第26話:闇夜の襲撃

 漆黒の空に十三夜の月が浮かんでいる。月明かりは郊外の丘に広がる庭園を明るく照らしていた。庭園の花壇にはムスカリやスミレ、ニリンソウといった春の花々が咲き誇り、遠く、敷地の外側でも紫雲木の青い花が咲き始めている。庭園の花はすべて、青、白、紫の三色で統一されており、花壇の土には雑草一本すら見当たらない。リウ家の女たちによる徹底した管理がそこからは伺い知れた。



 そんな整然とした庭園の影に、ひとりの少年が潜んでいた。真っ黒に日焼けした肌を闇夜に紛れさせ、少年は忍び足で花壇と花壇の間を渡り歩き、敷地の入口――鉄門が見渡せる位置までやってきた。低木の後ろに身を縮めて隠れながら辺りを窺う。



 庭園ではリウ家の者たちが十人ほど、杖を携えて警戒に当たっている。男たちは花壇の影に潜む少年のことになどまるで気がついていない様子で注意深く辺りに気を配っている。


「くくっ……ぷぷぷ……」


 少年は忍び笑いを浮かべ、男たちの顔を見回してから、もう一度いかにも可笑しそうに笑った。



「おい」


 声がして少年はぎくりと身を固くし、ゆっくりと後ろを振り返った。


「げっ、バオ兄……」


 しかめっ面の短髪の男。彼は少年を胴を掴んで強引に地面に立たせると、その頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でくりまわした。



