偽りの邪神④
沈黙が支配する広場――。
風ひとつ通らぬその空間に、ただ一つ、ヴォーグの荒い息遣いだけが、乾いた音を立てて響いていた。
胸の奥から吐き出される空気は熱を帯び、喉の奥で擦れるたびに苦悶の呻きへと変わっていく。それは威厳とは程遠い、恐怖に縛られた敗残者の呼吸音だった。
目の前に佇む異形は、何も言わない。ただ、そこに在るだけ。
言葉を必要としない存在。声を発せずとも、すでに絶対であることを周囲に刻み込んでいる。
まるでこの世の理から乖離したかのように、在るだけで空間を支配する――それこそが、異形の神・クトゥルの恐ろしさだった。
その静けさ。その沈黙。
それが、ヴォーグにとって何よりも恐ろしかった。
まるで自分という存在の軽さを、音もなく突きつけられているようだった。
広場の上空には、いつの間にか重く灰色の雲が垂れ込めていた。天さえもこの場の異常を悟り、光を拒んでいるかのようだった。
観衆は声を発さない。狂信者たちですら、息を呑み、固唾を呑んで沈黙を守っている。
けれど、それは単なる沈黙ではなかった。
無数の視線が、ヴォーグに突き刺さる。そのまなざしには、驚愕、畏怖、そして……確信があった。
邪神と名乗っていた男の前に、本物の邪神が降臨したという事実。
その認識が観衆の心を満たし、沈黙に威圧という意思を与えていた。
空気が肌に絡みつくように重い。
喉が焼けるように渇く。
ヴォーグは、震える脚をどうにか支えながら、ぎこちない動作で後退した。
一歩。石畳に踵が当たる。二歩目。踵がぐらつく。三歩目。全身の筋肉が軋み、喉元から冷たいものが込み上げる。
足裏に伝わる石の感触が無遠慮に、あまりにも現実的に、彼の肉体を突き上げる。そのたびに、彼の中に残された理性の皮膜が一枚ずつ、音を立てて剥がれていく。
脳裏を過るのは――かつて彼が浴びた歓声。
神殿に満ちた信者たちの拍手。見上げる信徒たちの熱狂。掲げた腕に宿った神性の輝きと、それに応える民衆の叫び。
だが、それらは幻だった。
虚構の中で築いた王座。空虚な神性。薄っぺらい信仰。
今、それら全てが風に散る落葉のように崩れ落ちる。
人々の目は、もはやヴォーグを見ていない。視線は一斉に、あの混沌の邪神へと吸い寄せられている。
荘厳なまでに無言のその姿――クトゥル。
何も語らず、ただ立っているだけで世界の均衡を歪ませる異形。
喝采も、尊敬も、恐怖すらも、今や全て――˝本物˝の邪神クトゥルへと捧げられていた。
彼――ヴォーグでは、ない。
虚構の神など、この場に立つ真なる存在の足元にも及ばない。
クトゥルの圧倒的な格の差を、否応なしに思い知らされる。
背後から、突き刺さるような視線の気配――冷たく、重い、非情な視線。
それはかつて彼に膝を屈し、信仰を捧げ、救済を願った者たちの目だった。己が神と仰ぎ、人生の意味すら委ねた信者たち。だがその眼差しは、もはや憧れも敬意も帯びてはいなかった。
そこにあったのは、冷たく凝り固まった感情――怒りでも、憎しみでもない。
それは、「失望」だった。
「ま、ま……待ってくれ……っ!」
乾いた声が、ヴォーグの口から搾り出される。
喉は焼けるように渇いていた。唾も出ず、言葉が空気を擦って砕ける。声帯がまともに働かず、叫びは掠れて広場の空に溶けていく。
それでも彼は、縋るように声を発した。哀願とも、懺悔ともつかぬ、情けない命乞い。
「お、俺は……ただ……食うために……その、やむをえず……っ!」
語る言葉に力はない。魂がこもっていない。
何を食うために、誰を騙したか――それを理解している者にとっては、もはや言い訳にすらならない。
だが、彼の口から出たその言葉に、答える者は誰もいなかった。
広場に集った群衆は、まるで永遠を宿した石像のように沈黙し、動かず、ただ一様にヴォーグを見下ろしていた。
無言の視線が突き刺さる。優しかった信仰のまなざしは失われ、その代わりに生まれたのは――冷酷な無関心。
