第5話 母

 夜が明けきる前、病院の裏口を抜け出した。

 街は雨上がりのように冷たく、アスファルトが薄く光っている。

 手の中のUSBメモリは、血のように熱かった。


 母の名前――〈奥脇聖子〉。

 あの文字が脳裏から離れない。

 (どうして……どうして母が、あの実験の監督なんて)


 足が勝手に実家の方向へ向かっていた。

 真柴の記憶が道を知っている。

 だが、心は別の目的地を目指している。

 “私の母”に、会わなければならなかった。


 扉の前に立つと、懐かしい香りが鼻を掠めた。

 線香と柔軟剤。

 何年も帰らなかった家の匂いだ。


 インターホンを押す前に、ドアが開いた。

 母が立っていた。

 髪に白いものが混じり、昔より小さく見えた。

 でも、その瞳だけは、あの頃と同じ冷たい光を宿していた。


 「……亮くん、いえ、彩音ね」


 息が止まった。

 彼女は最初から分かっていた。

 (やっぱり……全部、仕組まれてたんだ)


 「中に入りなさい。立ち話はやめましょう」


 リビングのテーブルの上には、湯気の立つ紅茶。

 私が好きだった銘柄だ。

 母は椅子に座り、静かに微笑んだ。


 「怒っているわね」

 「当然でしょ。私を殺したのよ」

 「違うわ。あなたを“生かした”の」

 「……何?」


 母はゆっくりとカップを持ち上げる。

 「彩音。あなたはずっと壊れかけていた。

  現実を拒んで、何も感じないようにしていた。

  だから私は、あなたの心を“救う”方法を探したのよ」


 「それが、実験?」

 「そう。篠原先生と私は、魂の転写理論を研究していた。

  死に瀕した人の“感情記録”を、別の肉体に移す技術。

  あなたは最初の被験体に選ばれた」


 「勝手に……!」

 怒鳴る声が震える。

 母は微動だにせず、静かに言葉を重ねた。


 「あなたはもう、死にたがっていたのよ。

  私は、せめて“形を変えてでも”生きてほしかった」


 その言葉が、心臓を刺した。

 確かに、あの頃の私は限界だった。

 職場の圧力、恋人の暴力、逃げ場のない生活。

 (でも……それでも、生きたかった)


 「母さん、あなたは神様じゃない。

  勝手に人の命を弄ぶ権利なんてない!」

 「命を“弄んだ”のは、あの男よ」

 母の声が、冷たく震えた。

 「彼はあなたを壊した。だから私は彼を使った。

  あの夜、あなたの死と同時に、彼の意識を結合させたの」


 「……じゃあ、私たちは――」

 「そう。彼の体に、あなたの魂を。

  彼の罪を、あなたの痛みで償わせるために」


 母の笑みは、狂気の端で美しかった。

 「母として、これ以上の復讐はないでしょう?」


 私の手が震える。

 胸の奥で、亮の声が響く。

 (彩音、やめろ。撃つな……)

 視界の端に、テーブルの上の拳銃が見えた。

 篠原の研究室から持ち出したもの。


 「やめろ、彩音!」

 亮の声が悲鳴になる。

 (撃ったら、お前まで壊れる!)

 「……黙って。私は、彼女を許せない」


 母が立ち上がる。

 目の奥に涙が光った。

 「彩音……あなたを失ってから、私は毎日地獄だったの。

  でも今、あなたがこうして立ってる。それだけで十分」


 「違う。私は“人間”として生きたいの。

  誰かの計画の“結果”じゃなくて!」


 母が手を伸ばす。

 その指先が頬に触れた瞬間――

 頭の中に、眩い光。

 過去の記憶が一気に溢れ出す。


 ――幼い頃、転んで泣いた私を抱きしめた母の手。

 ――夜勤明けでも弁当を作ってくれた日。

 ――「あなたは生きてるだけでいい」と微笑んだ顔。


 (ああ……これが、本当の母)


 涙が止まらない。

 銃を握る力が緩んだ。

 母が微笑む。

 「ようやく……あなたの目が、戻った」


 その瞬間、窓の外で爆音。

 閃光。

 建物が揺れた。


 玄関のドアが破られる音。

 黒い服の男たちが雪崩れ込む。

 先頭に立つのは――篠原の助手。


 「被験体B、確保!」


 母が叫ぶ。

 「やめなさい! 彼女はもう――!」

 銃声。

 母の身体が崩れ落ちた。

 血が畳に広がる。


 「母さんっ!!」

 駆け寄る。

 彼女はかすかに笑い、震える指で私の胸に触れた。


 「彩音……この世界に……まだ希望があるなら……

  それを、見届けて……」


 そのまま、息を引き取った。


 涙が視界を曇らせる。

 腕の中の母が、静かに冷えていく。

 外では警報のサイレンが鳴り響き、黒服たちが近づいてくる。


 私は母の手からUSBを受け取った。

 そのラベルには、新しい文字が追加されていた。


 〈最終鍵:記録は“川”に還る〉


 ――旧江川。

 始まりの場所。


 私は立ち上がった。

 「行こう、亮」

 (ああ……行こう)


 母の亡骸を見下ろしながら、私は心の中で誓った。

 ――これ以上、誰にも奪わせない。

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