荒野の魔獣⑤
風が、乾いていた。
まるでこの地から命の名残をすべて吸い上げたかのように、空気はひどく軽く、冷たかった。
かつて栄華を誇った王国の痕跡を砂塵に沈め、無数の死者を抱えた大地――死者の荒野。
そこには、時間さえも沈黙し、夜の帳が静かに降りていた。
黒いシルエットのように浮かび上がる三つの影のうち、ひとつ――
細身の少女が、ボロついた服の裾を掴み直しながら足を止める。
名前はミナ。
彼女の肩が微かに震えていた。
風が吹いたのではない。恐怖が、体の芯を冷やしていたのだ。
「…ね、ねえ、本当に行くの、ロイ…?」
か細い声だったが、どこか焦りを押し隠すように、わずかな強がりが滲んでいた。
声をかけた相手は、数歩先を歩く青年――ロイ。
彼は振り返らない。
結わえた赤毛が月光を受け、鈍く反射する。
その背中には気負いが色濃く滲み出ていた。
足取りは力強いが、それが逆に不安を際立たせる。
「だって、ここで引き下がったら、いつまでたっても俺たちブロンズのままだろっ…」
言葉には確かな熱が宿っていた。
だが、それは空回りにも近い、焦燥と過信の混合だった。
「俺は早くランクを上げたいんだ…シルバー、ゴールド…いやダイヤモンドにっ。」
彼の一歩ごとに、地面の灰が舞い上がる。
その灰の下には、かつて人の営みがあったなど想像できぬほど、何も残されていない。
さらに遅れて歩いていた青年――ゲルが、杖を握り直しながらぽつりと呟いた。
「それでも、俺たち……ゴールドランク冒険者向けの魔獣に太刀打ちできるほど強くないって、お前もわかってるはずだろ……」
声は低く、諦念と恐れが滲んでいた。
手のひらには汗が滲み、長い杖はその滑りでわずかに傾く。
だがそれでも、彼の足は止まらなかった。止まれば、何かが崩れてしまう気がしていた。
死者の荒野――
地図には確かにその名が記されている。
だが、旅人も冒険者も、そこについて語ることを避けた。
語り継がれるのは、かつて存在した王国が何かに呑まれ、灰となって消えたという曖昧な記憶だけ。
今ではそこは、猛獣や魔獣の棲む地とされ、長らく踏み入れる者はいなかった。
そして今、彼らが向かおうとしている標的――
それはその荒野の中でも、格別の存在として名を馳せる魔獣だった。
《ティグリス・グラディウス》。
地に潜み、音もなく襲い来る剣虎の化け物。
ゴールドランクの討伐依頼にすら、達成者の名はまばらにしか刻まれていない。
そして何より、未帰還者の数がそれを遥かに上回っているのだ。
それでもロイは、振り返らなかった。
強さを、名声を、証を。
そのすべてを得るために、この荒野に足を踏み入れた。
―――
「ここら辺にいるか…?」
ロイのつぶやきが、夜気に沈んだ。
空は澄んでいるのに、月の光は地を照らすことを拒んでいるようだった。
死者の荒野。その一角を、三つの影が慎重に進んでいく。
「はぁ…居る訳ないでしょ。まだ死者の荒野に入って数キロ程度よ…」
すかさず返したのはミナ。
その声には呆れと、不安を隠すための苛立ちがにじんでいた。
手にした短弓の弦が、微かに震えている。彼女の心が揺れている証だった。
だがその時――
ロイの足が、唐突に止まった。
不意に立ち止まった彼の横顔が、月明かりの下に浮かび上がる。
その表情は強張っていた。
唇の血色が失われたように見え、喉元をひくりと動かしている。
「……あ、あれ、見ろ…」
彼が顎で示す先。
ミナとゲルは顔を見合わせ、風の流れに逆らうようにして、その裂けた地形の隙間をのぞき込んだ。
そこには、三つの影があった。
一つは……見る者の本能に恐怖を叩き込む、圧倒的な存在感を持っていた。
赤い体毛に黒の縞。岩をも砕きかねぬ太い四肢。
咆哮を発せずとも牙が咆えるような圧を持ち、月明かりを反射する尾が、まるで刃のように地に突き立っていた。
――それが、ティグリス・グラディウス。
死者の荒野に巣食う、ゴールドランク級の魔獣。その姿が、今まさに目の前にあった。
だが――問題はそれだけではない。
その傍らにいた二つの影。
焚き火の赤に照らされていたのは、明らかに人間だった。
一人は男、もう一人は女。
二人は魔獣の背に寄りかかるように座り、静かに火を囲んでいた。
その情景は、あまりにも異常だった。
「……ど、どういう……こと…?い、意味分かんない…。」
ミナの声が震えた。
彼女の視線が、獣ではなく、火を囲む人影に引き寄せられている。
理解不能な光景に、思考が追いつかない。
ティグリス・グラディウスは、死者の荒野の最奥部に棲むとされていた。
それが、なぜここに?
