魔族の集落④
「けっ…、魔族どもが大人しくなったなぁ…」
広場に響く嘲笑混じりの声。
それを発したのは、数人の男たち。彼らは冒険者の装いをしていたが、その言動には品格も誇りもなかった。
ギルドタグを手首に付けているものの、その動きには洗練された戦士のものではなく、粗野で荒っぽい。
彼らは、ただの野盗だった。
屈辱に震えるように、ルーナは歯を食いしばる。
「…冒険者め…みんなを…あんな目にっ……」
瞳に怒りを宿しながらも、その声は弱々しかった。
かつては同じ魔族として共に暮らしていた仲間たち。
彼女を弄ぶかのように縛りつけ、辱めるこの者たちを、どうして許せるだろうか。
「……あれは、冒険者ではないわね…単なる野盗よ…」
低い吐息と共に、エリザベートは冷ややかに言い放つ。
その瞳には、まるで虫けらでも見るような軽蔑が浮かんでいた。
一方、クトゥルは内心、驚いていた。
「(え、そうなの…?どうみても、冒険者じゃん…手首にだってタグ付けてるし…)」
冒険者というものがどんな存在なのか、よく分かっていなかった彼にとって、ギルドタグを持つ者は皆、同じ存在だと思っていた。
だが、何も知らないとは言えない。
「ふっ…一目見た時から分かっていたぞ…奴らの魂は穢れ、そして弱い…」
当然だと言わんばかりに、腕を組んで堂々と頷く。
「グル…冒険者デハナイ只ノ野盗カ…クトゥル様ノ手ヲ煩ワセル存在デハナイナ…」
ルドラヴェールが低く唸る。
まるで獲物を見定める捕食者のように、静かに敵を見据えている。
「えぇ…そうね…」
エリザベートは不敵に微笑む。
圧倒的な力を持つ彼女にとって、この場の敵など取るに足らない存在に過ぎなかった。
「確かに…お前たちに任せよう……(よっしゃっ!!今回…俺、戦わなくても良さげっ!?)」
クトゥルの心の中では、喜びのガッツポーズが炸裂していた。
戦わずして勝てるなら、それに越したことはない。
だが、その思考を隠し、あくまで威厳を保つように重々しく口を開いた。
「さて…そろそろ、穢れた魂たちと出会うとするか……」
その言葉と共に、クトゥルの身体がわずかに震えた。
人間の形をしていた身体が、次第に球体となり、膨れ上がっていく。
肉が捻れ、骨が軋む音が空気を震わせた。
球体へと変化した肉塊が脈動し、異形の姿へと変貌する。
無数のトゲのついた触手が体から伸びていき、赤い眼が暗闇の中で鈍く光る。
邪神クトゥルが、真の姿に戻っていく。。
「さあ――」
邪神の姿をまとい、クトゥルはゆっくりと集落の入口へ歩を進める。
その後ろにエリザベート、ルドラヴェール、ルーナが続く。
闇が、静かに蠢き始めた。
「我の所有物を取り戻す戯れに望むとしよう――」
―――
死んだような目をした魔族たちは、ただ地面を見つめていた。
「…っ…」
希望を断たれた者たちに、もはや天を仰ぐ気力は残されていない。
彼女らは、互いに連結されるように荒縄で縛られ、逃げることすら許されていなかった。
数日間にわたる辱めと虐待が、精神を削り、肉体を削った。
痩せ細った体には無数の傷が走り、かつて誇り高かったはずの彼女らの面影は、そこにはない。
あまりの苦痛に耐えきれず、自ら命を絶った獣人の魔族の亡骸が、すぐそばに横たわっていた。
本来なら悲しみにくれるのだが、誰も見向きもしない。泣くことすらできない。
悲しみを感じる心すら、すでに死んでいた。
その中で、ノクスの体もまた、見る影もなく衰弱していた。
元々華奢だった体はさらに痩せ細り、頬はこけ、骨ばった指が震えていた。
力なくうつむき、体全体が青あざ、むち打ちの痕、様々傷を負った。
「くちゃ…くちゃ♪へへ♪」
それをしたのは、今も椅子に座り肉を齧る脂ぎった女頭領――グリザリーナ。
肉を齧りながら、舐めるような目をノクスに向けている。
彼女は朝・昼・晩関係なく、彼を肉体的にも精神的にも傷つけた。
ノクス自身、命を絶とうとすら思った。
だが、出来なかった。
まだ死ぬわけには行かない。
今は絶望的だが、今後の未来。大切な妹にまた出会えると信じているからだ。
ダークエルフは寿命が長い。
数十年などあっと言う間だ。
絶対に妹のルーナと再会してまた、楽しい日々に戻るために…
―――
「なぁ、このこいら、売れると思うか?」
唐突に聞こえた男の声に、魔族たちの体が微かに震えた。
「当然だろう…?前に売った獣人のババアの値段知ってるか?銀貨1枚だぜ…?」
