第8話 ハルトという不穏

午前10時


僕は熱にうなされていて布団から出れないでいた。


「それでさ、物語ってのは大抵の場合、尻すぼみになるわけ。聞いてる?」

「聞いてるよ」

「だからさ、みんな主人公を殺しちゃったり、漫画ならバトルにしちゃったりさ。それを読者の求める形だと思ってるけど、きっと……聞いてる?」

「聞いてるって。物語は自殺かバトルに収束するんだろ」

「そうそう。それで名作ってのは……」


カズヤの声が聞き取りづらい。

僕の意識は一瞬ふわっと遠のいた。


「だからさ、ハルトももう前向いていけよ。いつまでも俺と一緒にはいれないだろ」

「そんなことないよ。僕はカズヤと居る時間が楽しくて」

「そうは言ってもさ、世間の目もあるだろう?」

「世間の目なんて!関係ないよ。僕はカズヤ、君と一緒に」

「ダメだね。悪いね、ハルト。僕はもう彼女と住むことが決まったんだよ」


「そんなこと言わないでよ」


ハッとして目を開けると、カズヤが僕を覗き込んでいた。


「自殺かバトルの話、嫌だった?」

「だから、聞いてたよ」

「嘘つけ。聞いてたら寝言で『そんなこと言わないでよ』なんて言わないだろう」


そうか、僕は寝ていたんだな。

きっとカズヤは、あんな冷たい別れ方はしないだろうな。

僕は、僕だけが知っていること……僕がカズヤの嘘に気付いている、そのことだけは胸にしまっていようと決めていた。


「熱は?」

「体温計取ってくれない?」

「はいよ」


そう言って彼は僕に体温計を手渡した。

脇に挟むとすぐにピピッと音が鳴る。


「38.5℃、熱だね」

「熱だな」

「うつるよ。帰りなよ」

「ハルトの風邪だろ?なら、かかってもいいよ」

「何だよそれ」

「むしろ増えてくれって感じ」


そういうと彼は笑って、僕にキスをした。

軽く唇が触れ合うような、そんな淡いキスだった。


僕は彼の胸元をキュッと握ると耳に口を近付けて「帰りなよ」と囁いた。


カズヤはゆっくりと僕から身体を離すと「帰ってあげないよ」と言いながらキッチンに向かった。


「うどんでも作るよ。寝てなよ」


僕は何だか切ないような、寂しいような……部屋には僕と哀愁の影がゆらめいているような、そんな気がした。


うつらうつらしていると、麺つゆの匂いが鼻をくすぐった。

甘い出汁の匂いが心地よい。


そして彼は、布団の横にこたつを寄せると「食えよ」と鍋を置いた。


「お椀は?」

「あ、忘れてた」


そう言って彼はまたキッチンへ戻り、おたまと菜箸、そしてゆるキャラの描かれた茶碗を持ってきた。

2人で選んで買った可愛いキャラクターの食器にほんの少しだけ、心をキュッとつままれたような気がした。


「いただきます」と僕は身体を起こして、うどんを啜った。

つゆの温かみが身体を巡る。


「うまいか?」

「うん。美味しいよ。ありがとう」

「良かった」


彼は満足げに鍋から直接うどんを食べ始めた。

こういうガサツさにカズヤらしさを強く感じる。


「ねえ」と不意に口をついて言葉が出た。


「どうした?気持ち悪いか?」

「違うけど、何でもないや」


歯切れの悪い僕の言葉をどう取ったのか、彼はそれ以上、追及することもなく黙ってうどんを口に運び「美味いな!」と笑った。


時計の音が響く中、僕らは寄り添って寝転がっていた。


「布団に入らないと寒いだろ。風邪引くよ」

「でも、ハルトは今風邪っぴきだろ?」

「気にしないって言ったのは自分じゃないか」

「俺が気にしなくてもハルトが寝れないと治らないじゃんか」

「そっか」


僕は、カズヤが布団に入ってこないのは、あの女の人が関わっているのだろうか、と勘繰ってしまう。

僕だって分かってる。では居られないことくらい。


やがてカズヤはスウスウと寝息を立て始めた。

穏やかで優しい寝顔に僕は心地よさを感じてしまう。

同時に、この恋の終わりの足音が聞こえるような気がして心臓の音が頭の中で反響する。


そして僕はゆっくりと目を閉じた。


僕は冬空の下、降りしきる雪を見ていた。

顔に降り注ぐ雪は、視界を埋めては溶けてを繰り返している。

遠くで母の声が聞こえる。

「おかえり。早く帰っておいで」

僕に手を振って笑っている。


母は僕が小学生の時に亡くなった。癌だった。

そして、父はその日を境に笑わなくなった。

ただ一人、酒を煽っては仏壇の母に話しかけていた。

そのうちに、僕は祖父母の家に引き取られて父に会う時間も減った。


すぐに駆け出して母を抱きしめて「ただいま」と声を掛けたい。けれど気持ちとは裏腹に脚が重くて動かない。


視線を下に向けるとそこには、地面を滑る細雪の中、女が僕の足に縋っている。


「どうして?」と女が呟く。

「なにが?」と僕が聞く。


「どうして、私を置いていくの」

「僕は君を置いていっているのかい?」

「そう。ハルトは先へ進んでしまうの?」

「僕は先へ進んでしまうのかい?」

「そうよ。そうなのよ。ねえ、私の名前を呼んで」

「僕には君が誰だか皆目見当も付かないんだ」


すると女の顔は醜く歪んで消えていった。


今度は「おーい」と今度は後ろから声がした。


そこにはカズヤが立っていて「こっちこいよ!ハルト!」と僕を呼んでいる。


僕は手を振る母と手招くカズヤとの間で、どちらにも進めないでいた。


僕が困り果てて空を見上げると、そこには嫌らしい顔を浮かべた男がいた。


「君はどこへ行くの?」と男が聞いた。

「僕は、どこかへ行くの?」と僕が答える。


「君は僕を置いていくの?」

「僕は君をも置いて先に行っているの?」

「いいや、君はきっと戻ってる」

「僕はどこに戻っているの?」

「ねえ、ハルト。僕の名前を呼んで」

「ごめんね。僕は君のことも皆目見当がつかないんだ」


すると男は少し満足したような顔をして消えていった。


そして僕が視線を戻した時、そこには母もカズヤの姿も消えていた。

降っていた雪もいつしか止んで、僕は独りぽつねんと佇んでいた。


そして、その姿を僕は遠くから見ていた。

僕は僕に気がつくと「君は誰?」と尋ねた。


「僕は、君だよ」と僕が答えると僕は「僕の名前を呼んで」と呟いた。


そして僕は「君は、ハルトだよ。カワゾエハルトだよ」と言った。


それから僕は寂しそうな顔をして歩き始めた。

僕を置いて、独り寂しく。


僕は、身体が何かに触れられている感触がした。

それは暖かくて心地よくて、とても安心する柔らかみを持っていた。


ふと僕が目を開けるとカズヤが布団に入って僕を抱きしめていた。


そして彼は相変わらずスウスウと寝息を立てている。


天井を見上げて僕は大きく息を吸った。


この壊れていく幸せを僕はいつまで抱いていられるだろうか。

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