「お前なあ、こんなところでなにしてんだよ、アリン」

「や、ヤケイだよ。ヤケイ」


 両手を振り回して男の手からなんとか逃れながら少年は言い張った。



「夜警だあ? それは俺たち大人の仕事だろ。お前みたいなガキの仕事じゃねえっての」

「なんだよ、ずるいよ! ぼくだってみんなの役に立ちたい!」

「ばーか、遊びじゃねえんだぞ。役に立ちたいんならチビどもの子守りをしてろよ。それが一番助かるんだから」

「そんなのいつもやってるよ。そうじゃなくて、大人のみんながやってることをしたいんだ」

「はあ、お前なあ」



 男は呆れたようにため息をついた。

 そこに、別の男がやってくる。中性的な顔をした長い茶髪の男。彼は不思議そうな顔をして短髪の男の元に近寄ってくると、少年の姿を見て声を上げた。



「どうした? ……っておい、なんでこんなところにいるんだよ」

「おい、ジャイディ。お前もなんかいってやれ。こいつ夜警がしたいんだと」

「あん? 俺たちはそんな暇じゃねえんだ。とっとと部屋に戻れ」

「ま、待ってよ。ぼく、ちゃんと役に立つから」

「役に立つってどう役に立つってんだよ? まだ竹杖しか持ったことのないガキのくせに」

「え?」


 短髪の男が半眼になって尋ねると、少年はきょとんとしてから、「えっと」と頭を悩ませるようにつぶやき、


「そう、声! ぼくの声、大きいよ。なにかあったら屋敷中に伝えられるよ」



 男たちは顔を見合わせた。

 一瞬の間ののち、今度はふたりがかりで少年の頭を撫でくりまわす。


「クソして寝ろ、クソガキが!」

「遊びじゃねえって言ってんだろ!」

「やめて! やめてったら!」



 と、三人がじゃれていたちょうどそのとき。

 ……ぎぃ。

 遠くにぽつんと見えている鉄門が独りでに音を立てて開き、そこからひとりの老人が現れた。



 一筋の風が吹き、芝の上を滑るように通り抜ける。敷地の外周に植えられた木々がざわめいた。

 老人は長い白髪と体にまとったぼろをはためかせ、庭園の中央にまっすぐ通った石畳の玄関通路を堂々と歩いてくる。



 三人ははたと黙り込んで顔を見合わせ、内、大人のふたりのほうは手の内の杖をきつく握りしめて、数瞬前とは打って変わって鋭い眼差しを侵入者に向けた。

 短髪の男が声を張り上げる。


「おい! あんた、どういう了見で人の敷地に勝手に入って――!」



 言葉は、そこで唐突に途切れた。

 なぜなら、彼の首だけがなんの前触れもなく消し飛んだからだ。

 どさりと首から下が地面に倒れ伏し、遅れて首の断面から血が吹き出す。遠くで、引き千切られた男の頭部が花壇の中に転がり込み、草花を深紅に染めていく。



 遅れて、目撃者のふたりから、喉の奥から絞り出すような絶叫が上がった。





       ※





 真っ暗闇で目を覚ました。スニルの一件があり、もやもやした気分で寝床に入った結果まったく寝つけず、ようやく眠れたと思ったらすぐに目覚めてしまった。



 ジンの隣にタキの姿はない。彼女は夜警にでているため部屋に来なかったのだ。

 久方ぶりにひとりで眠る寂しさを身に染みて感じながら、もう一度眠りにつこうと寝返りを打ち目を閉じる。その瞬間。


「――!」



 かすかに声のようなものが聞こえた気がした。耳を澄ましてみる。


「――誰か――!」


 遠くで叫び声がする。気のせいではない、確かに聞こえた。

 嫌な予感がする。

 ジンは寝台から飛び降り、壁に立てかけていた杖を引っ掴み部屋を飛び出した。



 右の袖をはたはたと翻しながら薄暗い廊下を大股で駆け抜け、階段を三段飛ばしで降りる。道中、物音を聞いて何事かと扉を開けて出てきた五、六人の男たちと合流し、声がする方向にひた走る。声は庭園のほうから聞こえていた。



 西棟の玄関を出て通路に出ると、暗闇の向こうで大声を上げて騒いでいる小さな影が見えた。


「誰か――誰か来て! 男がみんなを――」


 聞き覚えのある少年の声。声の主はアリンだった。


(なんであんなところにいるんだ……!)



 そのとき、アリンの背後に迫る男の影が見えた。白髪の老人。昼間見た、あの男。その両手には杖が握られている。嫌な予感は的中した。

 術を使おうにもここからでは遠すぎる。代わりに、力の限り叫んだ。


「逃げろ!」



 刹那、白髪の老人が右手に握った杖を薙ぎ、続けてアリンの体が横ざまに吹き飛んだ。


「……っ!」


 思わず足を止め、ジンは息を呑んだ。

 少年の身体は花壇の茂みに猛烈な勢いで突っ込んで見えなくなる。血が凍るのを感じた。



 白髪の老人はそのまま歩みを止めず、階段を登り、石造りの屋敷――母屋の玄関に入っていく。

 後ろからリウ家の者たちが手に灯りを携えたまま怒声を上げて脇を走り抜けて行ったところでジンは我に返り、遅れて彼らに追従した。



 母屋の前にたどりつき、階段の下を見下ろした。月明かりが差す庭園のあちこちにリウ家の者たちが倒れ伏している。その中にタキの姿は――ない。きっと正門ではなく、裏門の警備をしていたのだろう。そうに違いない。

 彼女は無事だ。その事実に安堵するも、倒れた人影のどれもがぴくりとも動かないことに気がついた。


「……くそっ!」


 彼らの元に駆け寄りたい気持ちを抑え、ジンは侵入者を追った。


 玄関から通路、通路から大広間へ。異変に気づいて駆けつけた男たちが灯火を手に、広間の入口を塞ぐように立ち尽くしている。ジンは彼らの背中越しに広間の様子を覗いた。

 ずらっと並ぶ長机の向こう側、広間の端で、イェンが壁を背にするように白髪の老人と対峙していた。闇の中でそれが視認できたのは、イェンの背後、壁面に設けられた暖炉の中で炎が燃え盛っていたからだった。天井と壁にはふたりの老人の火影ができている。



