第二章 黒い山への調停者 ③
その日から始まった女子教育は、想像を絶する苦行だった。
まず立ちはだかったのは着付けだ。
幾重にも布を重ね、複雑な手順で帯を締める。雪路の手つきは流麗だったが、俺が自分でやろうとすると襟元はずり落ち、帯はすぐに緩んでしまう。何度やっても上手くいかない。
「清香さん、背筋! お腹に力を入れて!」
雪路の鋭い声が飛ぶ。
清香。
本来なら俺の妹の名だ。だが、ここでは俺を指している。
俺は今、妹の清香として慶州に赴くことになっていた。潜入調査と和睦という司令を与えられていたが、表向きは花嫁候補である。
その四文字が浮かぶたびに、本物の曉人に謝りたくなる。
下手をすると、本当に黒家の男の嫁にされてしまう。
すまん。頑張るから。
「やるからには手加減しませんよ」
雪路が扇子を手で叩きながら、俺に指示を与えてくる。
「着替えるときも指先にまで意識を集中して。そう、花びらを摘むように」
厳しい指導の合間、ふと部屋の隅にある姿見に目をやる。そこに映るのは、見慣れぬ少女の姿だった。淡い緑の着物。必死に大人びた表情を作ろうとしている十歳の少女。
それが俺だ。
絹の着物が肌を撫でる。畳のい草の匂いが鼻腔をくすぐる。母の焚く白檀の香りが空気に溶けている。五感が告げる。
ここは現実だと。
それでも、鏡の中の自分を見ると心が揺らぐ。
本当に、俺は女になってしまったんだな。
次は歩行訓練だ。
慣れない草履が足に食い込む。裾を踏まないように歩幅は小さく、すり足で。意識すればするほど体がぎこちなくなる。
バランスが崩れる。
「うわっ!」
「はしたない声をださないの」
危うく顔から突っ込むところだった。俺の泣き言は届かない。
「もっと小指に力をかけるといいですよ。お兄さま。ほら、こうですわ」
清香が歩く。
その足運びは水が流れるように滑らかで、裾が畳を撫でる音すら優雅だった。五歳の完璧な所作に俺は魅入ってしまう。
「どうして、こんなに熱心なんですか?」
俺は思わず雪路に尋ねた。
疑問だった。もし、女の所作がうまくなればなるほど、先方に見惚れられる確率があがる。それは息子を持つ母親としては複雑なのではないだろうか。
「それは、あなたがお祖父さまから期待されたからです」
雪路の声には迷いがない。個人的な感情よりも、家のためという響きがあった。
「黒家にこうやって面と切って、使者を送り込むのは、曉人。あなたが初めてなのよ」
雪路の瞳の奥に静かな炎が燃えていた。
「ですから、私も手抜きはしません」
「⋯⋯」
「白家を代表する淑女に育てますわ」
前世の記憶が、現代の価値観がざわめく。理解できない。けれど否定する言葉も喉の奥で凍りつく。それだけ雪路は本気だった。
「は、はい」
茶道の時間も気が抜けなかった。
指先にまで神経を行き渡らせる。お茶碗を持ち上げ、音を立てないように静かに口へ運ぶ。背筋を伸ばしたまま、ゆっくりとした動作を維持する。
腰が痛い。肩が張る。これは拷問だ。
「肩の力を抜いて。そう、指先まで美しく見せるには、動きの止めを意識するのですよ」
「お兄さま、そこで一呼吸とまるといいです」
二人に言われるがままに動く。操り人形のようにギクシャクと。
「そうよ。動きを敢えて一呼吸止めることで、私の美しいところはここよ。どうぞ、ご存分に見てくださいって、動きに緩急をつけるの」
雪路と妹の声にはどこか弾んでいる。目が輝いている。まるで新しい人形を手に入れた子供たちのように。
俺はお茶を飲みながら心の中で喚いた。
どうして、こうなったぁ!
緑茶の熱が胃に広がっていく。その熱さを感じながら、俺は自分の置かれた立場を冷静に分析した。
俺は本物の曉人の闖入者でしかない。
そこは文學に気づかれている。わかったうえで俺を使っている。
胸の奥がざわつく。それは雪路や清香に伝わるのも時間の問題ではなかろうか。
(だから、なのか?)
女の修行をするとなると少々のボロはお目溢しされるはずだ。そう考えると息が少しだけ楽になる。
(俺の秘密を守ることを考えて、俺を女にしたってことか?)