「うおっ…マジかよ…今回は若いの多いし…」
「あぁ♪金はたんまりだ♪」
「女は売れるけど、これはどうだ…?」
「っ…」
男の1人がノクスの耳をぐっと引っ張る、歯を食いしばり耐えることしかできない。
「うーん…ダークエルフの男だろ…?マニアには売れるんじゃね?」
別の男が、嗜虐的な笑みを浮かべながら応じる。
「…頭みたいなショタ好きや、男好きの貴族の慰み者になるだろうよ」
「うっわ…男として…そりゃキツいな」
「言えてる…あはは♪」
彼らの嘲笑が響き渡る。
ノクスの唇が小さく震え、怒りと悲しみが入り混じった表情を浮かべた。
屈辱。恐怖。
そして、ただひたすらに、やるせない絶望。
「ノクス…ノクスっ!」
どこか遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえた。
ノクスは、それを幻聴だと思った。
空腹と疲労、絶え間ない暴力が、ついに自分の精神を壊したのだろうと。
だが――
顔を上げた。
目の前に、居るはずのない者がいた。
魔族の里の入口に、風に揺れる自分と同じ灰色の髪に金色の目――。
「…ル、ルー…ナ…?」
彼のかすれた声が、朝の静寂に溶けた。
ルーナは息を呑み、瞳を潤ませながら叫ぶ。
「ノクスっ!」
「な、何で…」
「助けに来たのっ…邪神クトゥル様のお力を借りてっ…あたしたち…助かるよっ!」
ルーナの言葉が、まるで雷のようにノクスの脳内に響いた。
信じられない思いで、彼はその背後を見た。
ルーナは、頭を垂れ、一歩後ずさる。
彼女の前には、三つの影が立っていた。
「グルゥ…」
「…」
巨大な魔獣、圧倒的な気配を放つ魔族の女、そして――
異形の存在。
それを見た瞬間、ノクスはただただ、その存在に意識を集中した。
無数の目が天を見据え、赤黒い触手が蠢き、圧倒的な威圧感が広場を満たしていく。
闇そのものが形を持ったような存在。
異形でありながら、そこには絶対的な神格があった。
ノクスの喉が震える。
自然と祈るように手を組む。
その禍々しくも神聖な存在の前に、ノクスは無意識のうちにひれ伏していた。
「……神だ……」
震える声で呟き、ノクスは静かに膝をつき、地面に額を押し付けた。
「ククク…愚かなる者どもよ」
低く響く、邪神の声。
その言葉が、空気に溶けるように広がっていった。
―――
「…(とりあえず、オール・オブ・ラグナロク使ってっと)」
曇りを見たクトゥルは、雷鳴の効果音を響かせる。
ゴロゴロゴロッ!
「っ!な、何だっ!?ありゃっ!」
「ば、バケモンっ!?」
「か、頭っ…あ、あれは何ですっ!」
「し、知るわけないだろっ…!?」
「(うわ、思ったより怖がってる…これなら…俺でも勝て…いや、無理だな…)」
クトゥルは内心の安堵を必死に隠しながら、威厳を保つようにゆっくりと両腕を広げた。
その動きに合わせて、周囲の空気が張り詰める。
無数の眼が闇の中で蠢き、異形の触手が地を這うたびに、不吉な音が響いた。
「愚かなりし人の子よ。我が所有物に手をかけた罪、贖えぬ業(カルマ)なりっ――」
クトゥルの声は、静かに、しかし確実に周囲を圧倒する力を持っていた。
捕らえられた魔族たちもが、震え上がり、囚人を縛っていた男たちも、冷たい汗を流し始める。
そして、クトゥルは堂々と宣言した。
「だが、貴様たちは、取るに足らぬ塵にすぎぬ。我が手を煩わせるまでもない…」
クトゥルの言葉を受けて、エリザベートが満足げに微笑んだ。
彼女の口元には、嗜虐的な喜びが滲んでいる。
「クトゥル様…虫ケラの駆除。この私に――」
彼女の目が光り、今にも血を求めようとしていた。
しかし、その言葉を遮るように、一つの影が堂々と前に出る。
漆黒の縞模様に炎のように赤い毛並みにエメラルドグリーンの瞳が冷たい光を宿す。
魔獣――ルドラヴェールだ。
「グルルッ…エリザベート殿…今回ハ俺二戦イヲ譲ッテイタダイテモ…?」
彼の刃のような尾が静かに揺れる。
「…は…?」
一瞬、空気が張り詰めた。
エリザベートの鋭い視線が、ルドラヴェールに向けられる。
彼女の口元の笑みは消え、ピンクの唇が僅かに歪んだ。
クトゥルは、その様子を横目で見つつ、内心びくついていた。
「(うぅ…エリザベート…怖いって…うーん。ルドラヴェールの力を見たいし…よし…)」
彼は一拍置いてから、慎重に口を開いた。
