幸福のともしびと

宮沢春日(はるか)

プロローグ 始まりの鍵

 午前十時の光が、ショーウィンドウをやわらかく満たしていた。

 ガラス越しに差し込む陽射しは、レースのカーテンの隙間を縫い、店内の小さな埃の粒を金色に染め上げてゆく。静かな朝。外の通りでは、開店準備をする店先の音や、コーヒーの香りを運ぶ風が、かすかに流れ込んでいた。


 その店の中で、桜庭柚希さくらばゆずきは黙々と商品棚にアクセサリーを並べていた。

 透明なガラスの小皿にピアスを置き、ひとつひとつ角度を確かめる。陽の加減で石の輝きが微妙に変わるから、彼女は毎朝この作業に時間をかけるのだ。小さな指先が、淡い光をすくい上げるように動く。


 彼女の髪は明るい茶色のショートボブ。額にかかった前髪を耳にかけるたび、銀色のイヤーカフがわずかに光を跳ね返した。桜色のスカートに白いブラウスを合わせ、胸元のムーンストーンのブローチが柔らかい虹色の光を帯びている。

 春の花のような装いだった。けれど、どこかその色合いの奥に、冬の名残のような静けさがあった。


「そろそろ時間ね、摩耶。開けてもいい?」

 柚希が振り向く。


 レジカウンターの奥、白羽摩耶しらはまやは黙ってクリスタルの結晶に指を触れていた。

 透きとおる石の中に、光がかすかに揺らめいている。摩耶はその揺らめきの奥に、誰にも見えない波を探しているようだった。

「うん。大丈夫。いいよ」

 摩耶の声は、ひとつひとつの言葉を丁寧に選ぶように、ゆっくりと空気に溶けた。


 彼女はベージュ色のワンピースを着ていた。布の表面はやわらかく、動くたびに小さな皺が光を拾う。胸元には、深い青のサファイアのブローチ。冷たい色なのに、彼女が身に着けるとどこか温かく見える。

 髪はうすく束ねられ、前髪が頬に影を落とす。その影の向こうの瞳は、光と闇のあわいに浮かぶ湖のように静かだった。


 その瞬間、ふわりと空気が澄んだ。

 まるで店全体が深く息を吸い込んだかのように。柚希は思わず息を止める。摩耶が指先でパワーストーンを撫でるたび、空気が微かに震え、ガラスの棚に吊るされたチャームがかすかに揺れた。

 それは風ではない。彼女の指先が石に語りかける声――魔法の「さざめき」だった。


 初めて摩耶に「私は魔法使いなんだ」と告げられた日のことを、柚希は今でもよく覚えている。

 放課後の音楽室。窓の外では夕焼けが校庭を染めていた。摩耶はピアノの鍵盤に手を置きながら、ぽつりとつぶやいたのだ。

 彼女の魔法は、声で唱えるのではなく、指先で石を震わせて響かせる――それが彼女の「呪文」だという。

 柚希が「指先で、話してるの?」と尋ねると、摩耶は少し困ったように笑って、「うーん、まあ、そんな感じね」と答えた。その笑みは、まるで秘密を打ち明けた子どものようにあどけなかった。


 柚希には魔法は使えない。

 摩耶の話では、魔法をかけると石の中に小さな灯がともる。その光はろうそくの炎のように揺らぎ、消えるまでの間、石の持ち主に魔法の力を与えるのだという。

 けれど、柚希の目にはその灯は見えない。見えない代わりに、摩耶の魔法に触れるとき、空気の密度が変わるのを感じる。微かな温もり、かすかな震え。それが柚希にとっての「魔法の証」だった。


 摩耶とは高校の合唱部で出会った。

 その頃の摩耶は、静かで、目立たず、何を考えているのか分からない子だった。けれど放課後、ふと通学路の桜並木で立ち止まっていた彼女を見かけたとき、柚希は声をかけた。

 「どうしたの?」と尋ねると、摩耶は少し照れたように笑って、「今ね、石が歌ってた」と言った。

 その日から、ふたりは一緒に帰るようになった。

 柚希は最初こそ摩耶の感性に戸惑ったが、やがてその世界の透明さに惹かれるようになった。摩耶が「石が歌ってる」と言うと、柚希にもその旋律が聞こえる気がしたのだ。


 卒業後、進路に迷っていた柚希は、ある日摩耶を喫茶店に誘ってこう切り出した。

 「ねえ摩耶。この石たちの声を、もっとたくさんの人に届けられたら素敵じゃない?」

「で、でも私、人と関わるのは……」

「接客は私がやるわ。摩耶はレジと魔法をやってほしいんだ。」

「人前で魔法使ったら、怖がられちゃうんじゃ」

「バレないようにすればいいの。あなたの特技、生かさないなんてもったいない。大丈夫、摩耶のことは私が守るから」

 そう言ったとき、摩耶は静かに頷いた。

 それが、パワーストーンアクセサリーの店「フォルトゥナ」を開くきっかけだった。


 店づくりは、柚希の提案で「ファンタジーに出てくる魔女の家」風にした。

 クリーム色のレンガ造りの外壁に、灰色の屋根瓦。入口のステンドグラスは、朝と夕で色を変える。店内にはアンティークのランプや木の棚、古いオルゴールが置かれ、いつもほのかなハーブの香りが漂っている。

 棚に並ぶアクセサリーは、二人が半年以上かけて作り上げたものだ。天然石を磨き、銀の枠を形づくり、ペンチで枠に石を止める。あとはデザインと色の調和を見て、全体の印象を整える。

 ふたりの仕事は、まるで詩のようなリズムで進む。


「じゃあ、開けるね」

 柚希はブロンズの扉の鍵を回した。鈍い金属音が、静かな店内に響く。

 ステンドグラスを透かして、朝の光が床に色の欠片を散らした。扉の外には小さな木製の看板が立てかけられ、その上には柚希の筆跡で「OPEN」の文字。

 風が看板を揺らすたび、鈴の音のようなかすかな音がした。


 通りを歩く人々が、足を止める。ガラス越しに見える店内は、まるで物語の中の一場面のようだった。棚に吊るされたクリスタルが光を受け、天井に虹色の模様を散らす。その下で、二人の若い女性が微笑み合う。


 摩耶は、柚希の背中を見つめながら、そっと呟いた。

「……今日の光、いいね。石たちがうれしそう」

 柚希は振り返って笑った。

「うん。新しい出発の日にぴったりだね」


 その笑顔に応えるように、店の奥の棚で、ひとつのアメジストがかすかに光った。

 誰にも見えない小さな灯――魔法の息吹が、静かにともっていた。


 パワーストーンのアクセサリー専門店「フォルトゥナ」。

 訪れる人が、自分だけの小さな幸運を見つけられるように。

 柚希と摩耶、二人の願いを込めた店が、今、静かに幕を開ける。

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