 ジンはリウ家の者たちとともに駆け出し、イェンの加勢に加わった。スニルの背後を大勢で取り囲む。こちら側の人数は二十名弱。圧倒的に有利な状況だ。

 いかに相手があの“死神”スニルといえど、この戦力差で負けるわけがない。加えて、こちらにはイェンがいる。あの“武神”と謳われた英雄が。

 一度手合わせをしたことのあるジンは知っている。あの老婆が誰よりも巧みに神秘の力を操るということを。あの老婆が盲人であることを感じさせないほど俊敏に動けるということを。



 イェンは長袍を身にまとい、首筋をすっと伸ばして薄暗い広間の絨毯の上に立っている。彼女の手には、普段は滅多に手にしない白木アオダモの美しい杖が握られている。

 対する白髪の老人――スニルは外套姿でぼんやりと佇んでいる。手には闇と同化ような黒い杖。それが左右の手に一本ずつ握られている。

 闇に包まれた大広間で、ふたりの英雄が今まさに対峙していた。



「なぜ、こんなことを?」


 いざ仕掛けんと杖を構えたリウ家の者たちを、イェンは片手を上げて制し、侵入者に静かに問うた。



「無論、貴様の息の根を止めに来たのだ。かつて殺し損ねてしまった貴様のな」


 スニルは答え、周囲を取り囲むリウ家の者たちを睥睨した。

 暗がりに鈍く光る双眸を目の当たりにし、ジンは肌が粟立つのを感じた。それは他の者たちも同じだったらしく、辺りで息を呑む気配がする。

 横目で周囲の反応を確認したスニルは嘲笑うように口角を上げると、再度イェンに向き直った。



「かつての戦で、俺は数多の猛者を屠った。……アシラン、イエクパ、シャオファン、フェイ、ソンゲ、ティーラ、バトゥル、モンコン。タモンに師事した『十大弟子』の内、八人は既にこの手で抹殺した」


 スニルはイェンに向け、右手の杖を突きつけた。


「俺を除けば、残るはひとり。貴様だ、イェン」

「勲章にでもするつもりですか、私を」

「そう言っている」

「なぜです。私たちは姉弟だったはずでしょう? 血は繋がっていなくとも、我々タモンの弟子の間にはたしかに絆があったはずです。……なのに、なぜ?」

「ふははっ」


 スニルは嘲るように笑った。



「下らん。まだそんなことを言っているのか。たしかに俺はタモンを父と、貴様を姉のように慕っていたこともあった。だがそれは愚かで惰弱だったころの俺だ。絆? そんなものは唾棄すべき感傷に過ぎん。そんなことだから貴様は俺に敗れ、そのようなみじめな姿になったのだ」

「やはり、私の言葉は通じないのですね」

「通じているとも。ただ、貴様の言葉が聞くに値しないというだけのことだ」

「……あなたは、かつての兄弟を殺しただけでは飽き足らず、今度は私の子どもたちまでも……」


 イェンは察していた。ここにやってくるまでにスニルが既に何人もの息子たちを殺していることを。

 暖炉の炎を背後に、イェンは杖を手にしたまま俯き、空いたほうの手で拳を握った。



「それで、育ったか? 俺のための“贄”は」


 スニルは怒りを燃やすイェンの様を眺め、出し抜けに尋ねた。


「なんの話ですか」

「貴様を殺す機会はこれまでにいくらでもあった。しかしあえてそうしなかった。こうして二十年もの歳月を待ったのは、貴様がなにやら面白いことをやっていたからだ」



 スニルは両腕を広げてぐるりと周囲を見回し、口角を釣り上げた。


「貴様はこうして育て上げた。かつての英雄たちにも匹敵する強者つわものどもを。貴様とここにいる者たちは、俺のために用意された“贄”だ。そのためにいままで生かしておいたのだ。芽吹き、伸び、実を結ぶその時を待ち、そして今日“刈り取る”ためにこの場にやって来た」



 それはイェンに対する最大の侮辱だった。愛情を注ぎ、手塩に育てた我が子たちを“贄”と称して殺す。これほどの侮辱が他にあるだろうか。



 その場にいたスニル以外の全員が言葉を失い、黙り込んでいた。

 ジンはこれほど自分勝手で理不尽な理由で人を殺すスニルが許せなかった。この狂人の言うことは無茶苦茶だ。会話なんて成り立つような相手じゃない。人を人と思わないような怪物、厄災のような男だった。こんな男に目をつけられたのは運が悪いとしか言えない。



