんだか気合いが入っちゃってさ。
ほら、前に和泉さん俺に言ったでしょ?
あなたは料理できるのかって。
だからビックリさせようと思って
いつもより丁寧に作ったんだ。
どう?すごいでしょう?」
そう言って自慢げに胸を張り、
逢瀬はエッヘンと息を吐く。
その時の事を覚えていた和泉は、
家事ができる男性は好かれやすいらしい、
というだけの内容だったということを
指摘しようと思ったが飲み込んだ。
それに、事実として和泉は驚いたし、
ここまでの料理を作ることは
素直にすごいと思う。
ただ、それを正直に口に出すことが
逢瀬にとってどんな意味になるのかを
考えた和泉は、マスクを外し、
箸を手に持って高飛車のように鼻を高くする。
「まぁ、確かに見た目はいいけど、
大事なのは味だから。」
そして、和泉は玉子焼きに箸を伸ばした。
玉子焼きは甘い派の和泉の舌に、
逢瀬の玉子焼きは応えてくれるのか。
もし応えてくれたなら、
素直に褒めてやることにしよう。
だが、そうでない時は、
その味を好きになるために
全て平らげてみせよう。
「どう……?」
玉子焼きを口に放り込んで、
ゆっくりと箸だけを抜く。
口に入れた瞬間に、
いや正確には箸で掴んだ時に、
甘い玉子焼きであることに気づいていた。
逢瀬ほどではないにしても
多少の料理をする和泉は、
しょっぱい玉子焼きよりも
甘い玉子焼きの方がフワフワとした
柔らかい食感になると知っていた。
だが、口に入れた瞬間に
鼻から抜ける甘い匂いが広がるのを
堪能する気になれなかった。
十分な咀嚼をしないままに飲み込んで、
すぐに他のおかずに手を伸ばす。
昨晩のうちからタレに漬けて
味を染み込ませていたのであろう唐揚げは
冷めているのに衣はサクサクで
中は肉汁が溢れていて、
数の子は味が均等についている上に
鰹節の風味も活きていて、
里芋の煮っころがしは箸で掴めるのに
しっとり感のあるホロホロ加減で、
ちらし寿司も具と酢飯が
絶妙なバランスで噛み合って…。
ろくに休憩も挟まないうちに
デザートの桃と柏餅まで
完食してしまっていた。
「ふぅ……。満足したわ…。」
「お粗末さまでした。
こんな食べっぷりを見せられると、
こっちまで嬉しい気持ちになるな
…それより、思ったより和泉さんって
大食いなんだね。」
米粒一つも残さずに全て食べ終えると、
最初から終わりまで見ていた逢瀬も
満足したように笑顔を浮かべていた。
結局、作った逢瀬本人は
三分の一程しかお弁当を食べていないが、
包みとは別に小さな袋があり、
その中からおにぎりを取り出した。
どうやら、和泉が大食いであることを
想定の範囲内に入れていたようだ。
おにぎりには梅干しや鮭など、
定番の具材が入っている。
それから、おにぎりを食べる逢瀬と
何気ない会話を交わしていると、
やがて午後からの試合が始まる。
一緒にご飯を食べながら
同じ何かを眺めるというのは、
まるで夫婦のようであった。
決してそんなことは、
お互いに口に出さないままで。
「月詠さんすごいね。
あっという間に優勝しちゃった。」
15時を少し回った頃。
10人余りの人に囲われて、
その中心で月詠が拍手を浴びていた。
初戦からエンジン全開だった月詠は、
危なげなく全ての試合でストレート勝ちをして
見事に優勝してみせた。
月詠はこのテニスコートの近くにある
商店街で使えるという
1枚1000円分の券10枚、
合計1万分の商品券を優勝賞品として受け取り、
笑顔で拍手に応える。
そして、今回の大会の幹事であるおじさんの
挨拶もそこそこに、大会の幕は降りた。
参加者は各々で解散して、
純粋にテニスをしに来たのであろう人が
入れ替わるように増えてくる。
「さて…俺達も行こうか。」
最後まで会場に残って
言葉を交わしていた月詠が、
荷物をまとめてコートを去る。
それを見ていた和泉と逢瀬は、
追いかけるように立ち上がった。
「ここからが本番ね。」
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