その沈黙は、彼の存在そのものを否定するものだった。
まるで最初から、ヴォーグなど存在しなかったかのように。
その場の空気すべてが語っていた。
お前はもう――神ではない。
奇跡を信じ、祈りを捧げてきた人々は、ただ静かにその光景を見つめていた。
彼らが崇めてきた神――その仮面の下に隠されていた、飢えと欺瞞にまみれたただの人間という現実。
それはあまりにも残酷で、あまりにも哀れだった。
だが、誰一人として声を上げなかった。怒りも嘲笑もなかった。ただ、静かに――まるで遠い過去の亡霊を弔うように――その男の末路を見届けていた。
ヴォーグの肩が、小さく震える。
全身から力が抜け落ちるように、膝ががくりと折れた。
その瞬間、かつて威厳を装い、荘厳に玉座へと君臨していた男の姿は崩れ落ち、地に膝をついたその姿は、もはや神でも偶像でもなかった。
声も、光も、栄光もない。
ただそこにあるのは、正体を暴かれた˝ただの男˝の、哀れで惨めな現実。
「ぅ、うああああああああッ!!」
突如として広場に響いた、喉を裂くような叫び。
ヴォーグは両手を頭へとやり、己の額に巻かれていた黒い布を、掻き毟るようにして引きちぎった。
それはかつて邪神であることを象徴する印であり、信仰の象徴であり、自らを偽り続けるために用いた虚飾の証でもあった。
だが今、それは地に落ちる。泥に塗れ、濡れた石畳に貼りつき、何の意味も持たぬ布切れへと成り果てた。
もはや、彼を神と信じる者はいない。
彼自身すらも。
ヴォーグは、吠えるように喘ぎながら、よろめく足で広場の隅へと駆け出した。
彼の背には、もはや神の威厳も、宗教的カリスマも宿っていない。
見栄えのいい法衣も、その挙動も、あまりに滑稽で――見る者の心に、言葉にならぬ哀れみすら呼び起こすほどだった。
小さく、情けなく、そして――滑稽。
それは、全てを失った男の背中だった。
誰も追わなかった。
誰も、声をかけようとはしなかった。
広場を包む沈黙の中で、ただ一つだけ変わらぬものがあった。
本物の邪神――クトゥル。
無言のまま、全てを見下ろすようにその場に立ち続ける異形の神性。
世界が沈黙に飲まれてもなお、崩れぬその姿は、まさに˝真実˝そのものだった。
やがて、まるで風がひと吹き通り抜けたように、静まり返っていた広場に、ざわめきが戻り始めた。
最初は、囁きだった。
戸惑いに満ちた微かな息づかい。信仰の喪失を恐れ、失ったものを埋めようとするような震える声。
そして、そのざわめきは、少しずつ――確かに、熱を帯び始める。
一人の中年の男が、肩を震わせながらゆっくりと手を組み、震える膝で地にひれ伏した。
ぎこちないその動作には、疑いも、羞恥もなかった。ただ、信仰へとすがるような、真摯な祈りがあった。
やがて、若い男が空を仰ぎ見る。
その瞳に浮かんだのは、失われた信仰ではなかった。
それは、新たに芽吹いた、確信。
堰を切ったように溢れる涙が、彼の頬を濡らしていく。
「……あの御方こそ…本物の邪神様っ……」
誰かが呟いたその言葉が、静けさを打ち破る。
まるで、聖なる火種が落とされたかのように。
そのひとことが導火線となり、信仰という名の熱狂が、観衆の中に燃え広がっていく。
嗚咽が漏れ、祈りが生まれ、崇拝の言葉が交錯し、膝をつく音が次々と石畳を打つ。
滑稽に逃げ去った男の影は、もはやこの場に存在しなかった。
今、この広場に在るのは――真なる神性だけ。
その神を見上げ、民は、新たなる信仰に身を委ねる。
「混沌の邪神…クトゥル様……!」
誰かが、震えるような声でその名を呼んだ。
それは祈りにも似た叫びであり、深淵をのぞき見た者の歓喜であり、同時に理性を喰われた者の畏怖の告白でもあった。
広場に満ちたその響きは、やがて連鎖するようにして波紋となり、民衆の間に広がっていく。
偽神に捧げられていたはずの祈りは、今や一切の迷いなく、混沌の邪神――クトゥルへと向けられていた。