そして、なぜ人間が魔獣と一緒に――焚き火を囲んでいる?
何がどうなっているのか、理解できない。
だが、理屈よりも早く、本能が告げていた。
――これは、近づいてはならない。
「無理……無理だよ、引こう、ね、今すぐ……!」
ミナがゲルの袖を引いた。
その手が、冷たいほど強く震えていた。
ゲルもまた、動けないまま視線だけを動かしている。
しかし、次の瞬間だった。
ロイの背が、小さく、けれど確かに跳ねた。
「待て……あれ、あの二人……!」
その声が変わった。
混乱から、確信へ。そこには焦りと共に、何かを決断する気配があった。
「助けなきゃ!」
刹那、ロイが岩陰を蹴り、飛び出した。
「お、おいバカやめ――!」
ゲルの叫びは虚空に消え、砂塵に掻き消される。
ミナとゲルは、仕方なくその後を追うしかなかった。
三人の若者が、灰を巻き上げながら走る。
風の中に、焦りと若さの匂いが混じった足音が響く。
―――
砂に満ちた夜の静寂を破るように、ロイの叫び声が荒野に響いた。
「そこの二人、大丈夫か!?今すぐ逃げ――!」
しかしその声は、まるで音が音であることを拒むような静寂に呑まれた。
返事はなかった。ただ、焚き火の赤い光が、夜気の中で二つの影を照らしていた。
一人は、長い黒髪を背に垂らした女性だった。
有機物的なローブの裾が炎に照らされ、淡紅の瞳に焔の揺らめきが反射している。
整った造形の顔には、驚きも警戒も見えず、ただの無表情が張り付いていた。
もう一人――
その隣に腰かける少年は、存在そのものが異質だった。
漆黒の髪、漆黒の衣服。
それは夜の色ではなく、闇そのもの。
肌は月の光を拒むかのように浅黒く冷たく、まるでこの世界の質量に属していないかのようだった。
二人は焚き火を背に、ゆっくりとロイの方へ顔を傾けた。
その視線に敵意はない。
ただ、あまりにも無関心だった。
――何をそんなに焦っているのか?
声には出さず、表情にも出さず。だが確かにそう問いかけてくるような、異様な静けさがそこにあった。
「な、なんで……逃げないんだよ……!」
ロイの声はかすれた。
彼は思考を止められたまま、砂の上で立ちすくむ。
想定していたすべてが、通用しない世界に来てしまったような感覚だった。
その背後から、ミナとゲルが息を切らして追いついた。
彼らの顔には、焦燥と恐怖が混ざっていた。
ミナは即座にロイの腕を掴み、力を込めて引き戻そうとした。
「ロイっ…ダメだって!こいつら、普通じゃない!」
ゲルもまた、震える声で叫ぶ。
「早く戻ろう!あの魔獣、すぐ動き出すかもしれないんだぞ!」
彼らの視線の先、焚き火の傍には――
ティグリス・グラディウスがいた。
あの魔獣が。
伝説の如きその恐怖が。
今、確かにそこに。しかも人間二人に囲まれて――穏やかに、静かに、横たわっている。
荒野に吹く風が、灰を巻き上げて彼らの足元をかすめる。
だが、誰も動かない。
あまりにも現実離れしたその光景が、ロイたちの常識を根こそぎ奪っていた。
ロイは混乱のただ中にいた。
心が、理屈を手放す。
今まで信じてきた死者の荒野の掟が、眼前の景色に一つ残らず打ち砕かれていくのを、ただ見ているしかなかった。
そして――
少年が、わずかに振り返った。
その瞬間、雷鳴のような衝撃がロイの背骨を駆け上がった。
息が詰まる。
皮膚が粟立つ。
脳が警鐘を鳴らすよりも先に、本能が凍りついていた。
顔立ちは、確かに人間に見えた。
だが、違った。
目が合っただけで、胸の奥が不気味にざわついた。
漆黒の瞳。
深淵そのもののような視線。
その中には感情の波一つなく、ただすべてを見透かすような、静謐な闇があった。
言葉にできない。
理解も追いつかない。