「あなたのことはよくわかりました。同情の余地なき邪悪。もはや一片のためらいも要らぬのだと」


 イェンの怒りは既に頂点に達し、膨れ上がった殺気は周囲の味方をも呑み込み圧倒した。

 しかしそれは一瞬の内の出来事でしかなかった。


「――すぅ……ふぅ……」


 暗がりの中、ジンは感じた。イェンが短く息を吐き、息を吸う。その瞬きするほどの間に卓越した心静術で己を律し、すぐさま理力を練り上げるのを。



 戦いが始まる。イェンが仕掛けようとしている。ジンも呼応するように身を動かす。ジンとイェンが杖を走らせたのはほとんど同時だった。



 前後からの挟撃。これをスニルは俊敏に動いて難を逃れた。まず、背後に迫ったジンの放った一撃を正面を向いたまま右手の杖を後ろに回し術によって相殺して防ぎ、前方のイェンの攻撃を左手の杖を振るって弾き返した。

 跳ね返されたイェンの理力は大広間の窓にぶち当たり、ガラスの破片が音を立てて床に落下する。

 初撃は辛くも防がれた。だが攻撃はこれで終わらない。遅れて、リウ家の術士たちも一斉に攻撃を仕掛ける。



 わずかな間隔で連なる数多の攻撃が波のようにスニルに押し寄せる。スニルは両腕を大きく振り回し、二本の杖の先から同時に灰色の光を噴射して防御壁を作り出した。それは迫りくる無数の念力の弾丸を止めるには至らなかったが、勢いを削ぐことには成功した。



 生じたわずかな時間を用いてスニルは飛び退き、着地際に右の杖を一振りしイェンに攻撃を繰り出す。それは単なる牽制で、この場の最大の脅威であるイェンの動きを封じる意図があったことは明らかだった。



 スニルは振り向きざまに懐から短刀を抜き、それを周りを取り囲むリウ家の者たちに向けてぽいと放った。立て続けに左の杖が振られ、スニルの理力が宙を飛ぶ短刀の制御を開始する。闇の中を猛烈な速度で刃が飛び回った。



 短刀がリウ家の男の首を切りつけ、それでもその勢いは止まらずに次の獲物を狙って飛び、もうひとりが腹を裂かれて倒れた。人と人の隙間を縫うように飛びながら、短刀は通りがかりざまに敵を切りつけていく。攻撃をなんとか止めようと、リウ家の術士たちは術を放つが、短刀は人影に隠れるように飛んでおり、仲間を巻き込む危険があるため狙い撃つのは極めて困難だった。



 そうして対処に困っている間にも、迫りくる刃に切りつけられ、ひとり、またひとりと倒れていく。


「どうした! こんなものかッ!」


 スニルが白髪を振り乱し吠える。その間にも、彼は左手で短刀の制御を、右手で四方八方に攻撃を繰り出している。



「くっ……!」


 ジンは、自分や周囲の術士に向かっていくスニルの術を防ぐことに注力していたが、次から次へと迫りくる攻撃に対処するのが精いっぱいだった。やがて近くを暴れまわっていた短刀を狙い済ました一撃でなんとか破壊することに成功したが、そのころにはスニルは懐からもう一本の短刀を取り出して放り投げていた。



 戦いはあくまでイェンとスニルを中心に繰り広げられていた。他の者はついでとばかりに放った一撃に翻弄するばかりでまるで相手になっていない。スニルはイェンの猛攻をあらゆる発想で対処し、攻撃を弾き返すことで敵への攻撃として利用しながら、さらに応酬の隙に最小限の動作で杖を振る。その度にリウ家の者たちは吹き飛ばされていった。



 気がついたころには、ジンの周囲には誰も立っていなかった。繰り出された早撃ちに、操った刃に、皆が倒れていった。

 残った味方は自分とイェン、ふたりのみ。

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