その場にいる誰もが、直感していた。
この地に降り立ったのは、まごうことなき˝本物˝であると。
世界――ウロボロスの常識も、理も、信仰さえも否定する力を持つ――圧倒的な存在が、いままさに彼らの前に立っているのだと。
群衆は歓喜し、膝を折り、ある者は泣き、ある者はただ見上げて震えていた。
だがその狂乱の渦のただ中にあって、あくまでも静かに、騒ぎから一歩隔てるようにして立っていた者たちがいる。
三人の従者。
ティファーは、そんな熱狂に眉一つ動かすことなく、わずかに唇を歪めた。
そのプラチナブロンドの髪が冷たい風に揺れ、瞳に浮かぶのは、淡い侮蔑と飽きの色。
またかと言いたげに肩をすくめ、狂信に染まる民たちを眺める彼女の姿は、まるで信仰という病に慣れきった観察者のようだった。
ルドラヴェールは、獣のごときしなやかな肉体を静かに揺らしながら、ヴォーグが逃げ去った方角に視線を向け続けていた。
虎を思わせるしなやかさと、圧倒的な筋肉の張り。
その獣瞳には、もはや警戒ではなく、むしろ去り際の男への――獲物を見るような、静かな興味が宿っていた。
地を踏む爪先が小さく石畳を擦り、その身はいつでも走り出せるように力を溜めている。
しかし、彼女は動かない。ただ、命ずる声を待っていた。
そのとき――静寂を切り裂くように、一歩。
エリザベートが、広場の中心へと歩み出た。
混沌のローブが地を這い、その身に纏う赤黒の布は、炎のように揺れる。
主を見上げる彼女の目は、血のように赤く、どこまでも澄んでいた。
その声は、静謐でありながら、異様なほど美しく、神託を請う巫女のような響きを持っていた。
「クトゥル様…放置してもよろしいのですか…?」
その問いは、命令を求めるものではない。ただ、神の御意を仰ぐだけの純粋な信頼から生まれた問い。
クトゥルは、何のためらいも見せず、広場を包む熱狂にも無関心に、片手をゆるやかに上げた。
「所詮、穢れた魂だ。手を下すまでもない…(どうせ、天罰が下るだろうな…人を騙してるんだから…って俺も騙してるのか…)」
その声は、まるで天から降り注ぐ冷たい裁きの如き静けさを孕んでいた。
熱狂とは対極にある、静謐なる威圧。
だが、その一言こそが、人の魂を縛るのだ。
ルドラヴェールが鼻をひくつかせ、低く、喉を鳴らした。
それは、主の判断を肯定するかのような、満足の音。
唸ることなく、咆哮することなく、それでも確かに、その場の空気が一つ震えた。
名が呼ばれ、崇められ、地に響き渡る。
――クトゥル=ノワール・ル=ファルザス様と。
―――
そして、その日の夜。
星々が冷たく輝く夜空の下、カランティア郊外の草原には静寂が広がっていた。
月は雲間を漂いながら淡い光を落とし、風が草を揺らしては消える。生命の気配など微塵もない、ひたすらに広く、寂寥に満ちた原野――。
だが、その無人の風景の中に、ぽつりと一つだけ異質な影があった。
ヴォーグだった。
かつて「邪神」を名乗った男は、泥に汚れた装束のまま、草の上に膝をつき、肩を激しく上下させていた。
無様に走り続けた果て、ようやくたどり着いた逃走の終着点。
その呼吸は荒く、吐息は白く、額からは汗が滴り、髪にまとわりついた泥が冷たく肌を刺している。
「はぁ……はぁ……っ……」
彼の身体からは、神聖さの欠片も感じられなかった。
信仰を語った男の残滓にあるのは、ただの人間としての哀れさだけ。
だが――静寂を裂く音が、彼の鼓膜を打った。
ざっ…ざっ…。
乾いた草を踏みしめる足音。小刻みに近づいてくる、それは一人分ではない。
風が鳴く。草がざわめく。そして――月光が雲の隙間から差し込んだ。
淡い光の中に浮かび上がる、複数の人影。
「……っ」
ヴォーグの目が見開かれる。
その顔が、引きつったように歪む。
そこに立っていたのは、彼にかつて跪き、額を地に擦りつけて祈りを捧げていた者たち。