「この戯れ、お前に任せよう――ルドラヴェールよ…。」
その瞬間、ルドラヴェールの口角が大きく吊り上がる。
エメラルドグリーンの瞳が細まり、牙を覗かせるように笑った。
「ハッ。此度ノ戦場二テ、存分二振イマショウッ!!」
彼の声が響くと、周囲の空気がさらに重くなる。
まるで嵐の前触れのように、冷たく鋭い緊張感が走る。
クトゥルはゆっくりと頷く。
「……むぅ」
ルドラヴェールが指名されたことで、エリザベートは微かに頬を膨らませた。
その表情には、不満が滲んでいる。
信仰する神に対しての疑念や怒りではない。
――ただ、嫉妬だった。
自らの手で、敵を屠る機会を奪われたことへの、純粋な悔しさ。
崇拝する神に褒められたいと言う我がまま。
普段は冷静で大人びた彼女が、子供っぽい拗ねた顔をしている。
クトゥルはそれを見て、心の中で笑いを堪えた。
「エリザベート…次の戦闘はお前に任せる…今はルドラヴェールに譲るのだ。」
クトゥルの言葉に、エリザベートは唇を噛みしめる。
そして、しばらく逡巡した後、笑みを浮かべる。
「っ…分かりましたっ…」
クトゥルは、安堵しながらも、内心でガッツポーズを取る。
「(よしっ…これで、次はエリザベートに戦闘を任せることができるっ!)」
そんな彼の思惑をよそに、ルドラヴェールは目を細め、静かに呟いた。
「グルゥ…久シ振リノ戦闘…血ガ騒グ…」
その言葉とともに、一歩、また一歩と前へ進み出る。
周囲の空気が一変した。
まるで獲物を狩る獣のように、彼はゆっくりと姿勢を低くしながら、獲物を見据える。
牙を剥き、赤い毛並みが逆立ち、エメラルドグリーンの瞳が戦意を漲らせる。
クトゥルは彼を見ながら、口元に薄い笑みを浮かべ、静かに宣言した。
「さぁ、存分に踊るがいい、ルドラヴェールよ」
その言葉が合図となり、血戦の幕が切って落とされた。
―――
野盗たちは一斉に武器を構えた。
鋭く研がれた剣が抜かれ、斧の刃が陽光を反射して鈍く光る。
槍の穂先が僅かに揺れ、弓を番えた者たちは弦を引き絞りながら、油断なく狙いを定めた。
彼らの動きには焦りがあったが、それでもなお、野盗たちは必死に虚勢を張ろうとした。
手首につけられたギルドタグを高々と掲げ、武器を誇示する。
その姿は、弱者が自らを大きく見せようとするかのような、滑稽なものだった。
「み、見ろ!俺たちはれっきとしたギルド所属の冒険者だ!わかってんのか、俺らを殺せば、ギルドがお前らを襲うぞ!!」
先頭に立つ男が叫ぶ。
その声にはどこか震えが混じっていたが、それを誤魔化すように大声を張り上げる。
周囲の野盗たちも同調するように、唾を飛ばしながら威嚇の言葉を投げかけた。
一瞬、クトゥルの思考が止まる。
「(えっ、それはまずいのでは…?ギルドって結構デカい組織だったよな…?いや、待てよ…)」
彼は急速に思考を巡らせた。
確かに、ギルドの所属者を殺せば、報復を受ける可能性がある。
それは大きなリスクとなりうる。
だが――
「(あ、野盗だから大丈夫か。この野郎…俺にハッタリしかけやがって
…ハッタリは俺だけのスキルだぞっ)」
この男たちは、確かにギルドタグを持っている。
だが、それは「ギルドに属する冒険者」ではなく、「ギルドタグを買い取っただけの野盗」にすぎない。
野盗が討伐されることは珍しくもない。
――問題なし。
クトゥルは内心で結論を下し、ほっと胸をなで下ろした。
だが、そんな彼の思考など関係なく、ルドラヴェールは静かに前へと踏み出す。
焦る野盗たちとは対照的に、その動きには一切の迷いがなかった。
前足を一歩、ゆっくりと地面に置く。
音はない。
だが、その足が地を踏むたびに、まるで空気そのものが変質していくような錯覚すら覚えた。
彼のエメラルドグリーンの瞳が光り、低く唸る。
じり…じり…と、確実に野盗たちとの距離を詰めていく。
「っ…く、来るなっ…」
「はぁ…はぁっ…」
脅しが通じないことが分かり、恐怖が、広がり始めた。
野盗たちの手が震え、握りしめた武器がかすかに音を立てる。
彼らはまだ戦意を失っていないつもりでいた。
だが、その心はすでに怯え、逃げ出す理由を探し始めている。
そして――
ルドラヴェールの口角が、不敵に吊り上がった。
「狩リノ時間ダ…グル…」
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