いや、違う。絶対に違う。
あの光景が蘇る。部屋を去るときに見た文學の顔。あの嗤いは、明らかに俺の困惑を愉しんでいた。
しかも、この女体化には大きい爆弾が仕込まれていた。
「任務期限は今日から百日以内と思え」
「どうしてですか?」
「愚者は明日の自分に期待してしまうからな」
「⋯⋯」
「それに、お前も三十五歳の寿命という制限のなか、その日をどう生きるかを、今回の百日という期限で学ぶことができるだろう」
やっぱり俺がこの世界の人間でないことにこの老人は気づいている。
「何事にも期限は必要じゃろう? 百日越えて、その姿のままじゃと、そのまま女で過ごしてもらう」
文學は部屋を移動しながら笑った。
「そのほうが任務にも緊迫感が生まれるだろう?」
「⋯⋯」
「おまえが使えないとわかれば、そのまま女のままで優秀な婿養子をとれば我が家の血は保たれるからな。心して有能さを示してもらおう」
端からこうしたら良かったと言わんばかりに、文學は目を細めた。狐のように。
「これがゲームじゃろ?」
と。
その記憶が蘇り、俺は思わず声を上げていた。
「くそおおおおおおおお!」
瞬間、扇子で肩を叩かれた。パシンと鋭い音が響く。
「まぁ、なんて声を出すのですか。集中しなさい」
「は、はい。すみません」
気づけば訓練は次の段階に移っていた。立ち居振る舞いの練習だ。
母の指導は厳しいが、その瞳を見ればわかる。奥に温かいものが灯っている。
(この人は、本当に
俺が元の曉人ではないと知ったら、この人はどう思うだろうか。
いつもの罪悪感が胸に広がる。
頭を振って払う。今は考えている場合じゃない。
「お兄さま、また男の人のように大股で歩いていらっしゃいます」
妹の声に我に返る。清香が俺を見上げている。その翡翠色の瞳には、何か言いたげな光が宿っていた。
「どうした?」
「お兄さまと呼んでいましたが、少し変な感じがしますの。でも、清香と自分の名前で呼ぶのも変ですし」
小首をかしげる。
「どうお呼びしたら、正解なのでしょう?」
その仕草は年相応の愛らしい少女そのものだった。
「お兄さまと、お姉さまが」
清香が言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「うぅん。いっしょに、なって」
俺も答えが見つからない。沈黙。
そのとき、清香の顔がパッと明るくなった。まるで花がほころぶように。目が満月のように丸くなる。
「そうです! おね兄さま、です!」
「お、おね兄さま?」
「はい! おね兄さまです!」
その無邪気な笑顔に俺は頬が緩む。止められない。妹が手を差し出してくる。本当に小さな手だ。施設にいた子どもたちを思い出させる。
「参りましょう」
「おう」
一緒に歩き始めた。
「『おう』ではありませんわ」
「はい」
俺と妹は姉妹のように並んで歩いた。
「おね兄さま、また男の人のように大股で歩いていらっしゃいます」
清香の指摘は的確だった。俺は力なく、引きつった笑みを作った。五歳でこんなにしっかりと異性の目を気にしているのか。
この世界の理というより、妹が特別に聡いのだろう。
汗が眼帯に入り、湿り気を帯びる。それに気づいた雪路が眼帯を外してくれた。 「じっとしていなさい」
ハンカチで目を拭ってくれる。その優しい手つきに胸が締め付けられる。
ふと視界が歪み、数字が浮かび上がる。
天算眼。
止めることのできない能力。
雪路の頭上に浮かぶ無機質な数値。母も妹も、こうして数字で表される。
喉の奥が苦い。なぜなら、この能力は俺の特性に根ざしている。お前は他人を分析するのが好きだろうと、誰かに嘲笑われているようだ。
雪路を改めて見つめた。
「真剣な顔をして、どうしたの? 私の顔になにかついている」
「いえ」
何度見ても若くて可憐な乙女にしか見えない。二児の母親とは思えない。そして、浮かび上がる数字を俺は分析してしまう。
俺の武器はこれなんだ。今は使い方をマスターして生き延びることを考えないと。
筋力:9
敏捷性:12
耐久力:12
知力:15
判断力:15
魅力:17
神くず:なし
その高い判断力と魅力は納得だった。母の美しさは単なる外見ではなく、内面から滲み出る気品と知性によるものなのだろう。二十四歳という若さでありながら、その振る舞いには経験に裏打ちされた確かな自信がある。
「おね兄さま、指先にまで意識を集中するのです。すると、綺麗に見えますよ」
視線を清香に移す。
筋力:6
敏捷性:10
耐久力:8
知力:14
判断力:12
魅力:16
神くず:【未発現】
知力14、判断力12。
(やっぱり)
五歳の子供として明らかに異常だ。いや、清香だけじゃない。雪路も、文學も。
この白桜蔭家の血を引く者たちは異常に高い。遺伝なのか? それとも何か別の理由が?
この一族はただの貴族じゃない。
俺がこれまでの観察でわかったことは、どうやら能力値の上限は『18』らしいと見当がついた。まるで神が定めた限界値のように、それ以上の数値を持つ者には出会っていない。文學の知力と判断力がその頂に達しているだけで他にはいない。
もっとも外にはもっと高い能力を持つ人がいるかもしれないから、決めつけは駄目だ。
そして、清香の神くず欄に浮かぶ『未発現』の文字。彼女にも何らかの力が眠っているのだろうか。発現の条件は何だ。血筋か、年齢か、それとも別の何かかだろうか。
文學の爺さんなら何か知っているかもしれないが、迂闊に聞けばやぶ蛇になってしまう。今は情報を集めるしかないか。
そもそも神くずの能力が与えられるのは、『七女神大戦』では千人に一人くらいの割合だ。千鶴のような能力者に出会えたこと自体が奇跡に近い。そして、清香にもその可能性があるというわけか。
わからないことだらけだな。
だが、この体で黒家に行く。もともと期待できなかった体術は絶望的だ。頼れるのは、この頭脳とまだ使いこなせていない神くずの力だけだ。
文學の不気味な笑みが脳裏をよぎる。あの狐のような目。
あの爺さんは何を企んでいる? 俺を試しているだけか? それとも本当に女にして、優秀な男の嫁にするのか?
おぞましい想像が頭に浮かびかけ、俺は慌てて思考を断ち切った。
そんな未来を考えるな。
頭を振る。再び女子教育の現実に戻る。時間は待ってはくれない。百日以内に結果を出さなければ、そのまま女として生きることになる。
絶対にそんなことにはさせないからな、曉人。男の体で返すからな。
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