かつての信徒。信仰に縋った人間たち――いや、裏切られた者たちだった。
「邪神様…いや…?…偽りの神…ヴォーグさんよォ……」
先頭に立つ一人の男が、月光に照らされながら一歩前へ出た。
筋骨隆々とした腕に浮かぶ血管が、憤怒により脈打っている。
彼は拳をゆっくりと握りしめ、そのままポキリ…と骨を鳴らした。
「よくも、俺たちを騙してくれたな…?」
その声は低く、だが怒りに満ちていた。
すると背後から、別の男が声を張り上げる。
彼の顔は紅潮し、眼は涙で滲み、それでも怒りのままに叫んだ。
「『何がお布施を我に捧げよ』だっ!!」
「俺……人生捧げたんだぞ……!」
怒声。罵声。慟哭。
それぞれの感情が、夜の原野にぶつけられていく。
風さえも一瞬、音を止めたように、重苦しい空気がその場を包む。
ヴォーグは口を開けるが、言葉が出ない。
逃げ出そうにも、足が動かない。
ただ膝をついたまま、震える手を必死に合わせ、悲鳴のような叫びを絞り出した。
「す、すまないっ…わ、悪気があったわけじゃ――!」
その懇願は、最後まで口にされることはなかった。
「うるせえええええええええええええ!!」
怒りに染まった咆哮が夜を裂いた。
次の瞬間、怒りに震える拳が容赦なく振り下ろされた。
頬を打ち、腹を蹴り、倒れたヴォーグに、なおも拳と足が降り注ぐ。
草原に響くのは、かつて神を騙った男の断末魔――。
そして、怒りと絶望に濡れた拳が肉を打つ、鈍く、重たい音。
月光はそのすべてを見下ろしながら、ただ静かに草を照らしていた。
音もなく吹き抜ける風が、血の匂いをさらっていく。
だが、その記憶だけは、静かに、草と土と共に、そこに染みこんでいった。
――偽りの神は、信仰の名のもとに裁かれた。
―――
一方その頃――カランティアの広場。
日中に巻き起こった熱狂の余韻が、なお空気に濃く残っていた。
陽はすでに地平の向こうへ沈み、空は群青に染まりつつあるというのに、広場にはいまだ多くの人々が留まり、興奮冷めやらぬ様子で語り合っていた。
誰もが口にするのは、ただ一つ。
現れた˝真なる神˝――クトゥルのことだった。
まばゆい奇跡、圧倒的な存在感、語られた言葉の重み。
それらは人々の心を揺さぶり、根底から何かを変えていた。
誰もがその光景を、幻ではなく「現実」として受け入れ始めていた。
「神殿を……建てるべきでは?」
ぽつりと。
そんな声が、人混みの中から聞こえた。
誰とも知れぬ一人が発した呟き――だが、それは乾いた草原に投じられた火種のように、たちまち燃え広がっていく。
「…先ほどまで、嘘つきを神として崇めてたんだ…もしかしたら…邪神様の祟りが起きるかも、しれん…」
恐れと信仰がないまぜになった言葉に、周囲の人々がざわめく。
そしてすぐに、広場のあちこちから賛同の声が上がり始めた。
「我らの信仰を示すべきだ!」
「そうだ、混沌の神クトゥル様の神殿を!」
徐々に広場の中心に人々が集まり、真なる神を讃えるように中央に描かれた紋章を囲む。
その姿は、まるで儀式の始まりを予感させるようだった。
高ぶる信仰心は、ただの歓声では収まらず、やがて具体的な議論へと姿を変える。
神殿をどこに建てるべきか。どの職人に頼むべきか。神への奉納儀式には何が必要か――。
言葉が、熱意が、集まっていく。
ひとつの熱狂が、新たな宗教の胎動へと昇華していく。
――こうして、カランティアの広場はただの偶像崇拝の場ではなく、真なる神クトゥルの聖域へと至る、確かな第一歩を踏み出したのだった。
かつて「神」と称した男は、すでに夜の闇の中に葬られ。
新たにやって来た混沌の存在は、いまや信仰と希望の象徴として、人々の心の中心に立っていた。
だが――彼らはまだ、知らない。
その混沌の邪神が、ただのハッタリと虚勢で戦う者に過ぎないということを。
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