だが確かに、心が叫んでいた。
――こいつは、何かが違う。
「……っ、ミナ、ゲル、下がれ」
背後にいた二人が、ぴくりと身をこわばらせた。
「は!?バカっ…やめ――!」
ミナの制止も届かない。
ロイはその声を無視して、腰の剣を抜いた。
鋼が大きさの鞘を擦り、甲高い音を夜に響かせた。
まるで、その音だけが唯一この世界で現実だと主張しているかのようだった。
焚き火が、ちらりと揺れる。
構えた剣を握るロイの手は、わずかに震えていた。
それでも彼の目は、怯えを押し殺しながらも真っすぐに少年へと向けられていた。
「お、お前たちっ…その魔獣と、どういう関係なんだっ…。」
問う声は、震えを隠せなかった。
だが、それは恐怖に飲まれきっていない証でもある。
勇気とは、恐怖を抱えたまま前に出ることなのだ。
少年――クトゥルは答えなかった。
ただ、静かに笑った。
その笑みは、まるで現実の論理を滑り落ちていくような不気味さを孕んでいた。
人のものとは違う。
敵意も善意もなく、ただ存在しているというだけで、空気が歪む。
焚き火の灯りすら、彼の周囲だけは重たく屈折しているように見えた。
エリザベートが、焚き火の明かりの中で静かに瞳を細めた。
口元に浮かぶ微笑は、まるで舞台の幕が上がる前のような、凪いだ余裕を漂わせている。
その刹那――
「フン…俺トクトゥル様ノ関係ダト…?」
低く、地を擦るような声音が夜を裂いた。
次の瞬間――魔獣ルドラヴェールが動いた。
その動きには、音という概念すらなかった。
金属のような光沢を宿す漆黒の筋肉と、鉱石を思わせる重厚な体毛が、月光を僅かに跳ね返す。
星空の下、闇を裂くようにして、その巨躯がゆっくりと、威厳を湛えて頭を持ち上げた。
ティグリス・グラディウス――
かつて幾つもの集落を滅ぼしたとされる、牙に刃を宿す伝説の魔獣。
その瞳が、ぎらつく双眸が、確かにロイを捉えていた。
「コノ方ハ、俺ノ˝主˝ダ」
その言葉が吐き出された瞬間――
風が、止んだ。
それは比喩ではない。
夜風が途切れ、草のざわめきが消えた。
焚き火の煙すら、宙に浮いたまま静止したかのような錯覚に襲われる。
空気が凍りついたような緊張感。
世界が呼吸を止め、時間すらもその流れを捻じ曲げたかのようだった。
「(っ…ゴールドランク冒険者ですら、倒すことが厳しい魔獣の…主っ…)」
ロイの脳内で、理解が断絶する。
心臓が悲鳴を上げるように、耳の奥で激しく脈打った。
「(つまり…目の前の異質な少年は、ディグリス・グラディウスより…強いってことか…っ!?)」
その現実が、思考の許容量を超えていた。
少年にしか見えない存在が、魔獣を従える主であるという事実。
ミナとゲルも、何かを悟ったかのように身体の力を失い、指先から震えが広がっていく。
呼吸すら忘れ、ただ恐怖の支配下で凍りついていた。
だが――
何も、始まらなかった。
獣は咆哮しなかった。
牙も、爪も向けてはこなかった。
少年もまた、動かない。
その手は剣にすら届かず、ただ静かに、夜の帳に溶け込んでいた。
焚き火の炎だけが、唯一現実に引き戻すように、規則的な音を立てて揺れている。
まるで世界が、一つの均衡の上に、必死で均衡を保っているかのようだった。
そして、その不気味な静けさの中心に立つのは――
異質なる少年と、魔獣ルドラヴェール、そして謎めいた少女。
彼らは、ただそこにいるだけで、周囲の現実を問い直すような、そんな異界の存在だった。
彼らは、この世界に属していない。
そう思わずにはいられない――圧倒的な異常性が、そこにはあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます